「英国王のスピーチ」アカデミー賞への道
昨日、紹介した新聞記事に、僕の話をもとに記者が書いた文が載っていました。どもる人から見た「英国王のスピーチ」。いい作品だったと思います。アカデミー賞授賞式という華やかな場で飛び交う「吃音」ということば、心地よく響いていました。(「スタタリング・ナウ」
2011.3.20 NO.199 より)
「英国王のスピーチ」 アカデミー賞への道
伊藤伸二
試写会への招待
2011年1月下旬、「英国王のスピーチ」の配給会社GAGAから、報道関係者の試写会に来て、コメントをしてほしいとの依頼があった。
欧米ではすでに公開され、アカデミー賞の12部門にノミネートされている。また、国際吃音連盟に所属するグループでは絶賛され、大きな話題になっている。しかし、私は、これまで吃音をテーマにした映画には裏切られている。2000年、ベネチア映画祭で新人監督賞を受賞した「独立少年合唱団」もそうだ。欧米のグループが絶賛しても、考え方が違うので、同調できないかもしれない。期待はしつつも、不安を抱いての試写会だった。
2月4日、「英国王のスピーチ」の試写会
配給会社の試写室では、新聞社、テレビ局などのマスコミ関係者15名ほどと、暗がりでメモをとりながら観ていた。吃音関係者として招かれた試写会は「独立少年合唱団」以来2回目だ。
国王の父からスピーチができないことを激しく叱責され落ち込み、王位継承評議会のスピーチでどもり、その夜「私は王ではない」と泣き崩れる。
あっという間の2時間だった。吃音に悩む人の心理や状況が見事に描かれている。映画そのものの完成度、吃音の視点からも、満足できるすばらしい映画だったことにまず、ほっとした。
新聞社の取材を受ける
2月14日、GAGAの会議室で新聞社の取材を受けた。配給会社の人も同席し、3人で話は盛り上がった。同じ映画を観た人と映画について語り合ったのは初めての経験で、とても楽しかった。また、記者は、映画についてだけでなく、吃音についても的確に質問して下さり、私自身の吃音の悩みとそこからどうつきあい始めたか、吃音の治療の歴史や、映画に出てくる治療法などの解説をしていた。大阪教育大学出身だという配給会社の人が、楽しい吃音講義を受けているようだと言って下さった。この映画は、劣等感、劣等コンプレックス、家族の支え、人間としての誠実さ、スピーチセラピー、国王の座を投げ出した長男の心理分析など、さまざまな角度から話が膨らむ。とても豊かな世界をこの映画で話し合うことができる。取材というより、映画についての3人の語らいは、1時間30分を超えていた。一人で観て、「よかった」ではもったいない、たくさんの話し合いができると映画だと思った。
吃音の理解のために
新聞社の取材を受ける当日、うれしい電話相談があった。ホームページを見て私の電話番号を知り、かけてくれた女子大生だ。就職試験の面接で困っている。その中で、親や友だちにいくら吃音の話をしても分かってもらえない。理解してもらうにはどうしたらいいかとの相談にもなった。その時、2月26日に公開されるこの映画を、家族や友だちと観ると、理解してくれるかもしれないよと話した。彼女は、この映画のことを知っていた。映画館の予告編で「英国王のスピーチ」を見て、必ず観に行こうと思い、インターネットでこの映画の検索をしていたところ、英国王のスピーチについて書いている私のブログを見つけ、そこから、日本吃音臨床研究会のページにたどり着き、そして、電話をしてきてくれたのだ。
キーワードは「対等」「誠実」
2月21日、産経新聞の夕刊に私が取材を受けた内容が取り上げられた。「芸能エンタメ」の欄なので、もちろん、「英国王のスピーチ」の紹介なのだが、吃音に関する記事かと思うくらい、吃音を取り上げて下さっている。ありがたい紹介記事だ。おそらく、他の映画紹介記事とはかなり異質なものになっているだろう。長い時間私の話を聞いて下さり、単に映画の紹介ではない、吃音にかなり焦点をあてた記事になっている。その時に私が話したのが、「対等」「誠実」で、それを大きくタイトルにして紹介して下さった。
「英国王のスピーチ」日本公開の日
2月26日(土)、この日、私は大阪産業創造館会議室にいた。岡本記念財団主催の「こころの健康セミナー」で、講獅の一人として100人ほどの前で講演をしていた。講演のタイトルは、「悩みの中から掴んだ、生きる力~吃音は創造の病い」だ。冒頭、私は、「今日は、吃音のことが広く多くの人に理解してもらえる記念の日だ」と話し始めた。「英国王のスピーチ」の日本公開の日でもあったからだ。私の講演を聴きに来てくれていた、大阪スタタリングプロジェクトの仲間の多くは、そのまま、映画の上映館に向かった。大阪の人たちにとって、吃音デーだった。
吃音が世界に伝えられた日
2月28日、アカデミー賞授賞式。
私はかつて、映画少年、映画青年だった。1950年代から1960年代の洋画はほとんど観ている。吃音に深く悩んでいた時代、私にとって映画が唯一の友だった。映画好きの私も最近は忙しくなって、ほとんど映画館に行けなくなり、アカデミー賞にも関心がなくなりつつあった。そんな私の前に登場したのが、吃音をテーマにした「英国王のスピーチ」だった。アカデミー賞授賞式の中継を見るのも初めてだ。どきどきしながら見ていたが、ノミネートされた12部門のうち、まず賞をとったのが、脚本賞だった。
脚本賞 デヴィッド・サイドラー
サイドラーは、ライターがスピーチするのは本当に恐ろしいことだと前置きし、父親が「君は、非常に年をとってから花が咲くだろうと常に言っていた」と話して会場を沸かせた。最高年齢受賞者だそうだ。スタッフへの感謝の後、もちろんユーモアだが、「私が投獄されないのは、エリザベス女王のおかげで感謝したい」と言った。セラピーのプロセスで、女王の父親、ジョージ6世に卑猥なことばを連発させるシーンがあったからだ。脚本家自身が吃音に悩んだ経験があったからこそ、吃音の苦悩を的確に表現していたのだ。だから、「吃音があり、吃音に悩んでもこのようなアカデミー賞受賞会場にまで来れた。アカデミーから吃音が評価された」とスピーチを締めくくった。
監督賞 トム・フーパー
母親が、演劇版「英国王のスピーチ」の脚本朗読会に招かれ、帰宅するなり息子に「あなたの次の映画は、これにするべきよ」と電話があったそうだ。「母の言いつけを守ってよかった」とのエピソードを話した後、「吃音が、アガデミー賞の受賞会場という晴れの舞台に連れてきた」と話した。
主演男優賞 コリン・ファース
受賞挨拶の冒頭、胸がどきどきしている表現を「ダンスをしているようだ」と、どもる人が晴れの舞台で挨拶することの緊張と喜びを表現していた。吃音ということばを使ったかどうかは聞き取れなかったが、どもる人が挨拶をしているような、緊張感が感じられた。
そして、授賞式のトリ、作品賞にも選ばれた。
胸をどきどきさせながら、授賞式の様子を見守った私は、主演男優賞、作品賞に「英国王のスピーチ」が決まったときには、思わず涙が出て、拍手をしていた。しかし、玄人ぶりたい映画評論家には、「英国王のスピーチ」はそれほど高く評価されていなかったようだ。
アカデミー賞授賞式中継の2人の日本人ゲストである、映画ジャーナリストとプロデューサーが、監督賞と作品賞に「英国王のスピーチ」が選ばれたことが不満で残念でならないというような表現をした。二人は、「ソーシャル・ネットワーク」こそがアカデミー賞の監督賞・作品賞にふさわしいと思っていたようだ。ふたりのコメントはこうだ。
『監督賞は、演出的な技術を問われるもので、作品が単にいいというだけではない。「英国王のスピーチ」は、平板な演出で、まさか監督賞はないと思っていたので、がっかりだ』
『「英国王のスピーチ」を観た後、周りの人との会話は弾まなかったが、「ソーシャル・ネットワーク」はすごく会話が盛り上がった。保守的で淡泊なアカデミー賞であり、「作品賞」ではなく「大衆賞」のようだ。みんなが選んだ感じだ。映画関係の人が選んでいるのだから、作っている映画の裏側、演技の内容をもっと見極めて選んでほしい』
吃音が早口に圧勝
翌日の朝日新聞は、「英国王のスピーチ」が選ばれたことをこう表現した。
『一騎打ちとなった「ソーシャル・ネットワーク」は、脚本は通常の何倍もあり、機関銃のごとくしゃべりまくる。対照的なこの2本だが、似た部分もある。いずれも実在の人物の体験を元に、本人たちが触れられたくない「負」の部分をも堂々と描き切っている』
中東情勢が緊迫し、とても不安定な、大変な時代だからこそ、奇をてらうわけでも、技術的でもなく、ただ「人間の弱さと、誠実さ」が際立つ映画が選ばれたことがうれしい。もちろん、吃音が正しく、まっとうに描かれていたからだが。
アカデミー賞の授賞式という、吃音とは対局にあるような華やかな舞台で、吃音ということばを何度も聞くことができるのは、おそらく、最初で最後のことだろう。吃音が世界に認知され、今後語り続けられていくだろう。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/30

