人生を生き抜くために~岸見一郎さんからのメッセージ~

 2009年10月10~12日に開催した、第15回吃音ショートコースのテーマは、「アドラー心理学入門」でした。講師は、岸見一郎さんでした。岸見さんとの濃密な3日間を過ごした多くの参加者にとって、心に残るショートコースになりました。
 その岸見さんに、「スタタリング・ナウ」読者に向けてぜひ文章をとお願いしたところ、お忙しい中、送って下さいました。「スタタリングナウ」2010.4.20 NO.188 より、岸見一郎さんの「人生を生き抜くために」を紹介します。一見、厳しいとの印象を受けるアドラー心理学ですが、底に流れているのは、人への優しさだと思います。今、悩んでいる人に、変わってくれればいいなあと、本気で考えていると思うからです。

  人生を生き抜くために
                          岸見一郎

 他の人がわかってくれなくても

 あなたがどもるかどうかは、実はあなたが思っているほど大きな問題ではないのです、と私が話し始めたら、どう思われるでしょうか? 少なくとも、それは人生の一大事ではありません。そんなことはないという思いがこれを読んで一瞬でもよぎった人はいませんか? どもることでこれまでどんなに大変な思いをしてきたか知らないから、そんなことを軽々にいうのだ、と思ってここで読むのをやめることなく、少しばかり耳障りかもしれない私の言葉に耳を傾けてくださったら嬉しいです。
 そもそも同じ経験をしていないのにわかるはずはないだろう…といわれたら、それはたしかにそうだと認めないわけにはいきません。この一年半ほど私は認知症で一人で暮らせなくなった老いた父の介護をしていますが、父が戻ってくるまでは認知症のことも介護のことも何も知りませんでした。介護の経験をして最初見えなかったことが少しは見えてきましたが、もしも介護の経験を一度もしたことがない人が介護について見当外れのことをいっても、その人を責めるわけにはいきません。私もまた父のことがなければ、今も介護のことについては理解することができていなかったわけですから。
 私は吃音について正しく理解したいと思いますが、たとえ他の人が吃音について正しく理解していない人を責めることはできません。もちろん、正しく理解している人がいることは嬉しいことではありますが、他の人は自分の期待を満たすために生きているわけではないのです。

何を理解してほしいのか

 ところで、他の人に何を理解してほしいのでしょうか? 
 私自身の話をすると、私は背が低いことを苦にしていました。背が低いために自分を正当に評価されていないとまで思っていました。そのことを長じて友人に相談したところ、彼は言下にいいました。「しょうもな」。
 もちろん、そんなふうに見上げるような長身の彼にいわれて、嬉しいはずはありません。自分の気持ちをわかってもらえないと思って、その後長く彼と話す気にもなれませんでした。
 しかし、その後わかったのです。もしもその時、彼が私の苦しみをつらかっただろうというように受け止めていてくれていたとしたら、過去のあれやこれやのつらかった体験を思い出しはしたかもしれませんが、それで終わってしまったでしょうし、他の人が自分にとっていかにひどい人であることかという思いを強めただけで終わったと思うのです。
 一体、自分がいかに苦しい人生を送ってきたかということを他の人に理解してもらってどうなるのでしょう。ただ苦しい、つらい人生を送ってきたかという話ではなく、その人生をどのように受け止め、自分が変わりえたかという話であれば、他の同じような経験に貢献することになるでしょう。こんなことを念頭に置きながら、人生の突破口を見つけるヒントを書いてみたいと思います。

ライフスタイル

 私たちには生きていくに当たって、対人関係をもっぱらその内容とする課題があり、それを解決することなしに生きていくことはできません。私たちは一人で生きているのではありませんから、自分がしたいことを何でもできるわけでありませんし、他の人は自分の思うとおりに動いてくれるとは限らないからです。
 アドラーがいうこの「人生の課題」を解決できないと思い、この世界は危険で他の人は自分を陥れるかもしれない怖い人、アドラーの言葉を使うならば、「敵」と思うか、反対に、自分は人生の課題を解決できると思い、他の人は必要があれば自分を援助する用意がある「仲間」と思うかでは、この人生や世界がまったく異なったものに見えるでしょう。アドラーは、自分や他の人についての見方を「意味づけ」といっていますが、意味づけが違えば、人生の課題の解決の仕方も異なったものになります。
 自分や他の人をどう見るか、また、自分が直面する問題をどんなふうに解決しようとするかは人によって違い、普通には「性格」と呼ばれますが、性格という言葉から連想されるのとは違って、ライフスタイルは生まれつきのものではなく、また、変えにくいものでもないことを強調するために、アドラー心理学では、通常「ライフスタイル」という言葉を使います。

自分のこと、好きですか?

 自分のこと、好きですか、とカウンセリングにこられる人にたずねると、必ずといっていいほど、「嫌い」という答えが返ってきます。自分が好きな人がカウンセリングにくることはないといっても過言ではありません。
 自分が嫌いでもいいではないかと思う人があるかもしれませんが、よくはないのです。なぜなら、この私とはこれからずっとつきあっていかなければならず、他の道具などと違って、嫌いだからといって換えることはできませんから、自分のことが嫌いだと思っている人は、幸福であることができないのです。
 アドラーは「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」といっています(『人はなぜ神経症になるのか』)。
 アドラーは、ライフスタイルは遺伝や環境などによって決められるのではなく、自分で決めることができる、と考えています。これは常識とは大いに違う考え方です。普通は、幼い頃に人からひどいことをいわれたので、他の人を怖い人だと思うようになったとか、自分のことを嫌いになった考えることを許さないからです。誰も不幸になりたいとは思わないでしょうが、この理屈からすれば、自分で不幸であることを選んでいることになります。

どうすれば自分を好きになれるか?

 自分を好きになれる方法はあります。ただし、それは簡単なのですが、それを実行するとなると抵抗する人は多いのです。
 ある長年うつ病で苦しんでいる人に、私は次のようなメールを送ったことがありました。
 「ひどくお身体の具合が悪いのは承知であえていうのですが、今の状態から抜け出す方法がないわけではありません。ただし、それを実行するのは少しばかり勇気が要ります。そんな方法を試してみられるのでしたら、書いてみたいのですが、いかがでしょう」
 私が提案したのは、「一日に一度、他の人が嬉しくなるようなことをする」ということでした。
 「特別なことでなくていいのです。もしもこの提案がまず、何ができるか考えてみるところから始めてみませんか? これならできると思えることがあったら、お返事をください」
 実行することに抵抗する人であっても、何をすれば他の人が喜ぶことになるか考えるでしょう。数日後、返事がきました。他の人が嬉しくなるようなことをあげることは難しくはないが、それを実行するとなると別問題で、実行すると考えただけでもひどく嫌な気分になるというものでした。
 なぜその人が嫌な気分になるか、想像するのは難しくはありません。その人は、他の人のことを「敵」と見ているからです。他の人は怖い人で、うかうかしていたら自分を陥れるかもしれない、実際、これまでも何度もそんな目にあってきた、と考えているわけです。もしもどんなことがあったかをたずねたら、いくつでも他の人からひどい目にあわせられた経験をあげることができたでしょう。

対人関係を回避する口実

 しかし、この人は他の人が怖く、過去にそう思うような経験をしたので、その結果として、他の人が喜ぶことをしようと思うだけで嫌な気分になり、うつ病になって人と関わることができなくなったのではありません。この論理には(大抵は無意識の)嘘があります。人からひどい目にあってうつ病になったので人と関わることができなくなったのではありません。むしろ、対人関係を避けるために、他の人を怖いと見ているのです。そして、対人関係を回避することを自他共に納得できるために、病気を理由にしているというのが本当のところなのです。
 私が他の人が喜ぶことをすることを提案した時、実のところ、その人の反応もわかっていました。なぜなら、この人は、対人関係を回避するために他の人を敵であると見ることが必要だったからです。対人関係をうまくやれるという自信がある人であれば、他の人をそんなふうに見ることはありません。また、他の人からひどい目にあったという経験が過去にあれば、それを今思い出して、その時の経験を他の人が敵であるということの理由にするのです。その体験が実際にあったことかどうかはあまり関係がありません。
 対人関係というのは、一人では成立しません。ちょうど車で事故を起こした時、こちらは止まっていたのに相手の車がぶつかってきたというのであれば、過失は全面的に相手にあることになるでしょうが、もしも双方の車が動いている時に起こった事故であれば、たとえ非がまったくないように見えるような場合ですら、こちらにも何パーセントか過失があったというふうに認定されるのと同じです。対人関係の場合も、それがうまくいかないという時、他者にのみ問題があって自分には何の問題もないというようなことはありえないのです。もちろん、そんなことは認めたくはないわけですが。

他者に貢献するということ

 今はうつ病の例を引きましたが、病気でなくても、アドラーがいう器官劣等性(身体の障害)も、あるいは、劣等感も、対人関係を回避するための理由に持ち出されます。劣等感というのはアドラーが使ったもともとのドイツ語(Minderwertigkeit)では、「価値」(Wert)が(他の人と比べて)「より少ない」(minder)という感覚という意味です。これはあくまでも主観的な感覚ですから、誰が見ても美人である人が器量の衰えを訴えたり、痩せている人が太っている、というというようなことが起こります。さらには、性格が対人関係を回避するための理由として持ち出されることがあります。暗い性格だから人に好かれないというふうにです。
 このような人が、自分を好きになり、それに伴って、他の人との対人関係を築いていける援助をするためには、自分が他の人に役立っているという経験をすることしかないのです。どんな時に自分のことが好きになれるか考えてみてください。自分が役立たずではなく、他の人に何らかの仕方で役立てていると思う時ではありませんか?
 以上のことを考えて、私はうつ病の人に他の人が嬉しくなるようなことをすることを助言したのでした。

所属感

 生まれてきたばかりの子どもは自力では何もできません。お腹が減れば泣きます。すると、親が昼夜の別なく世話をしてくれます。そんなふうに私たちは親からの世話を受け、大きくなったのです。
 問題は、人はいつまでもこのような無力な状態であり続けるわけではないということです。ところが、アドラーの表現を使うと、親をはじめとする他者の貢献をいつまでも「搾取する」人、自分からは何も人に役に立ち貢献しようとはせず、ただ人から与えられることを当然と見なす人が多いのです。
 私たちのもっとも基本的な欲求は、所属感、つまり、ここにいてもいいと感じられることです。家庭、学校、職場など私たちが所属する場所に自分の居場所がないと感じることはつらいことです。
 この所属感を私たちはさまざまな方法で得ようとします。問題はその方法にあります。たしかに、私たちは世界の中で生きているのですが、世界の「中心」に生きているわけではないのです。
 しかし、他者が自分に注目し、他者の貢献を搾取する人は、もしも自分にしかるべき注目が得られず、他者が自分のために動いてくれなければ、そんな他者を責めます。
 積極的なタイプの人であれば、問題行動をします。そうすれば、自分に注目を向けることに成功するからです。消極的なタイプの人は、まわりにいる人が不用意に声をかけられないと思い、腫れ物に触るようにさせます。病気の人が皆そうだというわけではありませんが、神経症を訴えてまわりの人を自分を腫れ物に触るようにさせることで注目の中心に立つことに成功します。しかし、このような方法で注目を得ようとするのは安直だといわなければなりません。
 そのようなやり方ではなく、他の人に貢献することによって所属感を得てほしいと考え、私はうつで長年苦しんでいる人に、どんなことによってであれ、他の人に役立てると思えることを探してみたいのです。自分が何らかの形で貢献できたことを知れば、自分に価値があると思え、自分を好きになることができます。
 ただし他の人に貢献してもそのことが必ず注目されるとは限りません。本稿では詳論の余裕はありませんが、ほめられて育った人は、自分がしたことが認められないと満足できないことになります。

自己中心性からの脱却

 アドラーは「自分への執着」が、個人心理学の中心的な攻撃点である、といっています。他者の存在を認めず、自分にしか関心を持たず、他者には関心を持たない人は多いように思います。そのような人は、先にも見たように、世界の中心にいたいと思い、そのため、他の人が自分の期待を満たすことを当然と思い、その期待が満たされなければ憤慨します。
 私は本稿をあなたがどもるかどうかは、実はあなたが思っているほど大きな問題ではないと挑発とも思われるかもしれないことから書き始めましたが、吃音のことを気にかける人は、ともすれば、自分にしか関心が向かなくなることがあるからなのです。吃音を治すという努力も同じです。
 このように自分にしか向けられていない関心を他の人に向けることが、もしもあなたが今生きづらいと思っているとすれば、突破口になる、と私は考えています。

自分を見直せる

 こうして他者へ関心を向け、他者に貢献しようと思えるようになった時、それまで自分の短所であると思っていたことがいつのまにか気にならなくなっているはずです。
 アメリカの小説家、ホーソーンに『痣(あざ)』という短編があります。主人公の科学者が妻の顔の頬にある痣を手術をして取り除こうとしました。手術は成功しましたが「人間の不完全さの唯一の印」である痣が彼女の頬から消えるのと同時に、彼女の命そのものも失われるという話です。
 もしも自分にそれさえなければ普通の人のように生きることができ、自分のことを好きになれるだろうというようなことがあるとしても、実際には、その「人間の不完全さの唯一の印」は、自分にとってなくてはならないことなのです。
 最初に私の友人が私が身長のことで悩んでいることについて、「しょうもな」といったという話を書きましたが、彼はこうもいったのです。「君には人をくつろがせる才能がある」と。先にも引きましたが、アドラーは「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」といっています。私はそれまで自分が背が低いことで正当に評価されていないと思っていましたが、そうではありませんでした。自己評価を下げることで、自分が人との関係の中に入っていくことを回避したのです。私は人をくつろがせるのか、と思えるようになった時、身長のことはもはや気にならなくなっていいました。こうして、友人の言葉は、私の関心を自分ではなく他者に向けさせていたのでした。

目を未来へ向ける

 最後にもう一点だけ指摘して本稿を終えたいと思います。過去に原因があると考えたい人がいます。あなたのせいではない、といわれた人は、今、自分が生きづらいことを親のせいにし、親の育て方に問題があったのだと考えて、親を責めます。自分は悪くはなかったと思いたいのです。しかし、そのようなことをしてみても、今、これから何ができるかを考えることによってしか、一歩も前に進むことはできません。これからどうしたいのかを考え、目を過去ではなく、未来に向けること。これも今の生きづらさから脱却する突破口になります。
 後はあなたが人生を変える決心をするだけです。

参考文献
岸見一郎『アドラー心理学 シンプルな幸福論』(KKベストセラーズ)
岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHK出版)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/20

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