たとえどもりでも~『吃音者宣言 言友会運動十年』(たいまつ社 1976年)~
『吃音者宣言 言友会運動十年』(たいまつ社 1976年)を書き始めた僕は、吃音との当事者研究ともいうべき、僕の悩みの歴史、考え方の変遷を書き進めましたが、僕だけではなく、もっと多くの人の体験を紹介したいと思い直しました。そのうちのひとり、哲学者の高橋庄治さんを紹介します。髙橋さんの体験を通した大切なメッセージが込められています。
『確固とした思想にもとづいて、自分の考え方と行動に信念をもち、真実をつらぬき通そうとする生きる目標をもったとき、言葉のつっかえは、本当に、たいした問題でなくなることを、私は確信をもって、みなさんにお伝えしたいと思います。
これが、私が「どもり」を克服した道であり、同時に、私がみなさんに期待することでもあるのです。一度しかないかけがえのない人生を、正しいものの見方考え方を身につけて、真実を求めてやまない姿勢で、生きていこうではありませんか』
この力強いメッセージを今、僕は、噛みしめています。髙橋さんがよくまあ、僕たちのためにどもりについて書いてくださったものだと、読み返して思います。(「スタタリング・ナウ」2011.8.23 NO.204)
たとえどもりでも
高橋庄治(哲学者・1906年生)
かつては私も
私の書いた『ものの見方考え方』(文理書院 1960)を読まれた方はご存知かと思いますが、私はかつて「どもり」で悩んでいました。
みなさんも小学生のとき、あるいは中学生・高校生のとき、学校の友だちに「どもり」であることを馬鹿にされ、真似されたりしたことがあることでしょう。私もずいぶん、そのことで悩みもし、苦しみもしました。そのために、自然に無口になり、自分の小さな堅い「殼」に閉じ込もり、どんなに親切にしてくれる友だちにも、どこか心を許せない卑屈な少年になってしまいました。そして、ひとりで悩みました。
悩みを人に話せないほど苦しいことはありません。悪い方へ、悪い方へ、その悩みを出口の見付からない方向に追い込んでしまうのです。そして、友だちを恨み、ものをうまく表現できない自分自身を恨むところまで落ち込んでいったのです。
言葉がすらすらとしゃべれたら、どんなにかすばらしいことだろう、と思いました。考えること、思うこと、そのすべてが「どもり」が治ったら……という、今から思えば愚にもつかない夢ばかり追っていました。「どもり」だけが自分の大切な人生を破壊し、青春を灰色の暗いものにしていると信じて疑いませんでした。
もう、社会のことも、政治のことも、頭の中にはありません。人が腐敗しきった社会の中で苦しんでいるのを見ようともせずただひたすらに、自分ひとりの問題である「どもり」のことだけをみつめていました。
悪循環にとらわれて
どんなに悩んだところで、「どもり」は治りませんでした。悩めば悩むほど、自分自身を傷つけ、自分のことしか考えないようになっていきました。悪循環でした。
時には、表で、大声を出して”発声練習”をしてみたり、ふとんの中で小声でひとり話してみたりしました。しかし、ひとりだと割合にうまくしゃべれて、そのときはちょっと自信をもっても、人の前に出てしゃべると相変らずどもってしまいます。一度どもってしまうと次の言葉を出すことが恐くて、以前よりさらに深刻な悪循環に陥ってしまいました。そして、自殺したいとさえ考えるようになりました。
またある時は、”自分が「どもり」であるのは「運命」である”とも考えて、あきらめようとしました。「運命」だと思わないことには、自分の気持ちのやり場がなかったからなのです。
きっかけ
このように、暗い、希望のない青少年時代を過ごした私が、あることをきっかけにして変わっていきました。「どもり」の悩みから解放され、あまりどもらずに話すようにもなっていったのです。とはいっても、特別などもり克服法などを勉強したとか、七転八倒の苦労の末に、どもらなくなったというわけではありません。私自身知らないうちに、「どもり」を忘れていたのです。”そんな馬鹿なことはありえない”と思われるでしょう。私自身が不思議に思ったのですから、みなさんがそう思われるのは当然のことです。けれどもこれは事実なのです。
そこで、私は、私の「どもり」が全く気にならなくなったきっかけは何だったのか、そして、その経験の中から、みなさんに期待したいと思うことは何なのかを述べてみたいと思います。
社会にめざめて
私は、現在、哲学をやっています。そのことと関連するのですが、私が変わった直接のきっかけは戦争です。戦争は、私をも含めて人びとの生活を貧困と不安の極限まで追い詰めました。働ける若者は、戦場へ、軍需工場へと、どんどんかり出されていきました。みんな心の底では、戦争なんてない方がよいと思っていながら口にすら出せずにいました。私は、自分のことだけでなく、社会のことに対して、”はたしてこれでいいのだろうか”という、疑問をいだきました。そして、私達のおかれている貧しい生活の本当の原因は何なのか、戦争を引き起こすその原因は何なのか、考えました。そのことについて勉強もしました。
その結果、資本主義における基本的な矛盾は、労働者と資本家の矛盾であり、資本家は自らの利潤を追求するために労働者を搾取し、そのために、働く人びとは貧しい生活に陥らざるを得ないことを知りました。さらに、資本家が国内の労働者を搾取することだけでは飽き足りず、さらに高度な利潤追求を行うために、海外に侵略しようとする結果、戦争が引き起こされるということも知りました。貧乏や戦争は、単なる「運命」や「運」、「偶然」によるのではないのです。
たとえどもりでも
こうした、ものの真実を知った「どもり」である私は、たとえ「どもり」でも、真実は語らなければいけないと思うようになりました。「どもり」であることから逃げることよりも、ものごとの真実から逃げる方がよっぽど卑怯だ、と思いました。私の人生観―世界観―が変わり、生き方が変わり、しっかり生きてゆく決意ができたことは、私の意欲を強大にしました。私は、たとえ「どもり」でも、言わなくてはいけないことは、勇気を出して発言してきました。人前で一生懸命にしゃべりました。どもりました。いくらどもってもしゃべりました。ふと気がつくと私は「どもり」を全く気にしない自分になっていたのです。またどもることそのものも以前とは比べものにならない程軽くなっていたのです。
いい世の中をつくるために、私一個の恥など、問題でなくなったのです。どんなに自分がどもって恥をかいても、そんなことよりもいい世の中をつくることの方が、私にとって重大になってきたのです。
どもりは軽くなったが
結果として、私の「どもり」は軽くなっていきました。あれ程悩み苦しんだ私が、あまりどもらなくなったら、どんなにかうれしかっただろうと思われるでしょうが、いざ、そうなってみると、たいしたことはないのです。それは、私を苦しめていたことのすべてが「どもり」であった、と考えていたことが、正しくなかったことを意味します。「どもり」であるための苦しみは、たしかに大きなものでした。けれど、ほかの人と同じように、この社会に生きる中であたえられる苦しみの方がずっと大きかった証拠です。「どもり」よりも、もっと根本的な、苦しみの根元が、この社会にあったからなのです。
苦しみの根元は
みなさんの中には、かつての私と同じように、苦しみの根元は「どもり」である、と考えておられる方が多いのではないかと思います。なぜなら、その苦しみは、他の人にわからない苦しみだからです。
でも、それは違うのです。おなかが痛くて医者のところへいって、どもるのが恥ずかしいからといって、しゃべらないくらいなら、そんな痛さは我慢できる痛さです。本当に痛かったら、恥も外聞もありません。人から笑われることなどなんでもないはずです。
私は、みなさんが、苦しみの本当の根元が、「どもり」ではないのだ、ということを、一日も早く気づいていただきたいのです。
どもりは雄弁よりも
もう一度繰り返しますが、たとえ「どもり」でも、これだけは言わなくてはいけないと思える程の確固とした考え方を身につけることです。その時、現象の上で、たとえ言葉がつっかえても、それはその人の言葉の特性であって、決して、劣等感に結びつくものではありません。私は言いたいのです。”どもり、どもり、しゃべりなさい。中味さえよければ、どもりは雄弁な人よりも、もっと雄弁となるのだ”と。
こんなことがありました。横浜国大の先生が”君がどもりどもりしゃべったあのことが自分には忘れられない。君は「どもり」のために、どれだけ得をしているかしれない。どれだけ印象的な言葉にしているかしれない。私もどもりたい”と言ったのです。また、大山郁夫先生がどもっていました。多くの人は”あのどもりが先生の話を、いっそう魅力的なものにする”と言いました。私のまねをして、どもる練習をした友達もいました。
まさに、どもりは”金”であり、雄弁は”銀”だと、私は思うのです。
信念をもって
確固とした思想にもとづいて、自分の考え方と行動に信念をもち、真実をつらぬき通そうとする生きる目標をもったとき、言葉のつっかえは、本当に、たいした問題でなくなることを、私は確信をもって、みなさんにお伝えしたいと思います。
これが、私が「どもり」を克服した道であり、同時に、私がみなさんに期待することでもあるのです。一度しかないかけがえのない人生を、正しいものの見方考え方を身につけて、真実を求めてやまない姿勢で、生きていこうではありませんか。
『ものの見方考え方』1970年代の青年が読んだ哲学書のベストセラー。若者に大きな影響を与えた。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/18
