楽しい、サイコドラマへの招待

 2010年秋、増野肇さんをゲストに迎え、「サイコドラマ」をテーマに、吃音ショートコースを開催しました。そのショートコースの前に、増野さんの著書、『サイコドラマのすすめ方』(金剛出版)1990年 の第二章「なぜサイコドラマか」を、吃音ショートコースへのお誘い用、「スタタリング・ナウ」読者用に要約編集しました。できるだけ原文に忠実にしましたが、原文を大幅にカットしたために、文章のつながりが不自然に感じられるところがあるかもしれません。
 このように大変失礼な、原文の編集ということを、増野さんは、許可してくださいました。ありがたいことでした。こうして、増野肇さんによる「サイコドラマ」のショートコースへとつながっていきました。(「スタタリング・ナウ」2010.7.25 NO.191)

  楽しい、サイコドラマへの招待
              増野肇 ルーテル学院大学大学院教授

 はじめに
 なぜサイコドラマなのか。多くのワークショップを行ってきた中で、参加した人たちから受けたたくさんのフィードバックやシェアリングを整理して紹介したい。
 サイコドラマは、心身症、神経症、アルコール依存、統合失調症といった病気だけでなく、慢性の病気、ガンや難病の人たちのように心身のメカニズムが働いている人たちにも、有効な治療法となる可能性がある。笑いとユーモアをもたらすために、身体にも良い作用をもつであろう。
 「心の健康づくり」が今日の社会において大きな意味をもつようになっている。病気を治すだけでなく、その予防、さらに積極的な心の健康が求められる。単なる公衆衛生的なレベルをこえて、人間の生き方として物質文明にむしばまれた現代社会を救うものとしても求められるであろう。
 教育の場では、すでに「ロールプレイ」がさかんに用いられているが、サイコドラマはもっと楽しく、ダイナミックな教育をうみだすことになる力をもっている。学校教育だけでなく、社会教育そして特殊教育の分野でもおおいに刺激を与えることになるだろう。
 また、自己の可能性を広げることこそサイコドラマの一番の目的であり、それがさまざまな役割に利用されているといってもよいだろう。
 そして、楽しむためのサイコドラマがある。趣味、道楽、サイコドラマ三昧といってもよい。とにかく楽しいからやる。それがたまたま健康にも自己開発にもつながる。楽しいことが第一だという立場である。これが案外もっとも大切なことなのかもしれない。それ以外の目的は、楽しむことができたときに達成されるものなのかもしれない。

 療法として
 胃潰瘍やガンが、精神の緊張を調整することで好転することも認められている。心の関与する部分に働きかけて身体全体の活動をより健康な方向へと導くことを意図して行われる試みの代表的なものが精神療法である。サイコドラマはその精神療法の一つで、共通した作用をもっているものと考えることができる。
 心に限らず、身体全体への働きかけ、生活状況をも含めて考えていくと、それらの目的とするものは、一人一人の人間がより良く生きていくことを目ざす。そのどこまでが健康という条件に関係しているかは難しいが、健康を目的としたものが公衆衛生や精神衛生であり、その一部として、医療や精神療法もあるということになる。

 カプランの「危機理論」
 「人生の中で遭遇するさまざまな危機は、発達に伴う危機、突発的な外部からの危機といろいろあるが、それを通して人は変化、成長していく」
 危機状態では、それまでの対処が十分に力を発揮できなくなる。新しい力、能力の出現でその課題を克服したときにその人はより強化された自我をもつ、つまり成長したことになる。
 逆に、不十分な、間違った対処に頼れば、不健康な、自我の力を弱める形で安定することになる。
 危機の克服には、キーパーソンやその他の援助システムで本人の不安をとりさり、健康な力を引き出す試みと、危機そのものをコントロールするソーシャルワーク的な働きかけがある。
 一方、本人の自我の力を強化し、危機がきたときに克服できる技術を身につけさせる試みが教育で、精神療法の一部でもある。それはただ単に知識を与えるだけでなく、手頃な、その人にとって成長をうながすような危機を設定した体験学習、作業療法の体験や訓練となる。
 治療といっても精神療法は、境界もあいまいで日常の危機援助や、教育的アプローチの中にも入りこみ、どこからが医療なのか定めがたい。
 森田療法と、セルフヘルプグループである「生活の発見会」の活動との間に、治療と学習から生じることは同じものであっても、片方が治療で片方は学習と呼ばれるにすぎない。
 「治療」は、危機を支えたり、危機克服を可能になるように教育していく活動、公衆衛生や精神衛生活動の一部で、どこから「治療」かの一線はあいまいで、精神療法においてはその傾向が強い。
 精神療法の基本となる態度は、日常の人間関係にも共通するものがあり、森田療法や交流分析が、日常の生活の中で生かされたり、自己開発の訓練として発展していることともつながってくる。
 急性の危機に対する援助、危機介入、慢性化した不健康な状態に対しての働きかけを通しての自我の強化、危機を克服して成長していく力を強めること、これらが精神衛生活動であると同時に精神療法でもあるといえる。このような観点から、サイコドラマの治療としての役割を考えてみよう。

 ドラマとは危機である
 不健康の中で一応安定している人、神経症的な行動様式を身につけている人、アルコール依存、慢性の統合失調症の状態を、より健康な状態へと改善させ、将来の危機に対処できるように強化することが治療の目的になる。
 そのためには、安定がくずされなければならない。なぜなら、危機のときに人は成長するチャンスをもつからである。しかし、通常の危機に対処できないから病気という形態をとっているので、本人が対処できる危機を与えるのが原則となる。
 行動療法では、段階的に危機をつくっていく。あるいは、すべての力を動員して、大きな危機を克服させることもある。海へ投げこんで泳ぎを覚えさせるのもその方法である。
 森田療法では、日常生活の中で出会う危機の一つ一つに対処する態度を教える。統合失調症の人たちのソーシャルスキルズ・トレイニングもその一つであるし、作業場は、より軽減された危機場面を与えて克服させるステップである。
 サイコドラマでは、舞台という安全な世界で主役のドラマが演じられる。ドラマとは危機なのである。これまで自分で克服できなかった危機がドラマとして舞台の上に再現される。しかし、監督も、補助自我もいる。多くの仲間が支えている。ドラマ術により、いろいろな形で事態を見つめることができる。そのような状況の中で主役の中に新しい動き、解決への力が生じてくる。それが「自発性」で、自発性をひき出し、危機克服する力をつけていくのが「古典的サイコドラマ」といえる。
 カプランが、「危機に、新しい力で克服できるのが成長である」というのも同じだろう。
 そのためには、不安をとりさったり、表現を助けたり、視野を変えることで、新しい発見をうながしたり、さまざまな技術が用いられることになる。そのためには、ウォーミングアップやシェアリングといったプロセスも必要になってくる。

 不安をとりさること
 危機の課題解決をさまたげるもっとも大きなものは不安で、精神療法でも、不安をとりさることが大きな課題となる。治療者の受容的態度が不安をやわらげる。それが非指示的療法であろうと指示的療法であろうと、最初に必要なことになる。
 サイコドラマは集団精神療法であるから、その集団に受け入れられることが重要になる。サイコドラマは集団メンバーの親密性を急速に高める力がある。ドラマが成功すれば、メンバー間の壁はくずれ、おたがいの関係が深まり、グループの受け入れる力が強くなる。ドラマを通してその人の本来の姿が浮きぼりにされ、他の人にとって理解されやすくなるとともに心に訴えかける力をもっているからである。そして、メンバーのコミュニケーョンをより豊かにする。
 しかし、グループがそれだけの力をもつまでの問題がある。即興劇を演じる課題は、「日常生活そのものが即興劇だ」といっても、やはり非日常的である。観客の見守る舞台の上で、スポットライトの中で行うことは、かなりの緊張や不安をつくりだす。この最初の緊張、不安を軽くするウォーミングアップの時間がある。
 自己紹介や、これから生じることの説明が行われる。サイコドラマとはどんなものか、なぜするのかの説明をする。おしゃべりをして時間を過ごす方法もあるが、効果があるのは身体を動かすこと、体操やゲームのようなものを取り入れることだ。自由に身体を動かし、「笑い」が入るように構成されたウォーミングアップは心身のリラックスに役立つ。これが楽しみで参加する人も出てくる。

 主役になる
 主役となってスポットライトをあびる。赤ちゃんのときにはそのような体験が「基本的な信頼」をつくりだすとエリクソンは言う。アイデンティティの確立も人生の主役としての自分を見出すことによって起こる。
 不健康な状態にあるとき、人はこのような体験、機会を持てないできたものも多い。精神療法の最初に、一人の人間として認められ、話を関心をもって聞いてもらえる体験が、治っていく力を引き出す。その人は、主役を演じ、治療者はそれを助ける補助自我や観客を演じている。
 サイコドラマでは、主役という役割がある。その役割を演じているときには、スポットライトの中で、皆に見てもらえることになる。他のメンバーは、もっぱらその主役の世界を作るのに協力する。監督は、主役が主役として十分に自己表現できるように、そして表現されたものがまわりの人たちによって理解されるようにと協力する。
 スポットライトの中で自分のことを表現できること、それを何人かのメンバーが助けてくれ、見ていてくれることがその人の自我の力を強め、危機の克服に役立つ自発性を引き出す。
 主役を十分に演じるには、それだけの準備と期間が必要であり、そのためのグループ・プロセスが配慮されなければいけない。

 カタルシス
 主役となって自己表現することがカタルシス(感情浄化)の作用をもつ。自分の心の中にあり、十分に意識されなかったもの、表現が抑えられていたもの、許されなかったものを、仮の世界の役割の中で表現でき、それが受け入れられることによって、抑圧されていた感情が解放されることになる。運動や身体を用いてのカタルシスもある。思いきり「たたき棒」で椅子をたたいたり、椅子を投げつけたりする役割もある。そして最後のシェアリングの時間には、主役のドラマを通して触発された他のメンバーたちの感情が解放される。これらの人たちのカタルシスが、相互作用をうみだしたときにグループ間の親密性も高まってきて、それがまた他の人を変えるカをもつことになる。

 洞察
 サイコドラマでは、日常の生活では見られない自分が出現することに気づく。それは、日常の役割から自由になること、そして視点を変え、役割を変えて自分を見ることになる。相手の立場に立って考えろと言われて、頭の中で考えるのと、相手と役割を交換して、文字通り相手になって自分を見るのとでは大きな違いがある。自分も見えてくるし、相手もわかってくる。
 「ダブル」と呼ばれる「もう一人の自分」になったり、生まれたときから自分を守っている「守護天使」になって自分を客観的に見ることもできる。タイムマシンを用いれば、スクルージィが三人の幽霊に導かれてクリスマスにみたものを見ることができる。それが真実感をもつように組み立てるのが監督の技術でもあるし、補助自我の技術でもある。サイコドラマの目的の重要な一つであるといえる。

 誰かのために生きる(補助自我となる)
 危機をのりこえるのには、そのときどきにその人にとって重要な人となるキーパーソンの支えが大きな意味をもつ。
 セルフヘルプグループである、「断酒会」や「生活の発見会」の良いところは、そのようにして助けられた人が、次にはキーパーソンとして助ける役割をとることである。そして人を助けることが、自分の強化にも役立つことを知るのである。
 サイコドラマには、監督の他に主役の危機克服を援助する補助自我と呼ばれる重要な役割がある。「ダブル」と呼ばれる役はとくに重要で、もう一人の自分として一緒に行動を共にする。友人とか親兄弟とかの役を演じることもある。そして、大事なことは、このような役割は、治療者とは限らないということである。主役の相手役を主役自身に選ばせることも多い。そのとき主役の中には、不思議な力に導かれて、自分に相応しい人を選びだすことがよくある。相手役として選ばれた人は、主役のために舞台を生きる。相手役以外のさまざまな役割もメンバーは求められる。全員が主役のドラマを見守るとともに援助をすることにもなる。
 このようにして、誰かに関心をよせ、そのために奉仕する役割を体験をすることになる。しかし命令されて奉仕をするのとは違った体験になる。それらの傍役が、主役にとって重要であり、それによってドラマが成り立っているのがわかるからである。そして、主役を自分の分身として見ることになるからでもあろう。
 「断酒会」の会員が助けようとしている男にかつての自分を重ねあわせてみるというほど鮮明ではないが、同じ部分が触発される、それがドラマのもつ力でもある。

 感受性を高める
 感情を表現するのが苦手な人がいる。感じることが抑圧されていることもあるし、涙を流しているが、そのときの感情を意識化できない人もいる。これらの感情を自由に表現できるようになることで、人と人との親密性、コミュニケーションは高まる。理屈として理解していても、感じとることができないと、行動の変化にはつながらない。
 ドラマとは、詩や文学と同じように理屈でなくて「感じる」ことを助けるものである。説明ではなく、感じとることでわかるのである。ものごとを理解する一つの方法でもある。いくつものことばを連ねても説明できないものが一気に明らかになることもある。
 ドラマのあとに、シェアリングの時間がとられる。主役が代表として裸になり、皆に示したドラマによって引き起こされた自分たちのドラマを観客が語る時間である。ここでは一人一人の共感性、感受性が触発される。
 私も本来感じることが苦手であり、「感情」に欠けていると指摘されたこともある。ザーカ・モレノの最初のセッションで、シェアリングの技法を紹介され、シェアリングを求められたとき、今考えても的はずれなとんでもないシェアリングをしたのを思い出す。二回目の来日で彼女の合宿に参加してから、感じとることが少しずつできるようになった。
 涙を出すことが悪いことでなく、むしろ重要なことだとわかり、それを抑えていたものが減少してくるとともに感じとることもできてきたと思う。

 楽しむこと
 自分の課題をもっていて、それを解決しようとしている人にとって、楽しむことは重要でないと思うかもしれない。それに対し、「心の健康づくり」の場や、精神病院、デイケアなどでは、このことが大切になる。モレノが「笑い」と「ユーモア」の重要さを強調し、それがサイコドラマの大切な要素であると考えているのに同意したい。
 セッションのあとで、「役に立った」という感想よりも「楽しかった」という感想が多い方が成功である。見る方の芝居にしても「役に立つ」芝居よりも「楽しい」芝居の方が本来の芝居なのである。
 サイコドラマは演じる楽しさである。体を動かし、心にあったものを表現し、昔を想い出し、他のメンバーとふれあい、そして一体となった世界を体験する、その楽しさである。
 笑ったり、涙を流すだけなら暗い客席で良い芝居や映画を見ているときでも生じる。サイコドラマでも観客として見ているときは同じである。しかし、ドラマのあと主役のそばにいって、手をとって自分の思いを伝えることで、自分もその中に入りこむことになる。
 また、ウォーミングアップで体操をするのがとても楽しいと言って参加する人がいる。同じ体操でも一人で家で体操をするのとは違うのである。思い出の世界を主役が表現していくとき、観客の心の中にも忘れていた幼い頃の思い出が甦ってくる。それが笑いや涙を呼びおこす。そのような全員の思いが会場に溢れてきたときに、サイコドラマの楽しさは最高になってくる。

 自発性
 ドラマの中で課題をのりこえる自発性を引き出すのが、本来の目的だが、それを可能にするのが、サイコドラマの特徴の数々なのである。
 児童を対象とした「分析的心理劇」では、物語をつくらせて、それを全員で演じる。これは「物語をつくる」という創造活動による自己表現をうながし、そこで展開される物語や、どの役を演じたがるかを通して、その児童の抱えているテーマを理解し、その中での危機克服を見守ったり、助けたりすることになる。一方、全員が参加することで子どもたちの楽しい遊びの再現ともなる。

 精神保健のために
 現在の身体の病気を考えると、急性の病気に対する医療システムは、発展をとげているのに対し、成人病、ガン、心臓病、脳血管障害の問題、難病には、医療もまだ十分でない。治りにくい病気には、その病気と共にいかに生きていくかが大切になってくる。そのときの心のあり方が病気そのものの展開とも関連していることが知られている。そこから、ガン患者の「生きがい療法」や「内観」など、心の健康のあり方が問題となってくる。
 精神的な病もまた、そのような一面をもっている。これらは、病気という危機、治りにくい病気を背負う危機にどう対処するかという課題になる。
 精神保健は従来、第二次、第三次予防に重点がおかれ、危機への対策でもあった。しかし、これまでの対策をもっと広げて、第一次予防、そしてより積極的な「心の健康」を目ざした展開がある。
 「心の健康づくり」「心の発達援助」「ウェルネス」として、危機を想定する人たちに「健康教室」という形での社会教育がある。潜在的な危機に敏感で、もっと自分を変えたい、充実させたいと願っている人たちを対象とした積極的な「自己開発」プログラムという方法として存在することもある。
 後者としては、「交流分析」を筆頭に、さまざまな技法の組み合わせによる「自己開発」の試みが企業としても成り立つようになっている。「セルフの会」など、いくつかの試みがあるし、「内観」の道場も増えてきている。これらの活動の一つとしてサイコドラマは、単独でも組み合わせによってもかなり魅力的なものといえよう。
 一方、健康教室の場合は、公的な公衆衛生の機関が、更年期とか老年思春期といった危機を対象に、危機に対する事前指導的な立場で行われている。しかしそれらの教室に積極的な気持ちのない人、つきあいで来ているような人も多い。さらに、これらの人たちにとって、坐って話を聞くという教育方法は、よほど講師の話が面白く、聞かせる術を心得てないと、効果をあげるとはいえない。また、笑って聞いたとしても、その場で「面白かった」で終わることも多い。一方交通でなく、それを自分たちのものとしていくようなグループワークを加えていく必要が生じてくる。
 ストレッチング教室、栄養指導、腰痛体操といった身体を動かしての体験学習が評判もよいし、人も集まることがわかる。したがって、サイコドラマそのものでなくとも、サイコドラマの技術を用い、その中に取り入れていくことが適していることがわかる。身体を動かすということ、それもウォーミングアップで用いるような運動や、ちょっとしたゲーム的なもの、人とのふれあいといったことが、相互のコミュニケーションを深め、楽しい雰囲気を作りだすのに役に立つ。

 コミュニケーション
 精神保健の重要な要素としてコミュニケーションがある。コミュニケーションが十分でないということがストレス状態をつくりあげる。コミュニケーションを助ける技術としては、自分の気持ちを的確に表現できること、相手を傷つけることが少ないこと、人の話に耳を傾けること等であろう。集団精神療法においては、治療者がこれらを助けることによってコミュニケーションを改善していく。合同家族療法はその典型的なものといえる。
 サイコドラマにおいては、発言は各人の自発性に任されてはいるものの、監督が介入し、補助自我がことばを補うこと、そして役割を交換し、相手と立場を変え、自分のことばを聞き直すことで、コミュニケーションをよくしていく。
 社会の中で保っていた役割から自由になることで、本来のすなおな気持ちが表現されるとグループ全体のコミュニケーション、あるいは、人と人とを結びつけていく。
 その他、ロールプレイの形式で「人をほめる」という役割をくり返すことで、その人の良い面を見つけたり、ほめることばが用いやすくなるといったことも可能になる。

 教育のために
 サイコドラマの一形式であるロールプレイングは、教育の分野で広く導入され、実際に用いられている。それはある役割を体験してみることを通して学ぶということになる。役割交換による洞察、一つの体験過程をストップさせたりくり返すことによる発見、役割をくり返していく中での行動変容といったものがみられる。学校教育の場よりも、職場での教育、研修に利用されていることが多い。生徒や患者の気持ちの理解、自分の行動や考え方のくせの発見、状況の理解、問題の解決といった目的に用いられることになる。
 面接室での坐り方、視線、ことばつかいといったことが取り上げられ、ロールプレイというよりも、ロールテイクの訓練といったものになる。人間を行動の面から評価し、それを変えていくのは、行動療法にも通じる考え方で、心の理解よりも行動の変容に重点をおくことになる。
 サイコドラマでは、行動は重視されるが、行動の主体としての心、意志、感情へのフィードバックが重視される。そこが難しいこともあるけれど、人間性を感じとり、それに接するときの楽しさや喜びも大きくなる。
 ロールプレイングだけでなく、より幅広いサイコドラマの技術を、教育の分野に導入することは、教育の自発性を豊かにし、楽しさや人間性を取り戻すことになるように思う。もっとも、受験だけが目標である学校では縁遠いことかもしれない。
 自分が参加し、主体的に身体を通して学ぶことは、創造性を刺激し、自発性をひき出す効果がある。即興劇を通して、英語の会話を練習するにしても、サイコドラマ的な技術が加わることで多面的になり、広がりが生まれ面白いものとなる。歴史や道徳も、身体で体験したり、ダブルを用いることで深めることができるし、タイムマシーンで、その時代を再現することもできる。特殊学級や養護学校のように体験を重視するところの方がなじみやすいかもしれない。
 ただ、現在の教育に求められているものが一人一人の個性に目を向け、その可能性を引き出すことであり、一定の枠に適応させることでないのなら、サイコドラマのような場では、一人一人の個性が、より短い時間の中で表現されるし、教師もそれを理解しやすい。そのような時間を週に一時間持つだけでも生徒に対する理解はぐっと深まるだろう。「おちこぼれ」と呼ばれるような生徒に対する対応の鍵も見いだせるであろう。

 自己開発のために
 オーストラリアでは、治療より一般市民の自己開発を目的としたサイコドラマが活発のようだ。わが国では交流分析がさかんだが、サイコドラマも今後広がっていく可能性はある。現在はそのようなものが求められる社会状況にある。現在、東京で開催する「東京サイコドラマ研究会」へも、そのような目的で参加する人が増えてきている。
 自己開発とは、現在の自分に飽きたらず、もっと変化したいという願望から生まれてくる。それは、病気からの治癒や予防とは異なるが、メカニズムとしては同じものが考えられる。

 現実の役割からの開放
 現在の社会は変化も速く、ついていくのがやっとであり、毎日がいつのまにか流されていく中で自分を見失う不安もある。ある役割をもっているとその役割が次々と行動を要求する。そのようなものから自由になる場として、瞑想や、サイコドラマの場がその一つとしてある。
 サイコドラマでは、舞台という特別な空間を前提として認めることで、役割から容易に自由になれる。空想や幻想のレベルで自由になることもある。しかし、たやすく自由になるためには、誰もが持っていて、しかも忘れている子どもの頃の世界を再現することである。人生の中でも、もっとも自発性の高かった時代、幼児期に戻って、自分を体験することがやすらぎとともに新しい自発性を取り戻す力となる。
 自分の中にある、気がつかなかった面を見い出すことも、自己を開発していく上で重要なことであり、そのためのグループワークが、交流分析やゲシュタルト療法で用いられている。しかし、その多くのものはサイコドラマと重なるものである。
 ある役割を通して自分を見るということが、その中でも効果的である。役割交換という技術によって相手の立場になって自分を見るということになる。よく人の立場に立って考えろというが、サイコドラマでは、他人の役割を演じることで、より強く体験できる。さらにもう一人の自分、いっも自分を守ってくれている守護天使の役から見たり、大切にしている机や本箱、沈みゆく太陽や、満天の星になって自分を見るという体験もできる。自分を何人もの自分にわけて考えることもできるし、自分のほしい能力や期待を「魔法の店」で買い求めることもできる。そしてこれらは、他の技法の場合よりも、その人全体が関与することによってより深いものになっていく。

 自己表現の楽しさ
 自分の心の中にあるものを表現し、創造していく楽しさがある。絵画、彫刻、音楽といった芸術にも通じるが、それらに比べると、道具も、技術の訓練もいらない。監督に任せながら、グループの人たちの協力のもとに創造していくことができる。また、監督や補助自我の助けを得ながら自分が言いたいこと、伝えたいことを表現していくことができる。芸術には、訓練していく苦労の中にも楽しさがあるが、そこへ致るにはかなりの努力が求められる。サイコドラマは、そこへ致る道をさし示すことにもなるかもしれない。
 さらに死んでしまった人、遠くにいる人、現実の世界では言えない人とも話すこともできる。空想の世界、夢の世界を実現できるし、未来を、いろいろと表現することもできる。これらを可能にするのが、舞台と呼ばれる特別な世界なのである。
 管理社会の中で生きていくためには、このような自由な自己表現が許される場を持ち続けることが重要なものになってくるのではないだろうか。(「スタタリング・ナウ」2010.7.25 NO.191)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/29

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