チャールズ・ヴァン・ライパー著『The Treatment of Stuttering』 第10章 検証
「スタタリング・ナウ」2010.6.21 NO.190 に掲載の、五味淵達也さんによる翻訳、『The Treatment of Stuttering』を紹介します。ライパーの目次を読んで、この章ならおもしろそうだと翻訳されたものです。ちょっと長いですが、全文紹介します。アメリカ言語病理学に関心がある方はお読みください。僕たちは、どもる時はどもるに任せるしかないと考えているため、ライパーのような「検証」はまったくしません。それにしても、アメリカ言語病理学が、無駄なことにこんなに一所懸命になることが、僕には不思議でなりません。しかし、「吃音を改善する」立場に立つと、このような訓練をしなければならないということを知る、いい機会だと思います。五味淵さんによる訳は、この3倍近くあったと記憶しています。
ライパーのセラピーの一部を知ることができたことに、83歳だった五味淵達也さんの労力に感謝しているのです。
チャールズ・ヴァン・ライパー著
『The Treatment of Stuttering』 第10章 検証
五味淵達也訳
はじめに
吃音の問題の核心は、経験を通して身につけた反応や、どもるかも知れないという予期不安だ。私たちのセラピーは、この習慣化された反応をやめ、なめらかな話し方を容易にするどもり方に変えていくことになる。また、同じように身につけてきた不適当な行動も変えていく。新しく学習する経験を通して、これらの反応を消し去ったり、置き換えたりできる。吃音治療とは、悪い習慣をやめ、学び直し、新しいことを学ぶことである。
自分がどもる時、どう混乱しているか、どもる人本人が検証する訓練から始める。これによって、セラピストとクライアントの協同作業関係がつくられ、何をやめなければならないか、治療上の問題点を指摘できるようになる。また、どもる人自身が、自分の吃音が何で構成されているかを分析的に探求する責任を持つようになる。
検証から始めて、直ちに修正するという無理な要求はしない。自分がどのようにどもっているかを知らないで、どもり方を変えるのは無理な注文だからだ。どもる人は、顔をしかめることから、「あー、あー、あー」まで、異なる行動すべてを含めて、吃音と呼ぶ傾向がある。
・どもる人はどのようにどもるのだろうか
・私達がどのように「吃音」を変えたいか
セラピストは、変更されるべき、やめるべき反応を明確に指摘すべきである。私達は、最も早い時期に、変化されるべき諸活動に向き合い、指摘する。どもる人は、どもるとき何をしているか、気づかなければならない。私達が、どもっている時の行動を修正させようとするなら、どもる人本人がそれらの行動を識別できなければならない。
検証過程のねらいは、付随して起こる感情を静めることにもある。セラピストの誠実な関心と吃音の分析的な調査は、不安を減少させる。どもる人が避け続けてきた経験が初めて注目される。
自分の治療に本人が積極的に参加するよう責任を与えられる。いろんなどもっている時の行動を集めて、報告することで、それらの特徴や、何の目的でそのような行動をとるかをどもる人が認識する。セラピールームでどもるのと、日常生活でどもるのとでは、その特徴は異なるが、この情報は、本人だけが提供できる。
「君の仕事はどもることだ。自分がどもった時に何をしたか、なぜしたかを正確に見つけ出し、普段の生活の中での吃音と、どもったときの気持ちを私達に報告しなさい。そうしたら、私達は何を変えるべきかを明確に知ることができる」
検証手順
悪いくせをやめ、新しい学習をし直す計画を立てるには、どもっている時の行動をしっかりと分析・把握することが、まず必要である。どもっている時の行動の見本を集め、多様性の中の共通点を見つけ出す。話す前に、「あー」と言ったり、わざと咳をしたり、唇をなめたりすることはすべて、回避に含まれる先おくり行動で、これらを発見して、吃音のカタログを作る。
どもる時に経験する異常さや挫折感を先送りするために、言いにくい語の前で立ち停まる。唇が震えて動かない状態から抜け出るために、あごをひいてあえぎながら話し始める。また、腕を振りながら、話すタイミングをとったり、ことばを言い換えてどもることを回避する。
どもる人のどもっている時の行動は、それぞれ目的があり、意味がある。その行動は、これまでどもる人を助け、彼の困難を最小限に押さえてきた。どもる人は、自分が何をしているかだけでなく、なぜしているか知る必要がある。
どもっている時の行動の検証や研究で、必然的に自分の混乱や自分自身をどう思っているか調べる。吃音問題の中で、どもっている時の行動が果たす役割を確かめた上で、これまで対処法として身につけたものが、不要になる。
どもっている時の行動を集めることは、どもる人が捜さなければならない。それが吃音回避を減少させることにつながる。治療開始に、この検証治療は最も効果的だった。どもる人に過大な要求はせず、検証するためには、どもるだけでよいのだから。セラピストとの間に、相互に影響し合う関係をつくり出す。そして、問題は何かを開示し、意味を明らかにする。
検証治療の分類体系
どもる人がどもっている時の行動を収集し、カタログ化し始めるには、指導案内を用意する必要がある。やりたいようにすると、最も異常な状態に注意を集中し、悲劇的な経験ととらえてしまう。試行錯誤を繰り返した後、私達はひとつの順序をみつけ出した。
①流暢に話すことができる言葉群を見分ける最も簡単で最も口に合う課題。自分が流暢に話す能力があること、流暢には話せないとの病的な思い込みの間違いに気づく。
②短い簡単などもり方が、自分の話し方の中に無意識のうちに存在していることを検証する。
③回避行動の収集、対決、分析の段階
客観的で平静に検証できたとき、先送り、タイミングを図ること、どもりそうだという気持ちにさせることばつかいや、その他のすべての項目について、分類体系の順序に従って行う。
セラピーの初期段階では、これらの行動をとり除いたり、修正を要求しない。彼の役割は収集者、目録編集者で、いろいろなどもっている時の行動を集め、整理する。「今、私はどもっている」というときに何をしているかを知りたいし、本人にも知ってもらいたい。
目標行動―流暢などもり方の検証
「言い換えできない最初の音や母音を引き伸ばし、次の語に移るのに時間がかかり、不自然でない音節の繰り返しがあるかも知れないが、避けたり、後戻りしたり、もがき苦しむような行動は全然みられない」
この流暢などもり方は、話の流れを乱すことも、フラストレーションや聞き手の否定的な反応をひき起こすこともない。このどもり方を認識したり、これも吃音だとは誰も思わない。いろんなどもり方があることを知り、聞き手の不快感を引き起こさずにどもることができれば、コミュニケーションに恐れることはなくなる。このようなどもり方を学んで利用することができると指摘する。
ビデオや、セラピストが真似をしてみせるまで、どもる人は自分のどもり方に気がつかない。他の人の話の中に、このような流暢などもり方を捜すために、クリニック以外の場で、流暢などもり方が起こったことばを書き出したり、実際の行動で説明する。これが典型的なコメントである。
「もしも、いつもそのようにどもれるのだったら、どもることに恐れることはないだろう。私は何でもしゃべれるはずだ」
自分のどもっている時の行動をよく調べ、向き合うことから始める。そして、いろいろな方法でどもることができると認識し、コミュニケーションに悪影響を殆ど与えないどもり方もあることが分かるようになる。
回避行動の検証
回避の型を集めることから始める。いろいろな場面で起こった出来事を書きとめ、自分のごまかし術の全レパートリーに気づかせる。ことばの言い換えなどをテープで聞き、検討工程をつくる。
最も頻繁で、最も強烈なものを認識する。この収集、検証の間に、回避することがいかに重荷で、吃音の脅迫に屈服してきたかを悟る。
私達の相談会でこんな述懐が聞こえてくる。
「なぜこんな生き方をしなければならないの」
「なぜ偽装し続けなければならないの」
「呪われた卑怯者。人生から逃げ続けている」
回避行動を収集し分類することで、より深いレベルで自分自身と向き合い始める。長く押さえつけてきた感情を表現するよう勇気づけ、流暢にどもれるようになれば、回避やどもらないふりをせずにすむことが分かる。回避行動に対処し、報告し、実証し始めると、回避行動は頻度が少なくなる。
彼らの中には、回避や見せかけが、信じられない程上達している人もいる。周りは回避に気づかない。収集探索の過程ではじめて、このような行動が何のためなのか見分けがつくようになる。
また、回避するための他の多くの工夫も報告する。いつもと違う声で喋ったり、大げさな抑揚をつけたりして、どもらないようにしていることを話す。彼はどもることを避け、不安を打ち消すために、笑いや怒りの表現をも活用する。聞き手の注意をそらし、自分自身も気を紛らし、その結果、吃音が注意をひかなくなったことを、彼は私達に話す。
どもることで彼らが過去に受けた仕打ちに対する最後の対抗手段としてとった反応が、回避であったことを、理解しなければならない。
大部分の人は、回避は卑怯なことだと理解している。回避行動との対決は、自己概念との対決も含む。回避することで、たまたま話せたとしても、この誤魔化しを使ったことは、どもる人間であることを再確認させる。治療を通して、二つの自分自身の調和を、セラピストは回避行動の検証の中で、理解し、受けとめる。
先送り行動の収集
先送り行動は回避の下部概念だ。話さなければならないとき、先送りすることで失敗や異常状態を避けようとする。予期していたどもることを予防する。先送りは結局、一種の回避だが、私達は治療のこの段階で、自分の会話の仕方を解明し、発見できる先送り行動のすべてを捜し求める。
「あー」などの間投詞、直前の語や慣用句を繰り返す、空咳をする、唇をなめるなど複雑に合成される。ある人は、実際にどもる姿よりも注意を引きそうな特異行動を見せる。頭を大きく振り、「あの、あの」と言う。研究分析を進めると、それはかえってコミュニケーションの妨害だと分かる。
吃音が突発的な発作ではなく、自動化されてしまう程に学習された習慣的反応の蓄積されたものが殆どであることがわかる。
タイミングを図る行動の検証
これらはごまかしのためのものではなく、話し始めるためのものである。数を数え、努力を集中する。話し始める瞬間、他のことばや身振り手振りを利用する。不安な瞬間を抜けるための補助的な行動で、「今だ!」と勢いをつける。これらの先送り行動は、それらが成功する度に強化される。
どもっている時の行動の異様な特徴のいくつかは、これらの身についてしまったタイミングを図るための工夫が原因である。頭やあごを引いたり、腕を連打したりするなど、僅か9人のグループから70以上の異なった形を収集した。
検証作業は、熟考された段取りによって行われたので、一番扱い易いものからより難しいものに進む。私達がタイミングをとる行動の収集に辿りついたとき、どもる人達は異常な話し方に立ち向かわなければならない。
自己憎悪や自己嫌悪は治療室の安全な場で自由に討論される。セラピストが対決を共有することができ、口真似を上手にしたり、顔や顎をゆがめることができれば、どもる人の恥じらいやみじめさは和らぎ始める。彼は吃音は行動であると認識し始める。彼はなぜ自分がそれをするかを理解するに至る。セラピストがどもっている時の行動のこれらの重要な構成部分を客観的に冷静に詳しく調べ、彼が観察したことについてコメントできれば、どもる人の随伴行動の大部分は減少する。
ことば遣いにあらわれた手掛りの検証
治療過程の比較的遅い時期に、これらの認識や彼らの感情の精査を導入する。捜し出し、収集し、報告し、実地に基づいて説明する。彼らは自分自身の理解を基に、自分の行動を精密に検査することに興味を示すようになる。自分の不安や差恥心の個人的な重荷のいくらかをセラピストと分かち合えるようになれるだろう。
私達は、どもりそうになる徴候や手がかりを探し求めさせる。治療室外で、予想していることばを書きとめさせるが、それらの不安の現実味を試す計画も同時に協力して工夫する。いつもmで始まることばでどもると言い、不安を持つ人が、スピーチのテープを聞くと、その音で始まることばの18パーセントしかどもっていないことを発見した。
私達は彼にどもりそうだと予期するきっかけの標本を集め、それらが妥当かどうか見極めさせる。検証を継続するにつれて、語の長さ、文章の中での位置、意味合い、過去の不愉快な歴史などのような不安をかき立てるその他のすべての用語上の手がかりを検証する。収集する度にチェックすることができるように、調査を構成する。予期とどもる現実との間の相関関係はどれ程大きいか。どもることばをどれだけ予言できるか。予期した時点で、どんな行動のリハーサルが起こるか。不安は変動しているか。恐れているどのようなことが起こるか。
これらはセラピストとどもる人との討論を通じて提起された疑問である。そして、これらに対する答えは実際の対話の調査を通して見出される。
語に対する不安を殆んどもっていない重症のどもる人がまれにいる。一般的な問題がどもる人の不安に影響することがある。長年、不安に思わないために気を紛らわせ、話し方の異常さを予期することから遠ざかろうとしてきた。通常失敗するのだが、彼のまぎらわしのトリックが不安いっぱいの刺戟に気をつける過程の不愉快さを感じなくすることに成功している例は多い。
対話環境的手がかりの検証
どもる人は、話す不安を引き起こす対話状況の特徴を検討すればいいのだが、その代わりにすぐに他の人との間柄を調べてしまう自分自身に気づく。
自尊心が脅かされる可能性故に、与えられた状況で話すことを恐れていることに気がついている。古傷の記憶が彼を覆い尽す。他人の評価によって恥辱感をもっているが、それをことばにしなければならない。長い間これらの感情を押さえつけてきた。昔の古傷を忘れようと努めてきている。
なぜあの魅力的な娘さんに電話するのを怖がるのか。「多分彼女は私を奇妙な人と考えるだろう。電話を切った後、面白がって同室の友達に話すだろうし、彼女が何を喋ったか私は伝え聞くことができる」。
神経過敏な人は調査のこの局面で、提起された機会に影響されずにいることはまずできない、セラピストは、場面恐怖に関連した現象を調査し始めるとき、彼は彼自身を探索している。
治療期にどもる人がする報告は、通常、コミュニケーションの状態や予想される聞き手の反応に左右される。これらの特殊な状態において、どもりそうだと予想するのはなぜかと聞かれたときに、最初は言えない。強要されれば、彼はかえって同様な状態の下で話し方の挫折感や聴き手の嫌悪感をとってしまった特殊な例を思い出すであろう。
「電話をしなければならないときはいつでも、私は、どもり、相手は電話を切ってしまうだろうと恐れている」「私は、彼らは我慢できなくなり顔をそむけてしまうか、笑うか、気のきいた冗談をいうかするだろう、と気が気でなくなる」「私は彼らが私のことをうすのろ扱いをしないかと恐れる」「私は彼らが私のことを可哀相な奴だと思うだろうと恐れる」言葉にすると、こうである。
これらの予期不安がどれだけ現実味があるか試そう。10回電話をかけて、一体実際に何回聞き手が受話器を置いて電話を切ってしまったか。朝、何人が彼がどもったからといって笑ったか。何人がいら立ちのサインを出し、拒絶したか。通常、これらの予期された不快な聴き手の反応は思っているような不快な反応はあまりしない。聞き手は自分の関心事以外には殆んど何らの興味も示さない。どもることに、衝撃より、驚いているように思えるし、拒絶するよりも好奇心をそそられているように思える。これらのことを知って驚くだろう。
予期したような嫌悪行動をとる人もいるだろうが、それらの人は自分自身不安定か、悩んでいる人だ。この現実性テストは大抵いつも予期は大げさなものであることを実証する。セラピストが提供するある種の不安になる話し方状況を現出し、その中でどもる人が事前に自分の予期を分析した後、現実の結果を検証することは賢明だ。
核心となる行動の検証
異常な話し方に探りを入れる。私達はどんな異常が存在するか見つけ出したい。私達は古いトラウマ的行動との対決、苛立たしい気の迷いや、言い続けることに対する無能力感を直視する。
どもる人は、どもる言葉を「普通の言い方で言う方法」と、「流暢にどもりながら言う方法」とを比較しない限り、これらの核心的行動の違いを見つけることは困難である。再び私達はモデルとして彼のスピーチの中に楽などもり方を探す。今回は比較のためなので普通に話せる言葉についても同様に、その特徴を調べる必要がある。
私たちは「異常なしゃべり方」、「流暢などもり方」、「普通のしゃべり方」といった三様のしゃべり方の特徴を検証、三対の比較検討をしようと努める。
治療の初期でも、私たちは、どもる人が自分のスピーチをモニタリングし、先入観を変えることをすすめる。彼が自分の話し方の間合いや異常な声に耳を傾けることをやめて、現実に何かを見つけ出そうとし始める。彼が正常な会話者がするスピーチを注視し、流暢なしゃべり方と比較しながら、彼のどもった話し方に意識を集中させる。
この分析的比較はどもる人にとって未知である。彼らは、正常に話した時とは違って、吃った時には何をしたか滅多に吟味しない。自分の発音がどう相手に聞こえたとか、どう思われたかを調べる。どもる話し方と正常な話し方との間の行動の相違点を観察するにつれて、彼はそれらが如何に異なっているかに注目し、驚き、ショックを受けるだろう。また、彼の流暢などもり方が正常な話し方とよく似ていることに衝撃を受ける。
彼がこれらの三者を収集し、観察するにつれて、他の重要な相違点が明らかになってくる。
検証のこの局面で、最も見えやすいこれらの声の出し方に私達は集中する。ここで初めて、鏡、スナップ写真、又はビデオテープを使用する。どもる人が、どもった話し方、正常な話し方、流暢にどもった話し方を調べなければならないと認識したら、好奇心をもつに違いない。ことばを切り離して、そのことばを何回も繰り返し、そのことばが使われている間に行われる動きの変化を見つけることによって、どもる人は、セラピストが同様な分析的姿勢を示してくれることもあって、自分の行動の現実を直視できるようになる。
この探求段階において、些細な違いではなく総体的な違いを探す。母音を出そうとしても誰も発音できない程に唇や舌が完全に空気の通路をふさいでしまっているような、唇を蛇口のように突き出されるのが観察される。これと正常な話し方を比較して、その違いに驚く。
「私が立往生してしまうと感じるのはあごか舌か唇がぶるぶると震え出すときです。そのとき、それは自分ではどうすることもできない無力感に陥る。なぜどもる時だけこうなるんでしょう? どもらないときにはこんなことにはなりません」
どもる人は「ブロック」をどう終わらせるかについて、とても知りたがる。どもる人が発見することには三つの特色ある終了局面がある。
1、ふるえの振幅が減少し、遅くなる。
2、突然な筋肉のけいれんか、頃合いを見計らった緊張の大波が震えのリズムを中断させる。
3、局所的な過度の緊張状態が治まる。
突然のけいれんや過度の緊張の破裂が、一時的に言えなかった音節を言えるようにしても、すぐに震えに舞い戻る。これらの現象は、正常な話し方では現れない。少しどもる話し方では、短い震えが現れると過度の緊張は起こらないことに気づく。
この局面で、震えを研究するにつれて、震えの頻度よりも継続時間が変わることを認識する。継続時間は不安や局所的緊張の総計に比例する。この吃る人の観察よりももっとずっと重要なことは、震えと親密に触れ合う彼らの経験である。やけどをした子どもは、彼が覚えている程ストーブが熱くないことを発見する。私達は不安と挫折感を取り除き始めようとしている。
緊張する部位の検証
緊張の識別に焦点を当てる。どもる人の緊張のパターンは、指紋と同じ位に個々別々である。過度に緊張する部位も変化する。私達はひどく緊張した部位や構造に鮮明に気づけるようになるよう求める。どもりながらの言葉の出し方と正常な話し方とを比較するにつれて、自分自身が、悩みの種になるような努力を一所懸命にしていたことを理解する。
どもる人は、彼らのどこが緊張しているかを捜し出すことが大変難しいと感じている。震えの働き具合は客観的に対決するのが特に難しい。震え出すと、自分自身を自分本来の行動から引き離そうとする傾向がある。「そういう時、私はすべてを消し去った。それは私が私のからだを置き去りにして、吃音が私から離れるまで、どこかへ行ってしまった場所である」
どもる人達がブロック状態にある間中、相手は聴覚的シグナルを受け取れないことを発見したとき、聴覚的感知不能とよんだが、この特徴の中にたくさんの変動性を見つける。どもる人は、聴覚的や運動機能学的よりも視覚的に考えるように習慣づけられているので、他の人達よりも震えている最中の緊張の中心点を認識することができる。これは多分、これらを検証する際に私達が通常視覚的なことを取り入れるからだろう。
しかし、緊張の検証において、顔面や首筋部分を意識したり、念入りに触ってみたりして、そこから震えている最中に自分自身を見失なわないようにする。そして、それは又、吃音はたまたま起こっているのではなく、彼が行っているのだという気づきを強める。
ウェンデル・ジョンソンが意義ある緩和と名づけた古いテクニックを思い出す。ジョンソンはどもる人達に話しながら静かに自分の両手を互いにさわったり、こすったりさせる。これをしているとき、自分自身にやさしくしていることを確かめるであろうし、軽くたたくと幼年期に愛撫された古い記憶が甦るだろう。このテクニックは、くつろぎを導こうとし、緊張の中心点のよりよい検証を容易にしようとする。私達は、緊張がとけるのを見たり感じたりすることができる。
反復言い直し行動〈繰り返し〉の検証
完全停止か硬直のみをみせる人は殆どいない。大部分の人は揺れ動く性質を持つ核心的行動の変化をもっている。反復繰り返し行動を、筋肉組織が制御不能に陥っているようだと報告する。
「ひとたび繰り返しが回りはじめるとそれはもう止まろうとしない」
「私のあごはボールのようにはねかえる」
「一言話し始めると最初の音節がまるで蒸気機関のようにぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっとなり続ける」
この経験は客観的言葉で言い表そうとしても大変むずかしい。しかし、この経験は現実的である。また、後々まで結果の残る精神的ショックでもある。「私はこれまでずっと、こういうどもり方をしてきた。そして、このような暴れ馬のようなどもり方が起こる度に私は震え上がる。私はそれらに馴れることができない。それらは骨まで私をゆさぶり、震え上がらせる」
私達のこの行動に対する仮の説明は、同時に連続して起こるべき動作のタイミングが分裂させられることが原因で、その行動をよく調べ何を発見したかを報告するように要求する。私達は精いっぱい調査し、分析することを要求する。正確に同じように同じ不適当な動きや音節を「自動的に」繰り返す、ただ言葉を発する直前に何らかの変化が起こることはあるという。
この探求は疑問が完全にもしくは満足に答えられることなく進むが、今は、どもる人が不安の洪水に満たされることなく自分の行動と向き合うことで十分である。最も重要なことは、彼が自分が流暢に話している時に比べ、どもった時にどう違う行動をとっているかを認識することである。暗い不思議の世界に一條の光が差し込む。
どもった後の反応の検証
どもることで体得する感覚は、検証するのに最も耐え難く、最も不愉快なもののように思われる。私達は検証の最後に探求する。
どもる人達はこれらの感覚をことばに表すことを最も苦手としている。どもる行為が呼び起こす根源的感覚は、基本的に挫折感、差恥心と敵意である。
不安も感じられるが、他の恐れていることばか状況が判ってくるにつれて少し後から生じてくる。多分、どもった直後から何としてでも早く次のことばを言おうと急ぐ心理状態に由来するのだろう。彼はできることならそのような衝撃から逃れたいと熱望する。彼は憶えているなんて真っ平である。彼はそれらを言葉に表す術を知らない。
挫折感の検証
強烈な挫折感の大多数はどもっている間に起こると報告されているが、どもった直後に彼らを悩ますのはコミュニケーションの遅れである。
話すことは骨の折れることのように思われるし、どもる瞬間瞬間がのろのろとした話し方を更にゆるやかにしているように感じられる。私達の所のどもる人のひとりは短く電話で話した後言った。
「全然連絡がとれてないと思う。私は二つのことを言っただけ。どうにかこうにか私流にゆっくりと話したが、とても長い時間がかかってしまった。私は、私の方が電話の向こう側の人よりもいらいらしていたのではないかと思う。詰まって詰まって詰まり抜いた。そして彼らは言う、『ほう、そうかね? 何? 何と言ったの?』。そこで私はこの不愉快な作業をもう一度全部やり直さなければならなくなる。ひどすぎる!」
彼らは新しい空気を入れて、元気づけられ、負担を分担してもらう必要がある。検証のこの局面はその機会を提供する。
羞恥感の検証
羞恥の感覚は挫折の感覚よりも容易に言葉に表すことができる。ことばが出ないことを表す言葉は殆どないが、羞恥にはたくさんのことばがある。
表面に表れているいないに関わらず、現実的であれ想像上のものであれ、これらの感情が聞き手の反応によってもたらされる。この治療の初期段階において、私達は、この検証訓練の間、どもる人達は通常自分の羞恥心を表面的な表現で満足しているように思える。どもる人達がどもった時どれ程恥ずかしかったかを告白したときに、私達がそれを受け入れたのか、憐れんだのか、それとも拒絶したのか、彼らは疑念をもちながら一心に見つめている。
「なぜ恥ずかしいことなんか何もないよと言ってくれないの? それは他の人達がいつも言うことばだよ。彼らはみんな嘘つきだ」
私達はその他の誤魔化しやことばの検討を続けた。しかしながら最初から検証のこの特殊な局面が非常に好んで見受けられる少数の人がいる。彼らは自分の胸のドキドキ感、大げさな自分に対する憐れみ、自己嫌悪感に夢中になる。
敵対感の検証
敵対感の検証において、どもる人達は広汎な変化に富んだ反応を見せる。軽くどもる人には、殆ど敵意は見られない。彼らの感情は外見上主として不安に色どられている。どもる瞬間が去ると、一種の安心感に包まれるが、すぐに次回には流暢にしゃべれるかどうかわからないという心配にさいなまれるのが彼らの常である。
怒りを報告する傾向があるのは、かなり重度の人達で、コミュニケーションがうまくとれずメッセージを完全に伝えることができないという苛立ちに基因している。
もがくたびに何らかの苛立ちをつくり出す。激情は最終的には聞き手ばかりではなく、どもる人本人も驚かす程の爆発に至る程蓄積される。
重度の吃音の10才の子どもの母親が相談に来た。彼女は「ボビイは人が変わったようです」と嘆いた。
「彼は愛敬のある子で、楽しく、しきりに人を喜ばせようとする扱い易い子だったが、最近強情で、意地悪な子になってきている。先日、学校で何があったかを話そうと努力した後、突然暴れ狂い出した。椅子を倒し、花びんをこわし、私をなぐろうとしました」
私達にはそれがよくわかる。ボビイよりも年上の多くのどもる人から、私達は彼らを不意に襲う烈しい怒りの内部感情について報告を受けている。
しかし、すべての敵意が苛立ちからくるとは限らない。多分より多くが聞き手の否定的反応に基因する恨みから生じているようである。(了)
五味渕さんが訳してくださったものを、全てそのまま掲載すると、17ページにもなる。誌面の都合で大幅にカット、要約したために、分かりにくい部分があると思われる。文責は編集部にある。翻訳による限界もあるが、貴重な文献なので紹介した。大意を読み取っていただければうれしい。(編集部)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/27
