人それぞれの吃音人生~2010年度 第13回ことば文学賞~
2010年度の第13回ことば文学賞の作品を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)
どもる、あなたの娘より
藤岡千恵
「もっとゆっくり喋りなさい」
このメッセージを父が私に向けた一番最初のとき、私は3歳くらいだっただろうか。
自分と同じようにどもり始めた娘に対して父は、そのようなメッセージを送るようになった。その「もっとゆっくり喋りなさい」には『どもるお前の言葉は聞きたくない』『どもってはいけない』という思いが込められていると私は感じ始めたのだろう。年を重ねるうちに、私は父にも母にも友人にも、自分を取り巻く全ての人に対してどもりを隠すようになった。誰の前でも常に自分の言動に全神経を注いでいた。ちょっとでも言葉がつっかえると、自分のどもりが相手にバレたんじゃないかと冷や汗をかいた。
新聞記事で伊藤伸二さんのことを知ってからずいぶん経って、私は大阪吃音教室(当時は大阪言友会)の扉を叩いた。しかし、どもりながら明るく生きている人たちの輪の中にどうしても入れず数ヶ月後には通うのをやめた。「私はあの人たちみたいにどもって生きられない」「どもりを治したい」と思う気持ちがぬぐえなかったのだろう。
それから8年ほど経ち、再び大阪吃音教室を訪れた。その時私は、自分の根本的な問題であるどもりに向き合わない限り、この先生きていくのが大変だろうと感じていた。そして再び訪れたとき、8年前と変わらない例会の雰囲気に安心し、私の心は徐々にほどけていった。
それから母が亡くなった。私は、自分がどもりと格闘しながらも精一杯生きていることを母に伝えたかった。伝えられなかったことがとても残念だ。しかし、父に伝えたいとは思わなかった。もともと父のことは苦手だったのだ。
だが、大阪吃音教室に通ううちにどもりの症状が少しずつ表に出始め、父の前でもどもるようになった。それでも私は父とどもりの話をしたくなかった。ある時、どもって喋る私に父は言った。「ゆっくり喋ったらどもりは治る。父ちゃんも昔はどもりやったけど、ゆっくり喋るようになってから治った。ゆっくり喋りなさい。」と。
ところが父の喋り方は、ゆっくりどころか早口で声も小さい。一度や二度聞き返したくらいでは聞き取れないくらい言葉が不明瞭だ。私には父がどもりを隠しているようにしか思えない。その父に「俺は治った」「ゆっくり喋れ」と言われるのはたまらなかった。どもる私をこれ以上否定してほしくなかった。だから私は大阪吃音教室のことや、どもりは治らないことなど何度も伝えた。何度も伝え、理解させようとしていた。何よりどもる私を受け入れて欲しかった。
私はどもる仲間と出会い、どもりに対する思いが少しずつ変化してきた。どもりの症状が強い時はとても不便だしストレスも感じる。それでも、どもりながらでも自分の言葉で自分の思いを伝えられる方がいい。でも父は違う。治ったと言いつつ、どもりをごまかしているようにしか思えない。どもる事実を認められずにごまかして生きている父を可哀想だと思った。
でもある時、私もほんの少し前まではそんな父と全く同じだったことを思い出した。私は、たまたま自分のタイミングが合い、運良くどもりの仲間に出会えたというだけのこと。何も特別な人間なのではない。そう思うと父を可哀想な目で見ていた自分を恥ずかしく思った。
「俺は治った」と言いながらも、父はどもる自分と今でも闘っているのかもしれない。そういう視点で見てみると、普段は不明瞭な話し方をしているが、仕事の関係者と電話で話すときの父は、すごくゆっくり大きな声で話していることに気づいた。相手に聞き返されている様子もない。言い換えや倒置法なども駆使している。そういえば昔から父は昔から仕事に対する情熱が強い人であったように思う。そのような真摯な姿は得意先の人にも伝わるのか、父を気に入る固定客も少なくないようだ。父も自分なりにサバイバルをしているのだろうか。
娘の私に「ゆっくり」と言うくせに、普段は相変わらずものすごく早口。どもりたくないがために、言い回しを変えたり「ええと、あれや、あれ」というような前置きが多いため、何を伝えたいのかわからず私はイライラしてしまう。それでも父なりにどもる自分を生きている。30年ほど前「ゆっくり喋りなさい」と言った時、どもり始めた娘と自分を重ねて心配したのかもしれない。娘がどもりを持ったまま生きていくのを見ていられなかったのだろう。
父は私の中にどもる自分を見、私は父の中にどもる私を見る。それらが交わることは残念ながら今後もないだろうが、お互いにどもりと共にこれから先も生きていくのだろう。
【選者コメント】
父親からの「もっとゆっくり喋りなさい」のメッセージを、自分を否定するものと受け止めた作者は、どもりを隠し続けてきた。だから大阪吃音教室にであっても、やがて参加しなくなる。その後、どもりと向き合わない限り、自分を生きることができないと思い、再び大阪吃音教室と出会う。そして、徐々に変わっていく。
しかし、父親は相変わらず「父ちゃんも昔どもりやったけど、ゆっくり喋るようになって治った」と言う。その父親の姿に、以前なら反発していたものが、作者の成長とともに、父親に対する思いが変わっていく。「どもる事実を認められずにごまかして生きている父を可哀想だと思った」という作者も、少し前は自分自身も、吃る事実を認められずごまかしていたのだと気づくなど、どもる父親と自分自身の吃音への洞察がすすんでいく過程が丁寧に、易しいことばで、綴られている。
そうして、これまでと違った感覚で父親の日常を観察してみると、父親が自分なりにサバイバルして、精一杯生きていることにも気づいた。
父親とは今後も交わることはないだろうというが、作者の父親への眼差しは確実に変わった。作者にとって、今、父親は、共にどもりながら生きる同志として、存在しているといえるだろう。
【作者感想】
これまで大阪吃音教室の例会で、私が父のことを話題にする時は、「父との関係がうまくいっていない」という内容ばかりだったと思います。そんな父をテーマに文章を書いてみたいと思ったのは自分でも意外でした。
この賞をいただいた時の参加者の感想もまた、自分にとって意外なものでした。「これまではお父さんを『自分とは違うもの』だと感じていたのが『自分と同じもの』だと感じるようになったのでは」というような内容だったと思います。
そう考えると私と父は「どもり」という共通語を持っています。父も、どもる人にしかわからない気持ちや苦労、失敗などをたくさん経験してきただろうし、そういう点では共感できる気持ちがあるかもしれません。
今はまだ父とどもりについて話してみたいと思いませんが、この文章がきっかけで、今まで感じたことがなかった父への思いを発見した気がします。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/17