吃音を学び、吃音を生きる子どもたち 2
昨日の続き、高木浩明さんの取り組みを紹介します。この実践を読んでいると、高木さんと子どもたちが対等に考え、話し合っているのが分かります。分からないことは、本人であるどもる子どもに率直に聞くという姿勢が、この対等性に現れています。吃音について学び、考えているのは子どもだけではなく、担当者自身が、子どもと一緒に、吃音について、どもる子どもや大人の生き方について学んでいると、高木さんは言います。子どもとの時間がわくわくしたものになっていると、楽しそうに語る姿が印象的です。
吃音を学び、吃音を生きる子どもたち 2
高木浩明(宇都宮市立雀宮中央小学校 当時)
5 どもる自分について考える・知る
「言語関係図」や「吃音氷山」「ジョハリの窓」などは、どもる自分について、シンプルに見つめ直す取り組みである。吃音が症状だけの問題ではなく、自分の気持ちや考え、行動などに影響を与えていることを、子どもたちは意識しているが、そのことをじっくり見つめ、言語化し、明らかにしていくことは、簡単なことではない。だから、一緒に取り組み学んでいくことが大切になってくる。
ウェンデル・ジョンソンの言語関係図は、吃音の問題を3つの軸(要素)による立体として捉え、出来上がった箱(立体)の大きさや形が問題の大きさや特徴を表すとしている。
X軸:自分のどもり方
Y軸:どもった時の周りの反応
Z軸:自分の吃音をどう考え、悩んでいるか
子どもたちとの学習では、図に描くのではなく積み木を使って実際に箱を組み立ててみた。積み木を使ったことで、箱の形や大きさが変わっていく様子がはっきり捉えられ、Y軸やZ軸がちょっと変わるだけで、数が半分、1/3、1/5と小さくなることに目を輝かせていた。この取り組みを通して、吃音の問題を外在化し、変化するもの、自分の力で変化させられると、再確認していった。
B君(3年)は「箱に色をつけたらおもしろいね。小さくなると、赤が青になったり、色が薄くなる感じ」と話していた。C君(3年)は、「グループ学習の時、いっぱいどもっていても平気という人と、ちょっとしかどもっていないけど、どもるのが嫌だっていう人がいた。これを見ると分かるよね。ここ(Y軸)とここ(Z軸)の差なんだよ」と、大発見した表情で話し出した。具体的にどうすればいいかは、分からないが、積み木の形や大きさを変えながら「箱は変えられる」とも話していた。
6 カルタから学ぶ
大阪吃音教室で大人たちが作った「どもりカルタ」を読んだ子どもたちは、その中に「そうそう、同じだ」「ぼくだけじゃないんだ」と思う作品がいくつもあることに、ちょっと驚き、嬉しく感じた。そして、どもる大人たちが、どんな体験をし、そのことをどう感じているのか知ろうとした。すると未知の世界だけれど、ほっとできる、安心できる姿がそこにあった。ユーモアの中で、本当は辛かったことも表現しようとするたくましさがあった。
そのことが分かった子どもたちが、次にチャレンジしたのが、自分の「どもりカルタ」作りだった。日常生活の中で感じている子どもたちの素な思いが、ストレートなことばで語られ、それをお互いに読むことで、「自分だけではない。仲間がいる」と感じられる、大きな支えになっていった。
大阪吃音教室から始まり、あちこちのことばの教室に広がったカルタが、「学習・どもりカルタ」の制作につながっていった。この制作過程で、カルタが、共感だけでなく、読み手に考えさせるメッセージ性を含んでいたり、願いが託されていたりと、作品としての幅を広げていった。さらに、カルタの解説作りで、一つひとつのカルタの背景にある作者の思いを探り、それを丁寧に読み取り、文章化する必要があった。すると、すべての作品には、それを書いた人の気持ちや考え、願いがあり、その人の生き方が表れていることが分かった。
カルタを通しての学習は、読み札について知り理解することから始まるが、それ以上に書いた人の生き方に触れることが、大切になっている。それは、どもる子どもたちにとって、同じようにどもる子どもや大人が、どもりながらどう生きているかが一番気になることであり、その姿を見ることで、勇気づけられ、安心できるからだろう。カルタの中には、つらい気持ち、悲しい気持ちも出てくるが、そう感じることがあっても、嫌なことがあっても、それでも生きていけることを教えてくれる。それが嬉しいというB君は、「全部のカルタの説明ができたら、ぼくはことばの教室卒業だね。まだまだ無理だけど。」と笑いながら話してくれた。
A君は、自分の読み札を作りながら、「どもる子のカルタ、たくさん集まったらいいね。」と話していたが、出来上がった「学習・どもりカルタ」の作品応募者一覧を見て、「ちょっと、少ない。もっとたくさんの人が書いて、どもる人がいーっぱいになって、みんなにどもるのは僕だけじゃない。こんなにいるんだって、教えてあげるんだ。きっとみんなびっくりする。」と、カルタを通して、たくさんの仲間と出会い、それをみんなに知らせたいと思ったことを教えてくれた。A君の言うように、日本中のどもる子がカルタを作り、それをもとに交流できたら、カルタの持つ意味はさらに大きくなる。
7 学ぶこと、知ることの意味
『怖かった どもりの勉強 するまでは』
これは、A君が作った「どもりカルタ」である。「自分の話し方が何だか分からず、一人で考え、悩んでいると、しゃべれなくなるんじゃないかと怖くなった。苦しくなった。だけど、それがどもることだと分かり、どもっている人がたくさんいるんだと分かったら、それほど怖いものじゃなくなった。」A君のこんな気持ちが込められている。
吃音が治さなければならないもの、あってはいけないものだとしたら、もちろんこうは思えないだろう。どもりながら生きている大勢の人がいる。困ったり、悩んだりすることはあっても、普通に生きている。そういう吃音を生きている人の存在が、吃音を知ることが怖くないと思える支えになっている。私と同じように、あなたも生きられるというメッセージになっている。
もちろん事実には、例えば吃音を治す方法がないなど、子どもにとって簡単に受け入れられないこともあるけれども、その時は、じっくり時間を掛けて取り組めばいいし、吃音を生きる中で、気がついたら、いつの間にか受け止められていたりもする。そうやって生きている先輩、大人がたくさんいるのだから、これは難しいことではない。
子どもたちは吃音について、本に載っていること以上に、どもる人の生き方からたくさんのことを、直截に学んでいるように感じる。それと同様に、私たちは、目の前の子どもが吃音からどう影響を受けているか、何に困り、どんなことに悩んでいるかを、その子どもに直接聞くしかない。書籍などから学んだ知識では、推し測りきれない。これは、どもらない自分にとってはもちろん、自分がどもったとしても同様で、その子の吃音は、その子に聞くしかない。こうしたことを難しくしていたのが、診断起因説や、そこから派生した子どもに吃音を意識させない方がいいという考え方だろう。けれども、子どもたちはしっかり自分の話し方を見つめ、気付く力を持っている。既に意識している子どもを前に、そのことに触れないようにすることの方が、かえって難しい気がする。ましてや、そうした状態で子どもの思いや考えを聞くというのは、私には困難で、到底できないことである。
また「ちょっとつっかえる、つまる」ではなく、「どもる」ということばでお互いに表現できるようにならなければ、たとえばお店やさんでどもった時の状況は表現できても、そこに込められた思いは、子どもたちもなかなか伝えきれないように感じる。あるいは、買い物をこちらが随意吃で擬似的に体験したとしても、それはいつでもやめられるどもるふりであり、どもる子どもや大人の体験とは、本質的に異なるものだと思う。子どもたちからは、「そんなふうにしなくても、何があって、どう思ったか、ちゃんと自分が話せる。話せないと思われてるようで、何か嫌だ。」「誰かがわざとどもりながら、買い物したとしても、そんなの真似だから、それで分かったなんてと思われたくない。そんなことして欲しくない。」といった声が聞かれた。子どもたちは、きちんと話す力を持っている。だから、子どもから直接聞くことが、ストレートに話し合うことが、子どもの学びを支えるためには大切になる。
吃音が、症状だけあるいは行動面だけの問題ならば、客観的なデータで記述することもできるし、その場合は、どもる人から吃音の症状だけを取り出して考えることもできるだろう。けれども、実際には、思いや考えが大切な部分であり、それはどもる人の主観の世界とも言える。だから、子どもと吃音について話すためには、当事者としてのどもる子どもとの対等性が前提となる。もともと、先生と児童という立場の違いがあるのだから、これは意識しないとできないことである。その上で、子どもが考えている問題に、別の捉え方があることを伝えたり、他のどもる人の様子や新しい考え方を示したりする。もちろん、それをどう受け取るかは子どもが自分で決めることだが、だからこそ、こちらも「自分はこう思う・考える」と伝えることになる。真っ正面に向き合って話し合うというよりも、横に並んで座って、目の前の吃音のことを一緒に話すという感じである。
そう考えると、吃音について学んでいる、考えているのは子どもだけではないことが分かる。担当者である私自身が、子どもと一緒に吃音について、さらにはどもる子どもや大人の生き方について学んでいる。そして子どもが自分を知るように、私も自分のことを知る。そんな状況が生まれてくる。子どもたちに教えるために、担当者としての自分がいるのではなく、自分が生き方を学ぶためのパートナーとして、どもる子どもたちがいることに気付くと、これまで以上に子どもとの話し合いが、わくわくした時間になってくる。子どもと一緒に学んでいこう、歩んでいこうと思えてくる。
引用・参考文献
伊藤伸二(2008)『どもる君へいま伝えたいこと』解放出版社
伊藤伸二・吃音を生きる子どもに同行する教師の会(2010)『吃音ワークブック 吃る子どもの生き抜く力が育つ』解放出版社
伊藤伸二・吃音を生きる子どもに同行する教師の会(2010)『学習・どもりカルタ』解説書 日本吃音臨床研究会
水町俊郎 伊藤伸二(2005)『治すことにこだわらない吃音とのつき合い方』ナカニシヤ出版
高木浩明(2010)『吃る子どもへの働きかけ一自分の吃音と向き合うために一』第39回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会(長野大会)要項,60-65
本稿は、国立特別支援教育総合研究所・科学研究費報告書『吃音を知る・学ぶ、自分を知る・学ぶための手がかり』(平成23年3月)より、紙面数の都合で、図表及び本文の一部を省略し転載しました。なお、原文は同研究所のホームページ(http://www.nise.go.jp/)よりダウンロードすることができます。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/15