真面目、誠実、責任感

 「英国王のスピーチ」特集の第3弾です。この映画、ジョージ6世のことを一言で表すと、「真面目、誠実、責任感」になります。真面目で誠実で、責任感が強い故に、吃音に強い劣等感をもち、苦悩します。でも、真面目、誠実、責任感が強いことを武器に、どもっている自分を認め、吃音とともに豊かに生きることができると、僕は思っています。奥の深い映画ですね。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2011.6.22 NO.202 より、まず巻頭言から紹介します。

  真面目、誠実、責任感
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「人前でスピーチができないような人間が、国王になんかなるべきではない。私には無理だ」
 宮廷で開かれた王位継承評議会の挨拶でひどくどもったジョージ6世は、その夜、妻、エリザベスの胸の中でこのように言って号泣する。
 このシーンは、予告編の中で、アカデミー賞授賞式で、たびたび出てくる。吃音に悩む人にとって他人事ではない。
 地位、名誉、権力、財力すべての面において世界一、と言えるほどに恵まれ、愛し愛される家族がいても、吃音であることの強い劣等感に苦悩するジョージ6世。彼が真面目で誠実で、人一倍責任感が強いがゆえの悩みの深さでもある。吃音の悩みを増幅させるこれらの資質が、ひとたび正に働き始めると、今度は吃音に向き合い、吃音を生きる大きな力へと転じる。この展開の軌跡が、映画では、丁寧に描かれている。
 「英国王のスピーチに学ぶ吃音とのつきあい方」については、後日詳しく書く予定だが、劣等感について今回は少し触れておきたい。
 英国王ジョージ5世の長男と次男、お互いに劣等感をもつ兄と弟の劣等感のせめぎ合いが、この映画のひとつのテーマでもある。
 「王冠を捨てた世紀の愛」と、華々しいスポットライトを浴びた兄の元国王は、実は、王としての資質について、弟の方がはるかに勝っていると考え、弟に対して強い劣等感をもっていた。弟がもつ吃音についての劣等感ばかりが注目され、兄弟間の互いの劣等感のせめぎ合いについては、映画の感想や論評では全く見当たらない。
 脚本家・サイドラーは、そのことを深く理解し、だからこそ、観客がつい見落としてしまうようなさりげなさで、しかし、しっかりと描いている。
 兄は弟と比べて、真面目さ、誠実さ、責任感の欠如という点で強い劣等感を持っていた。第二次世界大戦前の大変な世界情勢の中で、大英帝国の国王としての責任を全うする自信が彼は全く持てなかった。
 脚本家・サイドラーは、脚本制作の過程の中で、兄弟についての膨大な資料を読み、関係者から丁寧に聞き取りなどを行う。その歴史的な事実の中から、サイドラー自身がどもる人であるがゆえの身びいきかもしれないが、「愛のため」という世間受けするような、格好いいものではなく、王の資質についての劣等コンプレックスから、「許されぬ愛」という口実をみつけて、兄は国王になるという人生の課題から逃げたことを見抜いたのだ。
 しかし、それを声高に表現することなく、控えめに人に気づかれない程度で映画の中に織り込んだのは、サイドラーの優しさなのだろう。自身が吃音に悩み、劣等感をもち、吃音を口実に人生の課題から逃げるという劣等コンプレックスに陥った経験があるからこその、兄の劣等感についての洞察だったのだろうと私は推察し、納得をする。
 人前でスピーチすることは、あるいは訓練すれば可能かもしれない。しかし、真面目さ、誠実さ、責任感の強さは、子どもの頃からの長い歴史の中で育まれてきたものであり、一朝一夕に身につくものではない。国王になったからといって、訓練で身につくものでないことを兄は一番知っていた。
 「私は吃音の弟に完全に負けた」と、兄にさりげなく語らせているように私には思えてならない。
 脚本家・サイドラーは、愛に溺れ、自らの人生の課題から逃げていく兄を批判することなく、これまでの史実通り、愛に生きる人間的な兄を表現しつつも、弟よりも弱い人間として兄の劣等感、苦悩を浮き彫りにしている。
 弟が、妻の胸の中で号泣したように、兄は、愛人の胸の中で「不誠実な責任感のない人間は国王になるべきではない。私には無理だ」と泣き崩れたのではないか。その場面はもちろんないが。
 「吃音に苦悩する中から育まれた、誠実さ、真面目さ、責任感こそが、どもる、どもらない、スピーチができる、できないよりも、国王として、人として生きる、もっとも大切なことだ」。
サイドラーはそう言いたかったのだと思う。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/10

Follow me!