人(子ども)との関わり、自分自身との関わりを考える 2
国立特別支援教育総合研究所の牧野泰美さんの、僕たちへのエールの文章を紹介しています。
わかりやすい平易なことばで、大切なことを伝えてくれている牧野さんの文章、何度読んでも味わい深いです。長いおつきあいになりました。井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」を思い出しました。昨日のつづきです。(「スタタリング・ナウ」2011.4.18 NO.200 より)
人(子ども)との関わり、自分自身との関わりを考える 2
国立特別支援教育総合研究所 牧野泰美
5 人(子ども)との関わりを考える
(1)人(子ども)との関係・関わる側の視線
人(子ども)と関わる上で、その「関係」を考えてみるのは重要である。たとえば、子どもにとって自分は、話したい相手、話すに値する相手となっているか? 一緒にいたいと思われる相手となっているか? 自分は子どもと会うのを、話すのを楽しみにできているか? 自分の好きなことを伝えているか? と問うたときどうだろうか。
コミュニケーションは、情報を伝え合う側面をもつのと同時に情動を伝え合う側面ももっている。「ことば」の力だけが伝わり合う原動力とは限らない。相手の気持ちが分かる、自ずとくみ取れる、そんな関係にあることもコミュニケーションの成立を助ける。分かろうとする、感じようとする、伝えようとする、同じ思いになってみようとする、そんなことが大切だと思う。
関係が難しい、うまくいかない、関わりにくいと感じるとき、関わる側の視線は、相手の(関わる側にとっての)困った点、難しい点に固定されてしまっていたり、その困った点も別の見方、捉え方、解釈が可能かもしれないが「困った」という見方に固まってしまっていたりする。人はある一面だけを持っているわけではないし、多様な面を見ながら、つき合える面を探したり、ある一面に対しても、別の捉え方をしてみるなど、関わる側の見方や捉え方の操作によって関係を変化させることも可能である。生きる上での、人と関わる上での様々な問題、課題は、個人が抱えていることもあるが、個と個の関係、向き合い方、関わる側の見方の中にある、関わる側の内面世界に生じているということもできる。とすれば、関わる側が、相手(人に限らず様々な事象)を見る際の世界観を、自己の内面を、いかに操作するかということも重要な視点となる。
人(子ども)を見るとき、特に教育等においては、客観的に見る、評価することが要求されることが多い。しかし、人(子ども)を見ることは、常に相手に対して自己の世界を投影するという側面を持っている。人がそれぞれに持っている価値観、世界観は多様で異なっている。読書好きの人もいれば、体を動かすことが好きな人もいる。赤い色が好き、青い色が好き、それぞれである。人(子ども)を見るとき、この世界観、価値観の影響を完全に振り払うことは難しい。見られる側は、その世界観を通して、自己を見つめることになる。このように考えると、相互の見方が不快な状態として固定すると、関係が難しい状態になる。私たちは、常に自己の見方が相手に(特に子どもには)影響を与えることを意識して、自己の世界観を見つめる作業が必要だろう。
(2)手持ちの力を使うこと、今ここを味わうこと、いい時間を過ごすこと
教育においては基礎から応用へという流れが多い。また教育だけでなく日々の子育てにおいても、子どものできないこと、未熟な点が課題とされ、何かができるようになること、力を身につけること、上手になることに価値がおかれることが多い。確かに今より能力が高まる、何かができるようになることは歓迎すべきことであろう。
しかし、人はいつの瞬間も、今ある力で、今の手持ちの力でその一瞬を過ごさなければならない。明日身につく力で、今を生きることはできない。今は今ある力で生きるしかない。力を身につけること、蓄えること、基礎を固めてから応用に入ること。これらは確かに重要ではあるが、暮らしの一瞬は、常に応用の連続である。時間を止めておいて、その間に基礎を固めてから対処するなんてことはできない。なので、今ある力を使うこと、今ある力を出せること、今ある力で対処することも重要なことと思う。せっかく力を身につけていても出せずじまいということもある。力を蓄えること、身につけることを目指すだけでなく、力をいかに出すか、力を出せる、ということにも教育はもっと取り組んで行く必要があると思う。
それには子どもに対する様々な教育的取り組みが、未来(近いか遠いかはともかく)のために今頑張ろう、今頑張ってやっておこう、ということだけではなく、「今ここ」を充実した時間にすることが大切だと思う。未来の準備のためだけに今があるのではなく、今も生きる本番だからである。そしてその本番を今の手持ちの力で対処していくこと、そして今ある力で対処できた経験は、持てる力を出すことを育み、生きる力となるだろう。
今の筆者の暮らしを考えてみたとき、自分が一人で、花火や、七夕飾り、節分の豆まきなどをするとは思えない。もちろん人それぞれだし、大人一人でもやっている人は多くいるだろう。しかし、今自分が、それらをやれているとすれば、それは子どもがいるから(我が子という意味だけではない)だと思う。そう考えると、大人の暮らしは子どもの存在によって潤わせてもらっていると考えることもできる。
たとえばその節分の豆まきで、子どもが「鬼はちょと」と言って豆をまいたとき、「その発音じゃダメだ。”ちょと”じゃない、”そと”だ。もう一度言ってごらん。言えるまで豆はあげませんよ。」などという対応をするだろうか。多くはそのようなことはなく、たとえ「鬼はちょと」でも一緒に楽しく豆まきをして過ごすのではないだろうか。子どもの未熟さ、できなさに目を向け、できるようにすることに力を注ぐばかりでなく、本来、大人は子どもと一緒にこうした「いい時間」を過ごしてきたのだと思う。そしてそれも子どもの成長を支えてきたのではないだろうか。現代は、教育も、育児も、ストレスの多い、困難な状況におかれている。ただ、どこかで大人は子どもの存在によって潤わせてもらっていると思えたら、先生も親も確かに大変だけど、少しは教育を、育児を楽しめるのではないかと思う。
6 現代日本社会の中で生きること、子どもと関わること、教育・育児に携わること
(1)マニュアルの時代
以前、社会学者、思想家の最首悟氏のお話を伺ったとき、「大学教育は、イアン教育を捨て、イスト教育にしてしまって堕落した」とおっしゃっていた。イスト教育に傾斜したのは経済界や社会がそれを求める時代になったということなのかもしれないが、イアンは裾野が広く、根源的な哲学をもっているたとえとして、イストは技術重視のたとえとして、教養を深め、考えるということに重きをおく教育から、技術を身につける教育になったというお話だったと思う。考えてみれば「セラピスト」「スペシャリスト」などもイストだが、別にイストが悪いわけではなく、専門学校ではなく大学の教育がそれでいいのだろうか、という意味として受け取った。この議論はともかく、現代はマニュアルの時代。なんでもマニュアル通りに行い、「自分で考える」ということをしなくなっているとしたら問題である。
あるところで、若いお母さん方と子育ての話をしたときのことが話題になった。次のようなお母さん方とのやりとりの話である。「今は共働きの家庭も多いし、本当に毎日忙しくて余裕はないと思うけど、子どもが話しに来たときには少しの時間でもいいからつきあってあげて」「そんなこと言われても忙しくてそんな時間はないし、毎回毎回つきあえません」「確かにそうだよね。じゃあ、3回に1回つきあえない?」
この「3回に1回」にお母さん方はホッとされ、「あ、それならできるかもしれません」と安心される。そこまでならいいのだが、今はマニュアル社会。なんと、「3回に1回」が一人歩きしマニュアルとなり、本当に「3回に1回」子どもの相手をする人もいるというのである。「お母さん、今日ね、面白いことあったんだよ。聞いて、聞いて。」「(母の独り言)まだ1回目だから聞かなくてもいいな。」という具合である。もちろん「3回に1回」はそういう意味ではない。しかし「○○先生が子どもの話は3回に1回聞きなさいと言われました」と、マニュアルになってしまう。マニュアルが重宝される社会は、人々から考えることを奪ってしまう危険性をはらんでいる。
日々、いろいろなことに直面し、どうしていいのか分からないとき、マニュアルは確かに役に立つ。先達の知恵は凄いし、ありがたいと思う。教育においても、先達が苦労し悩み考え、試行錯誤しつつ実践・研究を積み重ねてきた結果として、様々な指導法、マニュアルがもたらされている。多くの教育実践に裏付けられ検討されてきた指導法、マニュアルは価値あるものと思う。より精度の高いマニュアルを目指したり、利用しやすいものを目指したりと日々進歩してもいる。
ただ、指導法やマニュアルを利用するのは、多くは、そのように苦労しながら考えマニュアルを作った人ではなく、完成したマニュアルを手に取った人である。指導法やマニュアルは対象範囲の子どもに対してであれば、ある程度は誰でも利用可能ということが目指されるが、やはり優れた指導法、マニュアルも、どんな人が使うかによっては子どもへの影響・効果は異なると思う。
もちろん、使いこなすための技術や、熟練することは使い手にも要求されるが、そうした点とは別に、使う人の内面、価値観、世界観、子どもへの思いなどによるところが大きいのではないかとも思う。子どもにとっては、同じ指導法でも、どんな人と一緒にやるかによっては違うということ。同じ指導法、マニュアルを用いた教育実践でも「こんなこともできないようでは生きていけないよ」と思いながら子どもと関わる教師と、「あなたは十分生きていけるよ」と思いながら子どもと関わる教師では異なるだろう。吃音に対してもたとえば「吃音は恥ずべきもの、劣ったもの」と考える教師と「吃音は決して恥ずべきものでも劣ったものでもない」と考える教師では、形は同じ取り組みをしても、全く違った実践になるだろう。
マニュアル社会を様々に考えるにつけ、誰でも使える、利用できる便利さの裏で、使う人の内面、世界観を見つめること、目の前の子ども(人)とどうつき合ったらよいのか考えることが希薄にならないような手だてが必要に思う。
(2)自己肯定・子ども主体
近年、自己肯定感、あるいはそれに類することばを聞く機会が多い。それだけ現代は自己肯定感が持ちにくい、自己否定に陥いりやすい時代というか、そういった人が多い状況なのだろう。
一般的には、他者から認められること、自分が役立つ存在であることを実感すること、自己のよさに気づくこと、得意なことを伸ばすこと、仲間の存在、周囲の理解、等々が自己肯定を支える要素となる。筆者も、吃音のある子どもの自己肯定感支援に関する研究に取り組んだが、その中でも、上記のことや、自分を理解する、自分の吃音、自分の特徴を知る、学ぶことの重要性が議論された。
自分の体質をよく知ることで、対処可能なことも見つかるのと同様、吃音についても自分の吃音を知り、学ぶことが大切と考えられる。親や教師は、子どものありのままを本当に認める、子どもに自分は自分でいいんだと絶対的な肯定感を与えられるような存在であると同時に、子どもが自分自身と(吃音と)つき合っていく上での伴走者のような存在でいることが求められると思う。
白梅学園大学の汐見稔幸先生から、日本とフランスの保育の比較研究の話をうかがったことがある。日仏の保育場面を収録し、検討し合うというものであるが、たとえば、子どもがハイハイしている場面。日本の保育士は、「すごい、すごい、じょうず、じょうず、もうちょっと、もうちょっと、ほらほら、先生ここよ、…。」と声をかけている。フランスの保育場面では、保育士は見守っているだけである。その揚面を見ての日仏の議論。「あれは、何をやっているのですか。」「子どもがハイハイを一生懸命頑張っているので、応援したくなって、声をかけているんです」「そんなことをしたら、あの子はあそこまで行かないといけないと思ってしまうのではないですか。そもそもあの子はあそこまで行きたいのでしょうか。なんで日本の保育士は自分好みの行動をさせたがるのですか?」(以上、筆者の記憶に基づく概略)
人は自分の意思で取り組んでいる、頑張っていると思っていたことが、実は他人の期待に添っていただけだった、他人に従わされていた、と気づけば愕然とする。自分で決める、選ぶということが結局人の期待に従っていることだとなると、自尊感情、自己肯定感を阻害することにもなる。
そもそも日仏の文化の成り立ちが違うので、ここで善し悪しを論じるつもりはない。日本は共感すること、子どもの気持ちを感じるということに優れた面があると思う。ただ、フランスのように自分で決めるということを大切にすることのもつ意味は大きいとも思う。自分が主体であるということを感じ、自尊感情、自己肯定感につながっていく。日本においては失敗しないように教える、いいことだからそうさせる、という先回りはよく見られるが(お節介、押しつけ、様々な表現の仕方があるが)、それらが、自分で決めること、自己決定の機会を奪っているという見方もできる。
「吃音」についても、親、教師、人の期待や考え(もっと広くいえば周囲の、社会の価値観)が、本人にかなりの縛りを与えているように思う。自分で考え、自分で決めること。様々な情報をもらったり、支援を受けつつも、押しつけではなく自分の意思で吃音との、自分自身との向き合い方を決めること。自分の意思で取り組むこと。こうしたことの大切さを思うとき、その縛りを解き放っていくための取り組みをもっともっとしていかなければと思えてくる。
7 おわりに
自分を振り返りつつ雑感を綴っていたら、読みにくい、独りよがりの論考になってしまったこと、ご容赦いただければと思う。筆者自身は、今後も当事者の方、ことばの教室の先生方、保護者の方、様々な人とつながりながら、学び合いながら、それぞれの立場の人たちに返せる仕事をしていきたいと思っている。今後の日本吃音臨床研究会と、『スタタリング・ナウ』の発展を祈り稿を閉じたい。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/05
