異文化体験としての吃音 ―ナラティヴ・アプローチと当事者研究 2              九州大学留学生センター准教授(臨床心理士) 高松里

 昨日のつづきです。改めて読み返してみて、ここにこうして深いところで理解してくださる方がいることの幸せを思います。
 「スタタリング・ナウ」2012.1.22 NO.209 より、後半を紹介します。論文の最後に、高松さんは、「一人ではできない」ということは何だか素敵なことだと思いませんか? と書いています。セルフヘルプグループ型の僕にとって、大いに共感できることばです。
 こうして外部の視点からの語りで、支えられていることをありがたく思いました。

異文化体験としての吃音
     ―ナラティヴ・アプローチと当事者研究 2
              九州大学留学生センター准教授(臨床心理士) 高松里

(4)ナラティヴ・アプローチ

 さて、この「語る、語らない」ということに関しては、「ナラティヴ(物語、物語る)」という考え方があり、最近ではよく話題に出てきます。私もこの考え方に出会うことで、異文化に関する考え方も、自分自身の生き方も、随分変化しました。
 「言葉が世界を作る」(野口、2002)。これがナラティヴの基本的なテーマです。おもしろいですね。世界は言葉で出来ているわけです。もちろん、実際には言葉ではなくて、いろいろな物質で出来ているわけですが、私たちが認識できるのは、そこに言葉があるからです。言葉のないものは、意識のどこかに引っかかっても、それを認識し、理解し、伝えるということができません。言葉がなければ、それは「ない」も同然です。
 我々が認識している世界は、言葉でできています。世界というものが客観的に先にあり、それに名前を付けるというのではありません。言葉が生まれることにより、世界は我々の前に姿を現してくれる、とナラティヴでは考えます。
 また、ナラティヴは、時間軸に沿って、物語が進行します。
 例えば、伊藤さんたちの前述の本には、伊藤さんの半生が語られています。小学校2年生の時に学芸会の役をはずされたことから始まり、苦しい中高校時代を経て、民間矯正所での経験、その後の言友会設立への動き、吃音世界大会などが語られている。このナラティヴで重要なのは、伊藤さんが「吃音」というものをどう経験し、そこから何を学んだのか、ということが時間とともに語られていることです。「吃音」という、できれば消し去りたいがそれもできない状況に対し、言葉を紡ぎ、たくさんの人と言葉を確認しあい、吃音を持つことの「意味」を共有するプロセスが描かれています。
 吃音は、物理的にはただの喉の問題、あるいはそこを通過する空気の問題かもしれません。それ自体に何か元々の意味があるわけではない。だけど、吃音を持つことによって、自分の人生の色合いが変わる、そうであるなら、その経験から何かを学ばないわけにはいかない、ということなのだろうと思います。
 先ほど、私のもう一つの専門は「セルフヘルプ・グループ」であると書きました。セルフヘルプ・グループにおいて重要なのは、自分の経験をどのように語り、そこから何を学ぶことができるのか、という点です。これらのグループで扱っているテーマは、世間的に見れば、「ない方が良いもの」かもしれません。例えば、慢性病や身体・精神障害、死別や犯罪被害などというテーマを扱っています。
 できれば、こういう経験はない方がいい。しかし、人は、人生の途中で予測もしなかったことに出会うものです。もし、避けられない経験であるならば、その経験から何かを学び、それを言葉として他の人に伝えていくことが大事なのではないのか、と私は考えます。
 ところで、私はある「ひきこもり者」のためのグループについて、スーパーバイズ(指導)を行っています。ひきこもり者が「治った」結果、何が起こるのかを想像してみましょう。とりあえず働くでしょう。しかし、ある年齢以上になるとなかなか思うような仕事には就けず、結果的に単純労働をせざるを得なくなる可能性もあります。ようやく普通の世界に参入できた。でもそこで待っているのは、単に「普通の人と同じになった」というだけです。それでいいのでしょうか。ひきこもっていた何年間かの意味は一体何だったのでしょうか。その時期のことはもうなかったことにして、忘れてしまって、この社会の一員となればそれで万々歳なのでしょうか。
 そうじゃないと私は思います。せっかく何年もひきこもったのだったら、そこから何らかの意味を見いださなくては、ひきこもった甲斐がないというものではないでしょうか。
 意味を見いだし、そこから自己についての物語を形成することが大事なわけです。
 ナラティヴでは「自己は物語の形式で存在する」とされています。
 わたしたちは、ある事件をひとつの「物語」として理解できたとき、その事件を理解したと感じる。「物語」という形式は、現実にひとつのまとまりを与え、了解可能なものとしてくれる。「物語」は現実を組織化し、混沌とした世界に意味の一貫性を与えてくれるのである。逆に言えば、現実がよく理解できないというのは、適切な物語が見つからない状態だ、ということができる。物語は現実を組織化する作用をもっている。(野口、2002)
 吃音を持つ人の中には、できれば吃音という問題を自分の人生から消してしまいたいと思っているのかもしれません。しかし、吃音はすでにその人の人生の中で重要な問題なのであり、その経験を無いことにして、人生の物語を構成することはできません。従って、自己物語を語るためには、吃音経験について、繰り返し繰り返し言語化を行い、他者と共有される必要があるということになります。
 では、どうやって「吃音」についての自己物語を作っていくのか。
 その方法の一つとして、「当事者研究」があります。

(5)当事者研究

〈べてるの家〉
 当事者研究という言葉は、もともとは北海道浦河町の社会福祉法人「べてるの家」での活動から始まりました。べてるの家では、統合失調症などの精神障害を持つ人自身が、自分自身について研究を行っています。それを「当事者研究」と呼んでいます。
 精神障害、特に統合失調症という病気は、「治った」とはなかなか言えない病気です。もう大丈夫だと思って薬を止めると再発する。周囲といろいろな問題を起こし、再発を繰り返すうちに、だんだん自尊心は下がっていきます。
 私は、彼らもまた「精神障害」という異文化にはまり込んだ人たちなのではないかと思っています。自分がどういう状況なのか、言い表す適当な言葉が見つかりません。医療の専門家は、それについて病名をつけ、治療方針などを決めていくわけですが、病気になった本人(当事者)は、そういう専門家のご託宣を受け入れるだけの存在になっています。患者になってしまった人は、自分の状況を自分の言葉で語ることは普通できません。
 べてるの家の活動で画期的だったのは、自分で「自己病名」をつけて、自分で症状や問題の意味を考えようとしたことで、それが当事者研究だったわけです。

〈当事者研究の方法〉
 具体的な方法はいろいろあります。べてるの家の向谷地さんは、①一人当事者研究、②マンツーマンでの当事者研究、③グループで行う当事者研究、の3つを挙げています(向谷地、2009)。
 べてるの家では、③のグループによる当事者研究がよく行われているようです。
 「発達障害当事者研究」(綾屋・熊谷、2008)という非常に興味深い本がありますが、これはマンツーマン型です。発達障害当事者の綾屋さんが語り、脳性マヒを持つ小児科医である熊谷さんが一緒に言語化を行っています。
 また、当事者研究という言葉は出てこないのですが、被差別部落出身であることの経験をまとめた村崎さん(猿回し師、「反省」猿で有名)が書いた「橋はかかる」(村崎・栗原、2010)もマンツーマン型の当事者研究であると考えることができます。妻で、テレビのプロデューサーでもある栗原さんが話を聞き取り、文章化をしています。
 ところで、吃音の場合ですが、一人で吃音について考え、その意味を考えるのはかなり難しいことだと思います。だいたい一人で考え込むと、同じ場所から出発して同じ結論になる、ということがほとんどです。それでは日記やブログはどうでしょうか? 日記は、自分自身を読者としている、という点で、一人で考え込むよりは良いかもしれません。また、公開しているブログだったら、コメントも付くだろうし、そこには他者の存在が色濃くあるということになります。
 しかし、言葉を紡ぐという作業は、ある人が語り、それを聞いた人が質問をし、言葉のすりあわせをし、それで良いのか、もっと適切な言葉があるのではないか、ということを考える、集中的で濃密なプロセスを必要とします。その意味では、やはり一人よりは他者(聞き取ってくれる誰か)がいてくれた方がいいように思います。
 私は、2人で行う当事者研究が好みです。その方法については、いくつか発表しています(高松、2011)。

<ドミナントストーリーとオルタナティブストーリー〉
 一人一人には独自のストーリーがあります。例えば「どもりのおかげで人に嫌われた」というようなものであり、これを「ドミナント(支配的な)・ストーリー」と呼びます。一人で考えていると、多分このドミナント・ストーリーが繰り返されて、強化されていきます。ところが、吃音について長く考えてきた先輩の話を聞いたり、あるいはセルフ・ヘルプグループに参加しているうちに、「どもりのおかげで人に出会えた」とか「人の気持ちが分かるようになった」など、別のストーリーが生まれてくる可能性があります。「どもりで良かった」などという人もいる。これを「オルタナティヴ(代替的)・ストーリー」と呼んでいます。
 一人で考えても、なかなか「ドミナント・ストーリー」から抜けられないのですが、同じ悩みを持つ人と話すと、意外な展開を見せる可能性が高くなります。

〈語ることの意味〉
 「辛い体験は、人には話したくないものだ」と世間の人は言いますが、実際は違うと思います。その経験が大変なものであればあるほど、誰かに話したいと強く願うことがあります。それはなぜなのでしょうか? 異文化に突き落とされる、ということは、「周りとの絆を失う」という経験を伴います。だからこそ、その失われた絆をもう一度取り戻すために、人は他者に語ろうと試みるし、また当事者研究を試みます。
 我々は、この世界の言語化されていない荒野に対して、一言でも言葉を当てはめていくことで、自分がこの世に生きたことを、あるいはこの世の中で何か意味のあることをしたということを、示そうとしているのかもしれません。
 失われた絆を回復する。人と人とがまた出会う。当事者研究が持つ最も重要な機能は、これなのではないかと思っています。

〈色覚マイノリティ〉
 私自身も、当事者研究を行い、学会に発表したことがあります(高松、2010)。私が抱えている問題は「色覚マイノリティ」という領域です。これは、普通は「色盲」とか「色弱」、あるいは「色覚異常」などと呼ばれているのですが、私にはこれらの言葉を受け入れることが出来ません。「盲」「弱」「異常」などの言葉は私にはしっくり来ないのです。だから、自分で「色覚マイノリティ」という言葉を作り、どういう問題があり、その経験を通して自分は何を学んだのかを研究してみました。
 実際、30年以上この問題を考えてきたのですが、「当事者研究」という言葉に出会えたおかげで、ようやく少しこの異文化に目鼻が付いてきました。
 今は変わりましたが、私が高校生の頃、社会において色覚マイノリティを持つ者は、あちこちで差別を受けていました。遺伝であるので、治ることは決してないのに、なぜか毎年毎年同じ検査を人前で受けさせられ、何のケアもされず、大学進学も医学部や理系には進めない事が多かった時代でした。時々、怪しげな団体が「色盲は治る」と称して、高額な訓練を行っていたりしていました(今でもあります)。
 当事者研究を始めてみて、私の中に、どれだけ強い怒りと悲しみがあったのか、いろいろな人と話すなかで、少しずつわかってきました「自己物語は聞き取ってくれる誰かに向かって語られなければならない」と前出の野口さんは書いています。当事者研究は、この聞き取ってくれる他者と共に意味を紡ぎ出す作業であり、失われた他者との絆を再び結ぶ作業でもあります。

〈誰に向けて語るのか?〉
 ところで、当事者研究について、私は少し違う視点を持っています。語る相手によって、ストーリーの量も質も変化すると考えています。つまり、1つの「語り」が完結するためには、a)当事者同士での語り、b)当事者以外の人との語り、c)多くの見知らぬ人への語り、という3つのステップが必要なのではないかと思っているのです。
 自分一人で考えた内容は他者には伝わりにくいものです。うまく言葉にできない焦り、経験を思い出すことによって蘇る怒り、勝手な思い込み、被害感に彩られた言葉に、聞いた人は途惑うことになります。伝えようと思うのであれば、未分化な気持ちに言葉を与え、同時に、相手にわかるような言葉にして差し出す必要があります。
 その最初の作業がa)の当事者同士の語りの中で行われます。自分一人で考えていても、自分の経験や気持ちに対して適切な言葉はなかなか浮かんでこないものです。しかし、同じ問題を長く考えている人々と一緒に語れば、「それはこういうことじゃない?」とヒントがもらえます。
 続いて、b)の当事者以外の人に語るというプロセスがあります。問題を共有しない人に語ることで、当事者同士だと当然だと思われていた内容でも、論理に飛躍があったり、一般社会と共有できていない部分などが見っかってきます。
 最後に、c)の多くの見知らぬ人への語りですが、これは当事者が様々な場所に出かけて行って、講演をしたり、意見を発表したり、という語りを指します。私は、「セルフヘルプ・セミナー」などの公開の場で、自分自身の個人的体験を語る人を見る度に、なぜこの人たちは、話すのも辛い経験を、大勢の、もしかしたら全然理解してくれないかもしれない人たちの前で語るのか、不思議に思っていた時期がありました。
 なぜ見知らぬ人たちに話すのでしょうか?
 異文化に突き落とされる、ということは、「周りとの絆を失う」という経験です。だからこそ、その失われた絆をもう一度取り戻すことが、当事者研究の主たる目的なのではないでしょうか。あるいは、この世界の、言語化されていない荒野に対して、一言でも言葉を当てはめていくことで、自分がこの世に生きたことを、あるいはこの世の中で何か意味のあることをした、ということを示そうとしているように思われます。
 失われた絆を回復する。人と人とがまた出会う。当事者研究が持つ最も重要な機能は、これなのではないかと思っています。

〈2人で行う当事者研究ペアフォーム〉
 では、実際にどのように当事者研究は展開されるのでしょうか。
 私は、主に2人での当事者研究、「ペア・フォーム」を考え、実践しています。
 手順は以下の通りです。
a)出来事を選ぶ(研究タイトルを決める)
 自分にとって大事な問題だけど、これまであまり話してこなかったことが適当だと思います。問題とか困ったこととは限りません。楽しかったけれど、一体あれは何だったんだ? というような出来事でも構いません。
b)リサーチ・パートナーを選ぶ
 自分にとって話しやすい人を選びます。同じ問題を共有する、少し先輩、というような方がベストです。あるいは、問題を共有していなくても、理解力があり、ゆっくり話を聞いてくれる人を選びます。
c)話してみる
 最初はうまく言葉にならないと思います。研究タイトルの周りをぐるぐる回る感じでも構いません。
 リサーチ・パートナーは、話を聞きながら、時間的順番がどうなっているのか、ストーリーに何かちぐはぐなところはないか、などを考えながら聞きます。質問もします。カウンセリングでは「気持ちを聞く」ということに焦点が当たりますが、当事者研究ではストーリーの流れが重要です。「こうなって、こうなったから、こうなった」みたいな感じで聞いていきます。
d)ディスカッション
 「今回、話してみてどうだったのか」を語り合います。この段階でオルタナティブストーリーが現れてくることもあります。この出来事は、当事者研究者の人生にとって、どういう意味があったのかを考えます。
e)その後
 同じリサーチ・パートナーとセッションが続く場合もあるでしょうし、別の人とセッションをしていくことも可能です。また、文章にまとめてみることをお勧めしています。書いてみると、改めてその出来事の意味とストーリーの流れを感じることができます。

〈リサーチ・パートナーの役割〉
 リサーチ・パートナーは、共同作業を行う人です。当事者研究をした結果出てきたストーリーは、2人の共同作品となります。こんなイメージです。カウンセリングでは、あくまでクライエントが中心であり、作品(気づきや成長)はクライエントの中に生まれます。しかし、当事者研究においては、作品は2人の間、二人が向かい合っている真ん中に現れてきます。
 カウンセリングのように、感情に焦点を当てることはあまりしません。大事なのは、物語の時系列と、それをどういう言葉で、どう表現するか、という点です。
 当事者研究を行う者が、言葉にならない時にそれを一緒に考えたり、わかりにくい言い回しを別のものに言い換えたり、物語の破綻やつながりの悪さを補っていきます。

(6)おわりに

 以上、私の専門である「異文化」をからめて、吃音を語る意味を考えてきました。
 「言葉は誰かに向かって話されなければならない」。私はそのことに可能性を感じています。お互いに理解し、お互いに支え合うような関係は、あちこちでできはじめているように思います。
 「どんな経験にも意味がある」というような表現を時々目にしますが、それは間違っていると思います。「どんな経験からでも人は意味を見いだせる」と表現すべきでしょう。だけどそれは一人ではできない。そして、「一人ではできない」ということは何だか素敵なことだと思いませんか?
   〈引用文献〉
綾屋紗月・熊谷晋一郎2008『発達障害当事者研究』医学書院
伊藤伸二・吃音を生きる子どもに同行する教師の会(編)2010『親、教師、言語聴覚士が使える吃音ワークブック』解放出版社
小林宏明2009『学齢期吃音の指導・支援』学苑社
向谷地生良2009『統合失調症を持つ人への援助論』金剛出版
村崎太郎・栗原美和子2010『橋はかかる』ポプラ社
野口裕二2002『物語としてのケア』医学書院
高松里2004『セルフヘルプ・グループとサポート・グループ実施ガイド』金剛出版
高松里2009『サポート・グループの実践と展開』金剛出版
高松里2010「色覚マイノリティ」についての当事者研究日本人間性心理学会第29回大会発表論文集、104-105
高松里ワークショップ「自分らしい臨床を行うための『当事者研究』入門」配布資料日本人間性心理学会第30回大会

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/27

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