吃音ワークブック

 吃音親子サマーキャンプの集合写真が表紙を飾る、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)。この本のために、何度合宿をしたことでしょう。その前に出版した『どもる君へ いま伝えたいこと』の出版のための合宿から数えると、かなりの回数になります。毎月のように、全国から集まって、原稿や実践や取り組みを話し合い、形あるものにしていきました。今から思い出しても、あのときのエネルギーは相当なものでした。16人の仲間との長時間にわたる討議の結晶といえるワークブックです。
 今日は、このワークブックが完成した安堵感と充実感があふれる「スタタリング・ナウ」2010.8.22 NO.192 を紹介します。まず、巻頭言から。

  吃音ワークブック
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 私は今、ひとつの長い旅を無事に終えた後の安堵感と、さわやかな充実感に包まれている。
 1965年の夏、「吃音を治したい」との苦悩の人生から、治らないのなら「どもってもまあいいか」と、どもる事実を認める、ゼロの地点に私は立つことができた。その後の私の人生と、たくさんのどもる人の人生、100年の吃音治療の歴史や、アメリカ言語病理学を検証し、問題点を整理した。そして、ことばの教室などでどもる子どもの臨床に携わる教師の仲間と、「吃音を治さない、治せない」と、再び、言い切る本を出版できたからだ。
 「吃音は治る、治せる」の長い吃音問題の歴史に終止符を打つために、私は「吃音を治す努力の否定」から、「吃音者宣言」へと進んでいった。
 1976年に『吃音者宣言』(たいまつ社)を出版した。「吃音を治す」発想しかなかった時代に、この本は「吃音を生きる」に立ちきった、画期的なものだったと言えるだろう。批判や反発があったものの、多くの人の共感を得たことは、版を重ねて8千冊も売れたことでも分かる。この私の一連の動きを、「伊藤の提起のせいで、日本の吃音研究臨床は遅れた」と一部の言語障害の研究者から名指しで批判されたこともあった。
 では、日本は、アメリカに比べて遅れたのか。
 確かに、吃音を研究する大学が日本ではほとんどないに等しい。言語聴覚士の専門職者が制度化されたのも、近年のことである。つまり、吃音の研究者・臨床家が欧米諸国に比べて極めて少なかった。これは、日本の吃音についてむしろ幸いだったと私は思う。セルフヘルプグループの活動が活発にならざるを得なかったからだ。そのために、どもる当事者が、自分自身で吃音について深く考え、取り組み、ひとつの方向性を出すことができた。ことばの教室でも「吃音を治す、改善する」にとらわれる人が多くなかったのは、そのためだろうと思う。
 では、「治す、改善する」にこだわるアメリカ言語病理学によって、アメリカの人たちは、吃音が治り、改善され、日本のどもる子どもやどもる人に比べて、幸せに生きられ、吃音の問題の解決ができているのかというと、そうはなっていない。
 その事実は、私が大会会長として開催した1986年夏の京都での第一回吃音問題研究国際大会以来、世界の情報が集まり、3年ごとの世界大会で討議され、明らかになっている。むしろ、日本の私たちの方が、「吃音と共に生きる」ことについての実践は先進的で、世界から注目されてもきた。
 「吃音が治る、改善される」ことに関して、言語病理学が発展しているアメリカも、そうではない日本もまったく変わりがない。治療法といえるものすらない現実の中では差がないのだ。
 このような吃音治療の100年以上の歴史を総括することなく、近年「吃音を治す、改善する」や「流暢性の形成」が、どもる子どもやどもる人の幸せにつながるとして、吃音を治そうとする動きが再び出てきた。インターネットの時代は、「どもりは必ず治る」とするインチキな情報を復活させた。
 また、ことばの教室では、吃音を治したいとの親や子どものニーズに応えるべきだとの声に、見よう見まねで、「流暢性形成」のために、危険な「随意吃音」などを指導するところが出始めたとの話を耳にするようになった。
 「歴史は繰り返す」とは多くの分野で言われることだが、吃音は原因も未だに解明できず、治す薬も手術もないなど、確実な治療法が確立されていない。にもかかわらず、「治す、改善する」が日本でも復活しつつあるように私には思える。
 1976年の『吃音者宣言』の時は、日本の実情だけをもとに、セルフヘルプグループ10年の活動からの問題提起だった。しかし、それから34年、私たちは幅広く活動し、世界大会を開いて、世界の実情も検証している。さらに、様々な分野から多くのことを学び体験を整理した。子どもたちのための吃音親子サマーキャンプの活動も加わった。
 34年間熟成したものを、教師の仲間と長い時間討議し実践する作業は、長い旅だった気がする。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/30

Follow me!