人それぞれの吃音人生

 もうすぐ、今月号の「スタタリング・ナウ」ができあがってきます。今月号は、2024年度、第27回のことば文学賞作品の紹介です。27回も続いてきたのかと感慨深いものを感じながら編集していたのですが、今日は、15年前、第13回ことば文学賞の特集を紹介します。
 僕たちの活動の社会的意義のひとつとして、僕は、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると考えています。その具体的取り組みのひとつが、「書く」ことであり、ことば文学賞なのです。まず、今日は、巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

  人それぞれの吃音人生
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 どもる人のセルフヘルプグループ活動の社会的意義のひとつは、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると私たちは考えている。その取り組みとして、週に一度のミーティングである大阪吃音教室では、いくつかの仕掛けがある。
 その中心が、インタビューゲームと文章教室だ。講座の短い時間に、一度にたくさんの人生の貴重なエピソードを聞くことができる。
 インタビューゲームは、20分間、互いに相手の人生に耳を傾け、インタビュアーが文章に編集する。話を聞く力、文章を書く力を磨くことができる。また、文章教室では、吃音の体験を、ひとつのエピソードにしぼって文章にまとめる。最後に全員の文章が読み上げられる。それは、吃音という共通のテーマをもちながら、ひとりひとりの違う人生に出会える、胸が熱くなる大切な時間だ。
 他者にインタビューを受けることで、これまであまり意識に残っていなかったことが思い出されることがある。それは次に文章教室で書かれ、さらに磨いたものが、年に一度の「ことば文学賞」に投稿される。文章教室やことば文学賞が始まった頃と比べ、常に他人の文章やエピソードを常に見聞きしている影響もあってか、多くの人の文章力がついてきたという実感がある。毎年、書き、投稿していると、そろそろ書くことがなくなったという常連投稿者もいるが、大阪吃音教室のこの書く文化によって、新しい参加者も書くので、途切れることなく続き、今年で13回目となった。
 秋に行われる「吃音ショートコース」の中で、受賞作品がみんなの前で読み上げられ、書いた本人、参加者の感想が語られる。年に一度の、吃音ショートコースの重要なプログラムになっている。
 今年受賞の3作品は期せずして、人それぞれの吃音サバイバルが浮き彫りになった。
 鈴木永弘さんは、「私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深く関わっていた」として、親友と恋人との吃音に関係する苦いエピソードを書き綴っている。そして、「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」と内省する。
 吃音に悩む人が、吃音の苦しみから解放されない大きな要因の一つが、この「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」との内省がなかなかできないからだと、私は考えている。目の前の相手と「じか」に関わるのではなく、常に自分の中の「吃音」とまず最初に関わる。そして、吃音が、「ゴーサイン」を出したときだけ、目の前の相手に関わっていく。だから、親友と恋人に申し訳なかったとの思いを、鈴木さんはもったのだった。
 その気づきから、今度は、自分自身だけでなく、他者に関心が向かい、他者に対する優しさが身についてきた。ここに鈴木さんの大きな転換点がある。自分への執着から、他者への思いが強まったとき、吃音の悩みからの解放の道筋に立つ。
 吃音との対話を優先させたことで、吃音の悩みを深めた鈴木さんと違って、吃音との対話を優先させることが、「判断し、決断し、行動することに役立った」という赤坂多恵子さんの視点がユニークだ。吃音と対話し「どもりのお告げ」に逆らわずに生きてきたことを、「どもりに左右されたわけではない」と言い切るところがしたたかだ。
 どもる父親を、「吃音から逃げている」と考えていた藤岡千恵さんは、自分の吃音とのつき合いの中で、自分だけでなく、父親に対してもこれまでと違う見方ができるようになっていく。そして、違う視点で見たとき、普段は早口で話す父親が、仕事の電話をするとき、「ゆっくりと大きな」声で話していることに気づく。そして、仕事に熱意をもって取り組む父親が、得意先から信頼されていることにも気づいていく。
 吃音とのつき合いは、人さまざまだということが、3人の作品から読み取れる。
 今回、私たちとつき合いのない、山口で高校の教師をしている岡本さんの体験を紹介できた。彼は、「ことばの教室で一番禁物なのは、『治療する』という考え方だ」と、私たちと同じような主張をしている。
 吃音人生は豊かでおもしろい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/15

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