どもりはどこへ~チャールズ・ヴァン・ライパーからのメッセージ~

 チャールズ・ヴァン・ライパーの特集を掲載しています。今日は、チャールズ・ヴァン・ライパーから僕たちに届けられたメッセージを紹介します。1930年代から順に、吃音へのアプローチについてまとめてくれています。歴史は繰り返されるのだなあと改めて思います。
 アメリカ言語病理学があくまでも「どもること」にこだわってきたのがよくわかります。
 1930年から2025年の現在まで、アメリカ言語病理学者の中では、僕の提案する「吃音を治す努力の否定」をし、「吃音と共に豊かに生きる」に徹底する研究者が一人も出てこなかったことに、とても不思議な感慨を覚えます。50年以上前から提案してきた僕の考えは、吃音の領域ではまだ受け入れられていませんが、精神医療、臨床心理学、特別支援教育などの分野では、常識のようになっていることが、僕に勇気を与えてくれます。自分の信じた道を歩んできてよかったと思えるのです。

どもりはどこへ
     チャールズ・ヴァン・ライパー  ウェスタンミシガン大学教授(言語病理学)

◇これまでの歩み◇

 長い間、私たちはどもりの森をさまよってきました。歩き疲れた私たちは切り株に腰をかけ一休みする必要があるのではないでしょうか。
 私たちは、結局は、同じ道をぐるぐるまわってきただけなのでしょうか?
 古くからあるこのやっかいな問題の解決に向かって、本当に前進しているのでしょうか?
 今は亡き多くの探険家がこの森に足を踏み入れたことは、かすかについている足跡を見つけ、直接その道をたどってみて知ることができます。
 どこまでも続く果てしない道に、道標をつけようとしたり、新しい道を自らの手で切り開こうとしている友人が、今もなお森の中にいることも周知の事実です。
 先人が道に迷ったのでしょうか?
 私たちが勝手に道に迷ったのでしょうか?
 この森に入る人、みんなが迷うのでしょうか?
 私たちは今、どこにいるのでしょうか?
 ここからどの道に抜けるのでしょうか?

吃音矯正所の盛衰

 「インディアンは迷わない。小屋そのものが迷った」
 この北米の森に伝わる古いことわざは、ことの外、意味深長です。歩き始めた地点と通った道が発見でき、その道をそのままたどっていけば、道に迷うことはないのでしょうに。
 私と一緒に、これまでの道のりをふり返ってみましょう。
 私は、1905年に生まれ、1906年からずっと、時には軽くなったり、重くなったりしながらもどもり続けてきました。この間に、社会のどもりについての理解は、ずいぶん深まりました。
 私の子どもの頃には、吃音は汚ならしい悪癖、また、自らの手で抑えられない言語性てんかんともみられました。更に、「真似をするとうつる」が一般的認識で、どもる人には社会的制裁が加えられたのでした。どもる子をみつけると、通りすがりの人はやめさせようとしたくなりますし、近所の人は、自分の子どもと遊ばせないようにします。学校や遊び場では、からかわれ、いじめられます。まわりがこのような態度だから、父親は、息子がどもることを許さず、どもるたびに注意し、母親は「早く治ってほしい」と神に祈りました。
 これら昔の名残りは、少しは残っているかもしれませんが、以前と比べ大きく変わってきました。社会では現在、吃音を解決しうる問題としで考える傾向があり、スピーチ・セラピストという新しい職種がその解決の責任を持たされています。
 20世紀の初期には、どもる人が受けられる援助は、金もうけ主義の吃音矯正所か、ジプシーのように渡り歩き、どもる人をカモにする吃音巡回矯正師ぐらいでした。この治療は、決まって短期間に集中して行われ、吃音矯正所の宿舎で2~3ヶ月隔離されて生活し、又吃音巡回矯正師のバラックで一週間ほど、自信を取り戻すことや、どもらずに話すための訓練に明け暮れました。
 大きく息を吸っての呼吸練習や、大声の発声練習や、メトロノームに合わせてゆっくり話す練習がほとんどでした。矯正師は、常にリラックスしろと要求しました。はじめは一斉に、次は一人で、自分でスピードをコントロールしながらゆっくりと、正確に話すことを教えられました。どの練習もほとんど催眠と同じように、強い暗示がかけられた状態で行われていました。
 練習の中でどもった時には、罰が与えられ、どもらない時には、ほめられるのが、練習中のルールでした。食物やお菓子を得る券や、いろいろな不愉快なことから逃れられる特典が与えられました。
 反対にできない場合には、食物やお菓子をもらえないどころか、いろいろな不愉快な罰を与えられたのでした。全くどもらないようにするのが、その目標だったのです。
 かたくなまでのこの厳しいプログラムの影響と、これまでの環境と全く隔離させてしまうことによって、ほとんどの人は一時的ではあるにせよ全くどもらなくなりました。しかし、そのほとんどが逆もどり現象で、すぐ再びどもり始めたのです。
 1913年にブルーメルがこれら吃音矯正所の治療プログラムに批判的な検討を加え、それらが失敗していることを明らかにしました。
 その本が出された後、多くの吃音矯正所や吃音巡回矯正師は姿を消し始め、1930年までには、それらのほとんどは廃業しました。

言語病理学が生まれた初期の時代
 専門職としての言語病理学は、1930年代に生まれました。初期の研究のほとんどは、大学で行われました。研究対象のどもる人を得るために、大学は臨床サービスとして、多くのスピーチ・クリニックが大学の中に作られました。
 この頃の研究は、吃音の症状やどもることによって起こる様々な心理的葛藤などを克明に書き表すことに集中しました。しかし、それと同時に、吃音の原因についての追求も進められました。
 その中から、どもりの本質や原因について多くの理論が打ち立てられました。しかし、その理論にいろいろな角度から検計を加えると、その多くは姿を消さざるを得なくなりました。トラビスの大脳半球優位説もそのひとつにすぎません。
 各年代ごとにどのような理論が出されたか、見てみましょう。

1930年代
 1930年代は、熱烈な弟子を持ったそれぞれの学派が、互いの正当性を主張し、他を批難する理論闘争が特徴でした。精神衛生に対する関心の高まりの中で、精神医学者のひとつの学派が生まれ、その学派は、吃音は本来神経症であるとし、心理療法に深く根ざした療法を主張しました。
 吃音は、けいれん性の神経運動動の機能障害であるとする考え方は、大脳半球優位説だけでなく、ウエストが広めた、小児てんかんの概念の中や、アイゼンソンの固執性理論(吃音者は運動おび感覚を保持する体質的傾向が強く、どもっている時のつっかえ、くり返し、ひきのばしは、そのあらわれ)の中にも見られました。
 これらに反対し、吃音は単に学習された行動であるとする考え方が新たに出されました。ダロッブは、好ましくない癖をなくす場合、故意にその癖を出すことによって、克服できる運動習慣とみなし、意識に出ていたものを自分の意志でコントロールできるようにするという、逆式療法で克服できる単なる運動習慣とみなしました。
 ブルーメルは、パブロフの唱える条件づけによって除去できる言語のひずみだと考えました。
 ウェンデル・ジョンソンは、コーゾブスキーを始めとする一般的意味論の影響を受け、幼児期には誰しもが持つ正常なことばの非流暢性やひきのばしを「どもり」だと誤って認識するところからどもりが始まるという理論を打ち立てました。
 ヴァン・ライパーは、これらの理論の悪いところは捨て、よい面を取り出し、ひとつの理論を作ろうとしましたが、残念なことに失敗しました。
 ふり返ると、1930年代が主に貢献したことは、吃音をひとつの取り組まねばならない問題として、多くの人々に関心を持たせたことでしょう。
 激しい論争や議論のくり返しの中から、広範な調査、近接の専門領域のパイオニアの多くの種類の治療経験から私たちの社会の、吃音に対する見方がずいぶん変わりました。吃音は恥ずかしい、ものではなく、挑戦する価値のある対象となったのです。

1940年代
 どもる人が治療を受けられるスピーチ・クリニックや治療機関が驚く程増え、公立学校で援助を受けることができるようになりました。この年代の最も有力な理論は、ウェンデル・ジョンソンの意味論でした。過大に評価できないにせよ、よい影響を与えたことは事実です。幼児期の正常なことばの乱れを、親やまわりが異常だと意味づけることから吃音が始まると考えたことは、吃音に対する社会の基本的なとらえ方、これまでの慣習を著しく変えました。吃音は決して罰せられるべきものではなく、親がもっとことばに対して寛容になり、子どもをもっと理解しなければならないことを主張しました。
 『どもる人は、どもることを避けたり、うまく話そうともがいたり、恐れたり恥ずかしがったりすることはありません。もし、吃音者がどもってうまくしゃべれなかったら、はずみをつけて私たちみんながよくするように、気楽に力まないでおおっぴらにどもってみせるべきです。どもる人は正常なのです。決して異常ではありません。異常なのはどもる人が話すときにする正常なことばのつっかえを異常とする社会の評価なのです』
 ジョンソンは、大変説得力のある人だったので、吃音を予防しただけでなく、多くのどもる人をずいぶん楽にしました。
 しかしながら、1940年代の吃音治療法の主力をなしたのは、どもる人をリラックスさせて行う治療法でした。ヤコブソンの実験に刺激された我が国のギフォード、ハーン、そして英国のフォガティーによって、どもる人の多くは、深くリラックスの状態に入る訓練を受け、リラックスしている間にはどもらずに話せることを教えました。そのようなリラックスの状態に入るためには強い暗示が使われたのです。さすがに、かって吃音矯正所がしていた呼吸練習はしなかったのですが、ためいきをついたような状態の中で、力まずに発声することを教えました。更に、これらの練習は、精神的に強くなることや、社会に適応していく練習と合わせて行われました。
 40年代には、又、学習理論に基づく対症療法も始められました。異常とみられるどもり行動に対してまわりの人が寛大になり、どもる人がどもることによってフラストレーションを起こさないよう、どもってもなめらかに話そうとするように、という姿勢を作ろうと努めたのでした。
 どもる人は、自分の吃音をおおっぴらにすることや、これまでのどもるまいとして避けたり、かえって余分にどもったりしたことをやめるか、あったとしてもそれを軽減するように教えられました。
 ヴァン・ライパーらによって提起されたこの療法は、どもる人の場面に対する恐れや、語に対する恐れを和らげ、コミュニケーションにおけるフラストレーションに耐える力をつけるのに役立ちました。それは、個人に集中して行われたり、グループで、自宅で一人で行ったりしました。話すことを課題にしているので作業療法と考えられがちですが、心理療法的要素も含まれていたのです。

1950年代
 今は治療場面から姿を消したリラクゼーションに重点が分かれていたことは別にして、1950年代は、旧来の治療や病因論が検計され、選別され、更に発展しようとする時代でした。その時代にあって、ジョンソンとヴァン・ライパーの治療法が最もその傾向が強く、双方ともに、その初期の主張からかなり変化、発展してきているのです。
 私たち言語障害に関わる専門職が、吃音だけでなく、他の全てのコミュニケーションの障害に立ち向かい始めるにつれて、又、言語病理学の領域が発達してくるにつれて、吃音の問題にはかつてのような関心が払われなくなってきました。サイバネティックスに於けるウイナーの研究、リーとブラックによる聴覚的遅延フィードバックの研究によって、どもらない人にも吃音に似た非流暢性を作り出せることが発見され、これがこの年代に新しいアプローチの方向を示したのです。これらの研究は、吃音研究の重要かつ基本的な調査研究へと結びついていきました。例えば、ストロムスタは吃音者の聴覚フィードバック機構が、どもらない人よりもこわれやすいことを発表しました。

1960年代
 吃音に対する関心が再び起こり、研究活動は活発になり、新しい理論的解釈が試みられました。
 新しい理論的解釈とは、様々な吃音行動が古典的もしくはオペラント条件づけでどう理由づけられるかということでした。又、恐怖症、神経症についてのウォルビーとアイゼンクの研究の影響を受けて、系統的脱感作と逆制止の原理が吃音の治療に取り入れられました。それに伴って、リラクゼーションや罰が、今度は全く別の理論のもとに再び取り入れられるようになりました。
 その他昔からある多くの治療法が装いを変えて取り上げられました。話す時にテンポを取るいろいろなタイプの装置が新しい治療対象に使われ始めました。電気メトロノームやパーセブトスコープやどもった語に反響のタイミングを合わせる聴覚遅延フィードバックの装置などがありました。
 長い間取り上げられなかった数々の技法が昔からある吃音の問題に対する新しい解決法として再び取り上げられました。とても長続きするとは思えないのですが、話す速度を落としたり、一斉に朗読したり話したりする技法が、どもらないようにするために再び使われ始めたのでした。
 また、どもらない時には賞賛が、どもった時には罰が与えられるやり方が再び頭をもたげてきたのです。

ジョンソンの意味論
 この10年間「幼児期なら誰しもある話しことばの非流暢性を吃音と診断するところから吃音は始まる」とするジョンソンの意味論は、ウィンゲイトらの強い批判にあい、1960年代が終わるまでに、ジョンソンのこの領域における優位な立場は、行動変容論者にとって代わられました。
 この時代を特徴づけるとすると、学習理論を吃音にも導入したことでしょう。運が悪かったのでしょうが、認識論の立場に立つ学習理論家たちの果たした役割は無視され、古典的な条件づけ、オペラント条件づけが脚光を浴びました。
 また、カール・ロジャースの非指示カウンセリングや精神分析などの吃音に対する心理療法的アプローチは関心を持たれなくなり、それを受けつぐ人もいなくなりました。学習理論ということばでは説明しなかったものの、私のアプローチはその考えに近かったので、初期は、影響を受けずに済みましたが、表面的にとらえる人は、私のアプローチに、伝統的な療法とレッテルを貼ったのです。
 私個人の偏見と見られても仕方がないのですが、以上が私たちのたどってきた道なのです。
 どうやらまっすぐな道はなかったようです。かつて有望とされた多くの道も、たどっていくと袋小路につきあたったり、歩み始めると足跡が消えかかっていて、同じ道をぐるぐる回らざるを得なかった道もあります。引き返した時もありました。
 私たちは、本当に遠くまで来たのでしょうか?
 私たちは、またどもりの森の中でさまよっているのでしょうか?
 確かに多くのどもる人や治療家は、まだ森の中でさまよっていると思っているのです。

◇どもりの現状◇

 ここで一休みして、今私たちがどのような状態でどもりの森の中にいるのか考えてみましょう。
 まず言えることは、私たちがさまよい込んだ森の中の茂みには、たくさんのトゲがあることです。

表面的な治療
 現在、公立学校では表面的な吃音治療しか行われていません。担当者一人が扱うケースが多くて、十分な治療ができないのでしょうが、もっと大きな理由は、臨床家が適切な訓練と十分な臨床経験を積んでいないからでしょう。現在の制度では、大学院の修士程度で臨床家を養成せざるを得ません。修士課程では、吃音だけでなく各々の障害について数多くの年令別グループにわたった必須実習があるので授業時間はかなりつまっています。治療家のたまごである学生が、多くのどもる人に有効な治療をしたいと思っても、それに必要な能力を身につけることは極めて難しいのです。学生たちは、吃音について書かれた書物を読んだり、講義を聴きますが、吃音の治療上の困難な問題にぶつかった時、それに対処できるだけの十分な経験はほとんどつんでいないのです。
 その結果、表面的な、名ばかりの治療しか受けてこなかった多くの青年あるいは、成人は、吃音に打ち克とうとする望みをすっかり失い、更にはそれ以後、治療を受ける機会があっても、かたくなに拒否してしまいます。これは嘆かわしいことです。なぜなら、吃音の本質についてまだ明らかにされていないことは多く、また、こうすれば治るという治療法が確立されていない現状の中でもある人にとっては、有効な治療が全くないとは言えないからです。実際完全に治らなくても楽にどもるよう手助けする方法は分っているのに、それすら体得している臨床家はほとんどいないのです。
 ソ連をはじめとする鉄のカーテンでおおわれた国の臨床家達による早期教育は、高い成功率を誇っています。どもりは早期教育が大切であると言われながら、悲しいかなわが国では、吃音児やその親が、早期教育を受ける機会は之しいようです。

早期に手がけてない
 どんな手だてを打っても、それが吃音の問題を更に悪化させるかもしれないという危惧が、臨床家にはあり初期の吃音治療には気のりがしないのです。ジョンソンの意味論の立場をとるマイナス点はここにあります。臨床家は、子どもがひんぱんにどもり、将来に大きな影響を及ぼすと予想できても、吃音と診断したり、どもりということばを使うことさえも嫌います。固定し吃音に進展していく危険性は高いにもかかわらず、鑑別診断する能力を持ち、それを進んで行う臨床家はほとんどいません。
 子どもがどもることにフラストレーションを起こしたり、罪悪感を持つなど二次性の吃音の様相を呈し始めているのに、親や臨床家は何も問題がないかのようにふるまい、心の中ではどもりが消えればよいのにと思い続けるのです。

子どものどもりの研究を
 どもりについて莫大な量の研究がなされているにもかかわらず、初期の研究の大部分は、今一度やり直すか、計画をたて直してしなければ、それに基づく独自の理論や治療法を打ちたてることはできません。どもりの進展についての縦断的な研究は特に必要です。
 私たちの研究の対象のほとんどが、大学生以上の成人であり、子どもが研究対象になることはほとんどなく、基本的な研究は行われてこなかったのです。完全に固定してしまった成人の大きな顔をジロジロ見るのはやめ、吃音の進展過程について、神経学上の現象について、もっと子どもの頃からの研究を進めなければならないのです。

明るい見直し
 その反面、将来ほんとうの進歩が期待でき、私たちを元気づけてくれる明るい見通しもたくさんあります。多くの人に共通して有効な治療のプログラムのモデル作りが計画されてきていますし、研究者や臨床家が、吃音が改善した、治癒したと半信半疑ながら主張する時に使う基準は、あいまいな点が多かったのは事実ですが、単に主張するだけではなく、理論や治療プログラムが検討されようとしているのもひとつの進歩と言えそうです。また、臨床家を養成する立場にある大学では、徐々に、そのカリキュラムを改訂し、その内容を向上させる努力が続けられています。

木に登ろう
 こんなわけで、行くてははるかに遠いのですが、どっちの方向に進んでいったらよいか、その光明を見い出すことはできるのです。将来に夢を託し、未来が約束された道を探すために、乱暴な憶測と言われても、一度高い木にあえて登ってみようではありませんか。歴史的な事実が流れている暗い川を向こうみずにも私たちは渡ってきたのです。
 もっと自由に空想をめぐらしてもいいのではないでしょうか。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/25

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