人(子ども)との関わり、自分自身との関わりを考える 1

国立特別支援教育総合研究所の牧野泰美さんが、自分のこと、自分の仕事のこと、僕とのつながりのこと、仕事を通じて考えてきたことなどをまとめてくださいました。子ども観、教育観が、僕ととても似ていると思います。
 今、牧野さんは、僕たちの「親、教師、言語治療士のための吃音講習会」の顧問で、忙しい時期なのに、必ずスケジュールを空けて、参加してくれます。穏やかで、いつもにこにこしていて、それでいて大事なところでは絶対ブレない強さをもつ牧野さんの、ブレない僕たちへのエールを紹介します。(「スタタリング・ナウ」2011.4.18 NO.200) 

人(子ども)との関わり、自分自身との関わりを考える
                   国立特別支援教育総合研究所 牧野泰美

1 はじめに

 東北から関東を広く襲った未曾有の大震災。その被害の大きさに胸が痛む。加えて、原発事故も重なり、本当に多くの人の生活を奪い、脅かしている。本稿執筆現在(2011.3.30)、死亡が確認された人、届け出があった行方不明の人の数は増え続け、被災地の状況等も連日テレビ画面に映し出されている。一方で、支援の輪は拡がり、多方面から、一人じゃない、仲間がいる、等々のエールも送られている。各々が自分にできることを問い、行い、つながっていくこと、支え合っていくことは本当に大切なことである。「あなたはひとりではない」は、被災された人にとっても、今、まさに必要なメッセージだと思う。
 こうした非常時にも、多くの人が意識しにくい、少数かもしれない人や事象に思いをはせること、想像力はなくしたくないと思う。報道番組で流れる、体育館に避難している人や子どもたちの様子、困難な状況の中で手作りで行われる卒業式や、学校・クラスの仲間で励まし合っている姿等を見るにつけ、被災地にいる不登校やひきこもりの状況にある人にとってはまた別の困難、苦しさがあるだろうと感じるし、人とのコミュニケーションや、人と接することに難しさを抱えている人、放送や指示の内容を把握すること・理解することが難しい人、見通しが持てないことに不安の強い人、変化に非常に敏感な人、補聴器の電池がなくなった人、等々、何らかのハンディのために避難生活に困難を抱える人も少なくないと思う。
 少数、人に理解されにくい、等々においては吃音もそうだろう。そんな中、この『スタタリング・ナウ』が200号を数えると聞いた。伊藤伸二さんはじめ関係の皆さんのこれまでのご努力に敬意を表すると同時に、日頃、お世話になりながら一読者となること以外、何のお役にも立てないでいる自分が情けなくもなる。200号達成のお祝いの意味もあるが、せめて拙稿をお届けできればと、日頃考えていることなどを綴ってみようと思った次第である。

2 伊藤伸二さんとのつながり

 筆者の勤務する国立特別支援教育総合研究所(神奈川県横須賀市)では教員研修を行っている。各都道府県からの派遣で、現役の学校の先生方が講義や協議、演習等からなる研修を受講する。一つのコースの研修期間は2ヶ月余りであるが(1年間の研修もある)、主に学ぶ障害領域の違いで、研修の時期を分けて実施しているため、研究所は年間を通して各地から参加している多くの先生方で賑わっている。敷地内に食堂や宿泊棟があり、仲間と飲食を共にし、語り合い、多くの先生が、全国につながりをつくって地元に戻って行く。そして各地の特別支援教育のリーダー的な役割を担う。
 筆者は言語障害教育の研修を担当している。2ヶ月余りの期間の中で、特別支援教育の動向や最新情報も含め、基礎的知見から、指導・支援の実際まで言語障害教育全般にわたり研修が深められるようカリキュラムを作成している。このカリキュラムの中で、この10数年、伊藤さんには「吃音問題への支援と対応」の講義を担当していただいている。朝から夕方までの6時間程の講義では、伊藤さんにとっては伝えたいことのほんの一部分しか話せないだろうし、十分なお礼もできないのに、いつも喜んで? 遠路神奈川まで来てくださっている。講義後は、研修員有志とともに伊藤さんを囲んで食事をするのが恒例となっている。伊藤さんの帰りの時間もあるので、可能な時間までということになる(それでも2時間以上は歓談できる)が、いつも話が弾み、最寄りの京急久里浜駅で見送ったあと、新横浜でうまく新幹線に間にあっただろうか、と心配になることも度々である。
 他にも難聴・言語障害教育の全国大会(全難言)や九州地区大会(九難言)等をはじめ、ことばの教室の先生方の研究会でも御一緒するなど、日頃様々なお力添えをいただいている。伊藤さんとの出逢いは、かつて研究室での筆者の上司だった故・大石益男先生によるところが大きい。また、筆者の故郷であり、以前の勤務地でもある岐阜県の知り合いが伊藤さんと深くつながっていたりもして、人、つながり、縁、というのは大きいなとつくづく思う。先述した研修の講師に毎年お招きするようになる前にも、単発で3日間程の日程で開催していた講習会に来ていただいたこともあり、「吃音を生きる」「吃音とつきあう」という発想そのものも、吃音に直接関係することか否かはともかく、自分がそれまで様々に考えてきたことと共通することが多かった。

3 筆者の仕事の源流

 筆者自身は学生時代から、特殊教育(当時)の学科に学び、主に言語障害教育を専攻していた。
自分はなぜ話せるのか、なぜ人の話が分かるのか、ことばはどうやって身につくものなのか、そのことばの獲得がうまくいかない人がいることをどう捉え、どう支えていったらよいのか、そんな疑問からのスタートだった。また、手話サークルへの参加をきっかけに、聴覚障害の人とつながり、交流を深めるうち、聞こえないということや、手話という言語について考えたりもした。研究の第一歩も言語学や言語心理学といった領域を学びながら、ことばの獲得ということに対して様々な側面から考えてみようということから踏み出したように思う。子どもの頃から、周りの友人を見ながら、なぜそんな上手な? 都合のいい言い訳や(屁)理屈が言えるのだろうとか、なぜそんな(駄)洒落が言えるのだろうとか考えたりしたこともあり、筆者の関心も、どちらかというとことばの形式的な側面より、行間を読む、言外の意味を把握する、等々に代表される機能的な側面に向かい、いわゆる語用論の領域の発達的研究を行っていた。卒業論文や修士論文をまとめる頃は、話し手の意図を文脈から類推する力はどう発達するのかとか、聴覚障害の人はどうだろうかとか、そんな観点から取り組んでいたが、そもそも相手の意図をくみ取るとか、文脈を読む、行間を読むということは、広く考えれば、語用論にとどまらず、ことばを用いる、いやコミュニケーションを営む人と人の関係にも及ぶものだとも考えるようになった。学生を終えた後、郷里の岐阜で聾学校の教員として数年間勤めたが、子どもと、あるいは職員とわかり合うということはどういうことなのか、なぜ伝わらないのか、なぜわかり合えないのか、どうしたらわかり合うのか、ということを強く感じるようになり、「ことば」そのものへの追究もしつつ、「コミュニケーション」とか「関係」ということについて深く考えるようになった。
 研究として、実質的に、コミュニケーションを掘り下げ、発達や、諸能力の獲得ということも含めていわゆる「関係論」的な視座からアプローチするようになったのは、平成4年に現在の職場(当時は「国立特殊教育総合研究所」)に移り、故・大石益男先生と数年間御一緒したことや、大石先生を通して、鯨岡峻先生や、浜田寿美男先生と出会えたことも大きい。通じる、通じない、通じにくい(言い換えるならば、関わりにくい、つきあいにくい)というコミュニケーションの成立や障害の本質及び構造の検討、コミュニケーションや関係がうまくいかない状況を変化させるために、子どもと関わる側の(自分自身の)内面・世界観を見つめる視点、関わる側の内面や、人や物に対する見方・視線を操作する観点の整理等、実践的に議論を深めていくことは筆者にとっては充実した時間・取り組みとなった。
 また、「関係」という観点から暮らしの充実を考えるにつけ、能力の獲得や向上(ことばのことで言えば、明瞭な構音の獲得、流暢性の獲得、語彙力や構文力の伸張、等々)が、本当に暮らしの充実、幸せにつながるのか、いわゆる障害の改善や能力の伸張が図られなければ暮らしの充実、幸せはないのか、といったことも考えるようになった。吃音で言えば、流暢に話せるようにならなければ暮らしの充実はないのか、幸せはないのか、どもったままの幸せはないのか、という問いである。これらの作業は、自分の世界観や内面を見つめる、自分のコンプレックスと向き合う、自分を知る、人の内面を見つめる、子どもや人との関係のありよう、関わる自分のありようを見つめる、といったことにもつながっていった。

4 自分を振り返る

 筆者は、岐阜県の片田舎で祖父母、両親のもと、長男として生まれた。祖父は自分の考えを曲げない、言い出したら聞かないタイプの人で、しかも「もったいない」「惜しい」という価値観が強い人だった。その息子である筆者の父は、反抗することもままならず、そこに嫁入りした筆者の母は、舅には従わざるをえず、かなり苦労したようだ。母からすれば、舅の手前、幼い筆者が何か物など壊してはいけないので、神経を使う毎日だったと思う。後に母は、「子どもは、いろんなものに手を出し、壊したりしながら、覚えたり、興味を持ったりしていくから、大らかな環境で育ててやりたかった」と話していたことがあるが、実際、家の中にある様々な物、子どもが興味を持ちそうな物には手を出せないような雰囲気で、筆者は物に触ったり、壊したりといったことをあまり経験せず育ったところがある。幼稚園に通う頃、周りの子たちが、器用にハサミを使い、切り貼りしたり、粘土細工や折り紙をしたりする様子を見ながら、自分はどうして皆ど同じようにできないんだろう、自分は皆と違うダメな人間なんだ、とコンプレックスを持っていた。今でも、手先は不器用だし、機械物はどうも苦手で、新しい便利な物にもなかなか手を出せないでいたりする。

(1)人・物・事象への多様な見方、視線
 コンプレックスと言えば、自分の名前に対してがそうだった。筆者の下の名前は「やすみ」と読む。先述の祖父が付けた。筆者の両親は本当は別の名前を付けたかったのだろうが、そこは「自分が天下」の祖父。孫の名前も人の意見などには耳も貸さず、というより人が祖父に意見を言えるはずもなく、勝手に決めたらしい。当時の政治家の名前から付けたようだ。子どもにとって、状況にもよるが、幼い頃に周囲にいるのは家族をはじめ隣近所の人たち、つまり多くは大人である。物心がついた頃、家族や近所の人から「やっちゃん」「やすくん」等と呼ばれていた記憶がある。それが、幼稚園や学校に入ると、周りには同じような年頃の子どもが多くなる。その頃、自分の名前が嫌になった。「やすみ」は「お休み」なのだ。「まきのやすみ君は、お「休み」のはずなのにどうして来てるの?」となる。今の自分だったら、「あ、そうか、そうだね。じゃあ僕は休ませてもらうね。」などと言って、あわよくば本当に休ませてもらうが、小心者の牧野少年にはそんなことはできず、ただただ自分の名前が恥ずかしかった。加えて、女の子と間違えられるという経験も多くした。
 年度当初に、新しい担任の先生が出席をとる際にも、当時は男女別の名簿だったので、筆者の名前は名簿の男子の方に入っていたのだが、いよいよ筆者のところになって「まきのやすみちゃんかな?、やすみくんかな?」と呼ばれたことがあった。本当に自分の名前が恥ずかしく、嫌でたまらなかった。「先生が小学生にこんな思いをさせるなんて」といった気持ちにさえなった。いかにも男らしい名前の同級生が羨ましかった。
 しかし、いつの頃からかこの名前、意外といいもんだなと思えるようになった。人にすぐに覚えてもらえたり、ずっと憶えていてもらえたりする。あれだけ嫌だった名前に対して、名前を変えたわけではないが、違う角度から見てみたら、案外いいものじゃないか、と思えるようになったということ。これは、今直面している様々な課題、問題等々に対して、それを無くしたり、取り除いてしまったりできればいいが、それが簡単ではないとすれば、その課題、問題を、ある一点から固定した見方で見るのではなく、様々な角度から、様々な見方をしてみると、案外つきあえるぞ、とか、案外いいじゃないか、という面が見つかるのではないかということだ。「嫌」なのか「いいもんだ」と思えるのかは、それとつきあう自分の見方によって変わるのだと思う。つきあわなくてすむのならいいが、つきあっていかざるを得ないのなら、楽につきあえる見方を探したいと思うようになった。それは人にも、物にも、仕事にも、あるいは、ハンディや、自分のコンプレックス、自分自身に対しても言えることだと思っている。

(2)「殻」ごと大きくなればいい
 名前に対するコンプレックスが影響したのかどうかは分からないが、幼い頃、筆者は人と話すことができない、いや、極端に言えば、家族以外の人と会うことすら難しい子どもだった。家の中では大丈夫なのに、一歩外に出るとダメだった。母親と近所に買い物に行く途中、誰かが近づいてくると、いつも母親の背中に隠れる子だった。恥ずかしいというか、その人の前でどんな顔をしてどうしていたらいいのかが分からなかったのだと思う。お正月など、親戚一同、母方の実家に集まって食事をするときも、皆と一緒に居られず別の部屋に食事を用意してもらい、一人で食べていたことを思い出す。小学校に入学しても、しばらくは、自ら挙手して発言することなどできなかった。
 時がたち、いつしか人と話せるようになった。何かちょっとした自信・勇気が持てたということもあるが、このクラスの中なら(家族と同じとまではいかないが)、自分を出しても大丈夫だと思えたのだと思う。別の集団ではまた違っただろう。だから(今でもそうだが)、決して自分の「殻」を破ったわけではない。「殻」の中に、外の世界のものを一つ、二つと入れてきたような気がしている。それだけでも随分、楽になったように感じていた。そうしてどんどん「殻」の中に外のものを取りこみながら、「殻」ごと大きくなってきたのだと思う。今では「殻」の中身が随分増えて、実質「殻」を破ったのに近い状態になっているのだと思っている。
 子どもが自分の「殻」を破れればいいが、そうでないなら、その子の世界に、外のもの(たとえば「サッカー」でも「折り紙」でも)を一つ入れてあげる、つまり外のものを一つ好きにさせてあげれば、少し世界が拡がり楽になるかもしれない。そしてまた一つ好きなことを増やしてあげる。そうしてその子の「殻」が少しずつ大きくなっていく。可能なら「殻」は破った方がいいのかもしれない。覆い被さっているものがとれ、成長できる。しかし無理して破る必要はない。「殻」ごと大きくなればいい。そうも思うようになった。

(3)話して欲しい、コミュニケーションして欲しいと思う側は?
 先に触れたように、幼少期、筆者は人と話すこと、自分を出すこと、人とつきあうことを非常に苦手とする、それらが難しい子どもであった。そんな筆者が小学校に入学した頃のある授業の風景。先生からの問いに、同級生の多くは「はいっ!」と手を挙げる。どんなことを答えても何でも正解になるような問いである。しかし内気な筆者は当然手が挙がらない。指名された子が答える。先生はその子をほめ、さらに他の子の挙手を促す。こうしたやりとりがしばらく続いた後、先生は「どんな答えでも間違ってないし、笑われないから勇気を出して手を挙げてごらん」と励ましてくださるが、筆者の手は挙がらない。さらにしばらくして「本当にどんなことを言っても大丈夫だから」と念を押されるがやはり同じである。要するに「どんな自分をさらけ出しても大丈夫なんだよ」と言ってもらっているのだが、やはり自分を出せない状況が、日々続いていくのだった。
 上記のように先生に励まされるたび筆者は「今まで答えた子は確かに笑われなかった。でも自分が答えた時に絶対に笑われない、大丈夫な証拠がない」「大丈夫な証拠を見せてくれたら手を挙げられるのに」と考えていた。この「大丈夫な証拠」を大人ははたして示せるだろうか?子どもに話して欲しい、自分を出して欲しいと思っている大人の側は、子どもに自分を見せているだろうか?
 その「大丈夫な証拠」はともかくとして、好きなものやことを見せていたら、子どもが自ら大人と話す、つきあうきっかけを見つけるかもしれない。「先生も毎週ウルトラマンを見てるんだ」と分かるだけで、当時筆者は先生ともっと話ができたかもしれないとも思う。
 また、筆者は当時、日々、先生から逃げてもいた。先生が近づいてくると、何か自分のいたらないところを指摘さるものと思いこんでいた。先生に何を言われても、叱られても平気でいられる子(そのように見えただけかもしれないが)、指摘されたことに対して真正面から立ち向かおうとするファイトある子はいいが、筆者は先生に何か言われたら、へこんでしまい、しばらく立ち直れないに違いないと思っていた。だから何も言われない方がいい。そのためには先生に近づかないのが一番、と思っていたし、実際できるだけ近づかないようにしていた。
 先生の立場からすれば、仕事上子どもを「評価」はするだろうが、決していたらないところを指摘するために、あるいは注意するためだけに子どもに近づくわけではない。少しでも触れ合おう、コミュニケーションしようという思いが強いだろう。しかし、筆者のように被害妄想かもしれないが、子どもに逃げたいと思ってしまわれては、なかなか難しい。
 人は話したくない人とは話さないし、嫌なことは話さない。話して欲しい、コミュニケーションをして欲しいと思う側が、相手にとって自分はどんな存在なのか、自分を見つめてみることは重要だと思う。

 以上、まだまだ挙げればエピソードには事欠かないが、筆者の幼少の頃を振り返りながら、いろいろと考えてみた。確かに、自分の周囲の人や、様々な課題、自分自身の抱えているコンプレックスや特徴、等々とつきあっていく上では、苦しい向き合い方、不快な状態として向き合っているよりは、そこそこ楽に向き合えていた方が、相手が人であれ物事であれ、関係は深まり、相互にいい影響を与え合い、結果的に学べること、プラスになることが大きい。しかし、そういう筆者も実際は、人や物事、あるいは自分自身に対していつもそのような見方、向き合い方ができているわけではないし、どうしたらいいか苦しみ、もがき、考えながら生きている。自分自身を受け入れることもそうそう簡単なことでもないだろう。自分のありのままを認め、受け入れることが大切というスタンスからすれば、自分自身を受け入れられない自分を受け入れる、認めるということも、また必要なことかもしれない。
 「殻」の中に外の事象を一つずつ入れていけばいい、「殻」は破れなくても「殻」ごと大きくなればいいと思いながら、実際には自分の「殻」に打ちのめされるときもある。今もって、自分を出せない自分、一歩踏み出せないでいる自分に歯がゆい思いをすることもある。先の表現を用いれば、随分「殻」の中に多くの事象を取り込んできて大丈夫な世界が増えたが、(生きる上で概ね不都合はないので)その安全な世界で自己を保っていて、さらにまだ「殻」の外にある事象をなかなか取り込めないでいるということなのだろう。
 いずれにしても、これからも自分を見つめ、自分とのつき合い方を考えながら生きていくのだと思う。この自分を見つめること、自分を知る、学ぶという作業について、数名のことばの教室等の先生方に執筆いただき編集した冊子「吃音を知る・学ぶ、自分を知る・学ぶための手がかり」が科学研究費補助金の補助を受け、現在印刷中である。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/04

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