『親、教師、言語聴覚士が使える 吃音ワークブック』(解放出版社)出版にあたって 2
この吃音ワークブックは、16人の仲間の実践と、密度の濃い長時間の話し合いの中で、できあがりました。吃音について、自分の担当するどもる子どもたちについて、話し合うのは、楽しい時間でした。
ほとんどできあがった、完成直前の7回目の最後の合宿で、この本の特徴をみんなで語り合いました。言いたい放題の話し合いの中に、僕たちが大切にしていることがたくさん含まれていました。だから、この話し合いそのものを吃音ワークブックの最初の章で掲載しようという話になりました。しかし、編集者からあまりにも制作者の思いがあふれすぎていると指摘を受け、掲載は見送られました。でも、やはり、僕たちの思いを知ってほしいと、「スタタリング・ナウ」に掲載することにしました。3時間ほど話し合いが続いた内容を圧縮したので、分かりづらい部分もあると思いますが、吃音ワークブックとあわせて読んでいただくと、吃音ワークブックの意義がよく分かっていただけると思います。(「スタタリング・ナウ」2010.8.22 NO.192)
吃音ワークブック~私たちの思い~
◇普段のことばの教室では、子どもとのやりとりの中で、反応を見ながら実践を組み立てているので、それをワークの形にはめこんで紹介するのは難しかった。子どもひとりひとりが違うし、同じ子どもでもその日の気分で違う。
この本は、担当する私たちと子どもが一緒に学び、見つけていくものにしたかった。
◇いわゆるワークブックやマニュアルに対するアレルギーが、みんなの中に相当あった。ワークが提案されても、どうしてそうするのかの詳しい説明抜きには考えられない。だからこの本は、まず、理論・哲学の部分を読んでもらえればうれしい。順序として、最初の章で、この本の特徴や、吃音の基本的なとらえ方をまず出したい。
◇互いの実践を整理し、考え方を話し合う中で、「何々すべきだ」「こうしなければならない」という形についなってしまうのを避けたいとの思いが強くなったね。そこで、自分たちの価値観や実践を読む人に押しつけるのでなく、私はこう実践していますという事実と、こんな現状ですという事実を書けばいいと考え、ルポルタージュ(現地報告)という形にして、判断は読者に委ねようとする姿勢に変化してきたので、書きやすくなった。
◇同じワークでも、深い話ができる子どもと、そうでない子どももいる。また、同じ子どもでも、日によって深い話ができるときには普段と違うことが出てくる。「どもりカルタ」の実践も、44枚全部作ることが目標ではない。1枚のカードしかできなくても、いやまったく作れなくても、取り組む中でその子どもと自分の中に、何かが起こる。
まず、とりあえずしてみる、がよかった。
◇料理に例えたら、この本では、材料は用意したが料理をするのは子どもと親や担当者だよね。
どんな味になるかは闇鍋みたいで分からないのがおもしろい。私たちだけでなく、アメリカ言語病理学者が考えたものや、アドラー心理学や論理療法など、普通の料理店では使わない材料を用意した。それが、他の吃音関係の本と違うところだ。
◇材料を提供して、私たちはこうしたと見本を示しただけで、こういうふうに実践を展開していかなければならない必要は全くない。こうやったというより、こうなったという感じ。やり方は、一緒にした子どもによって変わるから。同じことを違う子としたら、全然違っていた。だから笑いにもなったり、驚きにもなったりする。
子どもが成長していく過程では、大人が本気になって驚くことが大切。大人が驚くということは、子どもにすごく大きな力を与えることになった。
◇この本で紹介するワークは、子どもと本気で一緒にできる。子どもは、大人の本気さを見ている。本気でやろうとしているか、本気で問題をぶつけてこようとしているか、子どもたちから見られている。親や先生が教えるための方法論ではなくて、担当者が子どもから吃音のことを教わるための材料。教えてあげるではなくて、対等の立場で試行錯誤しながら共同の取り組みができる。
◇これまで吃音の本当の問題にあまり気づいていなかった、ことばの教室の担当者である私が、そうなんだと、子どもと一緒に理解していける。吃音について一緒に学んでいけるし、気づいていける。これまでの専門書は、言語病理学という学問を子どもに当てはめようとしていた。言語病理学から吃音を学ぶのではなくて、子どもと一緒に取り組む中で、子ども達から吃音を学んでいった。
◇難しいかなと思うことをぶつけても、子どもは自分の考えを出してくれる。病んでいる子どもに処方箋を出して解決するものではない。この本の大前提は、子どもへの信頼だ。子どもは、弱い存在ではなく、吃音の知識がなかったり、取り組み方が分からなかっただけだ。多少のことは、遠慮せずにぶつけても大丈夫との信頼がある。
アメリカの言語病理学のバリー・ギターの『吃音の基礎と臨床』(学苑社)は、吃音はポンコツ車だと書いているが、運転はできる。スピードが出なければ、高速道路ではなく一般道を走ればいい。
悩んでも、傷ついてもいい。それに親や教師がつきあう。明るく元気にたくましくを目指さない。
◇吃音の知識を本で得て生の声を知らない時は、吃音を話題にできなかった。知らないと躊躇し恐れる。実際に、どもる中学生や高校生、大人と直接会ったという経験は大きい。また、16人のメンバーの中に7人もどもる人がいるのは大きい。苦しんできたどもる子どもやどもる当事者から生まれてきた生きた学問と、言語病理学の学問とは、知識の質が違う。この本の当事者主義がいい。
◇いわゆる教科書や指導書ではない。人間観や人生観、どう生きていくかが最大のテーマになるから、教科書を求めていた頃は、吃音を学べないし、どもる人やどもる子どもとつき合っていけなかった。たとえば、構音障害はある意味、多少子どもから切り離すことができる。子どもは取りあえず置いといて、構音の障害の方をなんとかすればいいということになる。でも、どもる子たちとかかわっていくときには、それはなかった。だって切り離せない。治そうとする人は、子どもと吃音を切り離し、吃症状だけを見ているのだろうか。
◇吃音とどもる人の人生を切り離し、吃音だけに焦点を当てた長い歴史があった。どもる人がどう生きるかにまったく関心が払われなかった。生き方と密接につながるものを切り離して、部分だけなんとかするのは人間に対する冒涜というか乱暴なことだと思う。治せないと自分が思ったときに、治せないから、吃音と子どもは分けられない、自分がその子どもとどう向き合うかを突きつけられた気がする。どもりは決して軽い問題ではない。
◇「治せない」と、その子を見たときに初めて、吃音と人間が一体化する。治せるものだと思うと切り離せる。治せないものと覚悟を決め、全体としてみる。この子が吃音とともに生きる、それにはどうしたらいいかということを考える視点に立つことができた。「治さなくてもいい」とか、「治さなくても大丈夫」ではない。本当に吃音は治せない。だからどう思うか、だからどうするか、ということで覚悟を決めることだ。担当者がいつか治せる方法が見つかるかもしれないと、治すことを思い続けていたら、何もできなくなる。
◇覚悟がひとつのキーワード。治るか治らないかは分からないけれど、大勢の人とつきあうと治っていない。それなら、吃音と生きる覚悟を決めた方が生きやすい。担当者も治せないものと覚悟を決めた方が、その子どもとかかわる気合いが入る。その子どもが治れば結構なことで、僕たちは治ることを否定しているわけではない。
治療法がないのに治そうとするのと、治らないと覚悟を決めるのとはずいぶん違う。「治そう」は、大勢の人が試みて失敗してきた未知の世界。治らないと覚悟を決めて生きる道は未知の世界ではない。これまで世界中のどもる人たちが自分の人生をかけて経験してきた確実なで安全な道だといえる。
◇覚悟を決めて、子どもと向き合っている担当者がすでにいることを知ってほしい。あなたも覚悟を決めてしまえばそんなに大変なことではないということが伝わればうれしい。
◇仏教に白い道という話がある。向こう岸から、「おいで、おいで」と呼ぶ人がいる。向こうに行きたい。けれども、片方は火が燃えさかっていて、片方は水。その中に、一本の道がある。その道を歩いていけば、向こう岸にたどり着くという白い道だ。火の海に落ちるか、水におぼれそうで怖い。その中で、向こう岸の人の「大丈夫。おいで」ということばの通りにずっと歩いていくと、向こう岸にたどり着く。これが信じるということ。私たちの提示する道は、未知の道ではない。確信できる、もう見えている道、確実な道、安全な道だ。信じて歩み始めるかどうかはその人の選択。
◇どもる子どもと出会うとき、治療者とカウンセリングの立場がある。治療者として症状が治せないなら、カウンセリングで悩みを解決してあげたいになる。でも、私たちは同行者でいたい。私たち担当者は子どもより長く生きてるから、いろんなことを知っているが、どもりが生活にどう影響するかは、子どもの方がよく知っている。知らないことは子どもに聞くしかない。
◇吃音の臨床に関して、症状だけを見ない人は少しずつ増えてきた。治療でないならカウンセリングとなるが、どもっているが悩んでいないという子もいる。そこで迷ってしまう。そんな人たちには、実践した人の声が載っているこの本は、いいかもしれない。この本は研究者が作った本ではない。当事者と臨床をしている人間が組み立てた。
◇ワークブックの製作がスタートして、ものすごい時間、話し合い、二転三転しながら、みんなで一緒に作った感じがする。こんな感じでしてみたらどうだろうと話をして、結果をまた話し合う、をくり返してこの本を作ってきた。誰かのためではなく、自分のためにやってきたような気がする。やる気も出た。実際していることがそのまま本になるイメージができ、プロセスが楽しかった。
◇このワークブックは順番ではなく、取っつきやすいところからやれる。きれいに引き出しに整理されていない。おもちゃ箱から子どもと一緒に見つけ出していくという感じがした。どもりは命に別状ない。深刻にならずに、どもりと一緒に遊べる。その時の道具として、特に言語関係図はおもしろい。自分の内面を外に出し、眺めることを外在化というが、「どもり」をさわったり、こねたり、形を変えられると分かる。カルタなども、日によって子どもによって、いろんなことが出る。思いがけない展開に、奥の深い遊びだ。
おもちゃだからどんな遊び方するかはその時で変わるし、その子によっても変わる。わくわくしながら子どもがどう反応するのかを見る。子どもが反応したときに、どういうふうに動ける自分がいるか楽しみだった。子どもの意見に、私が考えていた反応ではなくて。えーっ!と驚いた。
◇1年生でここまで言えるなんてとか、100年早いよ、と言いたくなることもある。吃音は、豊かな世界を持っている。大人といっしょに考え、遊べる素材を吃音は持っている。私が出会った大人のどもる人たちは、豊かさや生き方のセンスみたいなものをもっていた。それを見たときに大丈夫なんだと思った。子どもは吃音親子サマーキャンプに行って、同じような体験をしている。小学3年生のグループでの話し合いなど、本当におもしろかった。テープを聞いたら笑い声ばかりだが、話の内容は奥深い。すごいなあと思う。大人よりもするどいときがある。
◇高校生のグループでも同じことを感じた。悩むがゆえに湧き出てくる何かがある。悩んだおかげでいろんな感性が研ぎ澄まされる。苦しみを持つことは、人間を豊かにするなあと思う。どもりを治すために薄っぺらになるよりも、何かひとつ困難なこと、生きづらいことを持っていることは悪くないなあと思えた。
◇楽しいと言い、考えなきゃと言い、相反するようだけど本当のことだ。おもちゃ箱のおもちゃを使って何をしたいのか、私たち自身が、問われる。子どもと担当者が仲良くなることは大前提だけど、仲良くなってから、このワークをするのではなく、一緒に歩んでいく中で、教師や親とどもる子どもが仲良くなっていく。それには、この子は変わる、成長できる人間だと信頼することだ。
◇ことばの教室で、いっも何かワークをしているのではない。話で終わる日も、徹底して遊ぶ日もある。何をしていいのか分からない親や教師がこの本を読むと、これもできるのかしらと思え、やる中できっと分かる。私たちは子どもに、どもりながら話しても君の思いはきっと伝わるよと言い続けてきたのと同じで、私たちがやってきたことは、きっと読者の皆さんに伝わると信じている。
◇治療法に関するワークで、電気ショック、舌の手術などが出てくると「まさかー」とすごく盛り上がった。ここまでして治す人がいることにびっくりしていた。今まで悩んでいたけれど、そこまで悩んでこなかった、みたいな反応だった。一つずつ、あるかどうか考えて、「実はあったんです」と言うと、「ウォー」という声。「電気ショックはどうでしょう」「ないないない」「実はあったんです」「えー」という具合。治療法でこんなに盛り上がるとは想像できなかった。あれだけたくさん治療法を出してよかった。
◇結果を保護者に見せたときに、「僕、大丈夫」とか「気にしてない」と言っていた子なのに、これならやってみたいと思ったものがあった。やっぱり治したいという気持ちがあったんだ、など、親が子どもの本当の気持ちを知ることができた。
◇発生率が100人に一人とか、どもる人が何人いるかより、自分がどもる子と出会えるかどうか。あなたの周りにもしかしたらいる可能性があるんだよと伝えていくことが大事。1%は、知識としてより、これから出会える仲間がいることを伝えるための一つのことばだ。同じようにどもる人と出会える話の展開はいろいろある。「どうしたら出会えると思う?」は、深い質問で、君がどもっていれば、向こうも分かる。みんながどもることを隠していたら、誰もいないことになってしまう。だからコントロールせず、隠さないで、君はどもっていくと、どもる子どもと出会うことができる。だから、「どもっていこうよ」という話になった。1年生で、どんどんどもってしゃべる子がいる。その子を見て、上級生の女の子が「あなたと同じような子がうちのクラスにもいるよ」と教えに来てくれた。
◇そこにどもりが成り立たなければ理解のしようがない。成り立たなくさせておいて、理解をしようなんて無理。どもる子がどもりながら生きることは、苦しみや悲しみ、障害などの生きづらさを抱える人とテーマが似ている。吃音を否定しないで生きることが、結果として他者貢献になる。そんな話もできて、すごく深くなった。この本は、私たち16人と、その16人がそれぞれ関わった子どもたちや関わった大人たちの生き方や考え方が全部出てくる。ものすごい数の人生の集大成だ。
◇このワークで、必ずしも子どもが元気になるわけではない。職業のワークをしたときも、全部○だと後で分かって、自分はどもってもいいと思っていたのに、なぜ×をつけたんだろうと悩み始めた子がいた。でも、それはいい悩み方で、そこに意味があると思った。吃音に悩んでいた頃が一番充実していた時かもしれないと言った高校生がいた。考えるから悩むので、脳天気に生きている人間は考えない。それが幸せかどうかは分からない。
◇この子とラポートがとれていないから、この子はまだここまで行っていないから、まだ関係がちゃんとできてないから、ではなくて、やろうと思いさえすれば、すぐできる。その子にとって最適のタイミングなんて誰にも分からない。名人芸みたいなことはできない。いつだっていい。だめだったら、やめる。試行錯誤がいい。一緒に失敗して、一緒にだめだと思い、一緒にああよかったと思う。そんなプロセスを味わった。
◇このワークブックには、うまくいかなかったところに宝物があるという発想がある。うまくいかなかったとき、子どもに準備ができていなかったのではなく、そこから自分の今の思いや考えを見っめることができるし、そのきっかけにもなる。うまく行かなかったところから出てきたものを認める力がある。順番に書いているけれど、私は順番通りにしていない。どこからでもいい。子どもとの自然な話の中で出てきたときに、それだったらこれをしよう、になればいい。
◇大事なことは、ワークを1回して終わりではなくて、半年後や1年後にしてみる。最初にしたのと、終了の時とどんな変化をしているかを見るのも楽しい。特に、言語関係図や評価法のチェックリストなどは変わったなあと実感できるだろう。
◇クラス替えがあったりすると、どんどん変わっていく。言語関係図は、毎回やってもおもしろい。「今週、どうだった?」と聞きながら、言語関係図を書く。「なんで、こんな形になるのかな?」と言ったら、実は、「こういうことがあって…」と、そのできごとが反映されていく。
◇最初に、今日の言語関係図を作ってみて、どうしてこうなのかなと話し合う。そして、当面の課題をみつけ、子どもと担当者が一緒に取り組むことができる。子どもといっしょにプログラムを作っていく材料になるという側面もある。
吃音は治せないと覚悟して実践している仲間がここにいることを知ってほしい。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/02
