大阪定例レッスンの旗揚げ講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき』
1999年2月11日、大阪市内の應典院で、4月から始まる竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」大阪定例レッスンの旗揚げ講演会が行われました。講演会のその日は、強い吹雪と雨が混じる悪天候でしたが、参加者は予想をはるかに超えて185名でした。その講演会に参加した川井田祥子さんの感想・報告を紹介します。川井田さんは、当時、すくーる・ほろんという、らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾を主宰されていました。僕は、この講演会の2年前に、川井田さんのインタビューを受け、それ以来おつき合いさせていただいていました。
「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 に掲載されたものを紹介します。
私を丸ごと受けてめてくれる他者として
―竹内敏晴講演会に参加して―
川井田祥子 すくーる・ほろん主宰(当時)
(らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾)
はじめに
2月11日、應典院(大阪市天王寺区)で行われた、講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき」(主催:應典院寺町倶楽部 協力:日本吃音臨床研究会)に参加しました。
協力とある、日本吃音臨床研究会とは、2年前にインタビューの依頼をしたことがきっかけでお付き合いがありますが、「どもることを否定せず、ありのままの自分を受け入れること」をコンセプトに活動を続けておられます。
そして、10年前に竹内敏晴さんと出会ったことによってさらに活動の幅が広がったと、機関紙などを拝見すると感じられます。たぶんそれは、言葉というものを通して(からだ)や(こころ)を見つめ直す、人間全体を捉えようとする竹内さんの考えに共鳴するものがあったからだと思います。
この講演は、竹内さんの自身の体験にもとづく話を聴きながら、「ことばとは」「コミュニケーションとは?」などについて、改めて考えるきっかけになりました。そのあたりのことを書いてみようと思います。
講演会当日に語られた内容の一部をご紹介します。
「ことばが届くと」とは?
私は難聴で、子どもの頃はうまく言葉が話せませんでした。「おはよう」が「おあお」ぐらいにしか言えなかったのです。40代半ばになって、言語訓練をしているときに声がはっきりと出るようになりました。相手にじかに言葉が伝わっている感覚というのでしょうか、それまでの、相手との間に厚いガラスの壁があるような感じではなく、「じかに届いている」と初めて感じられたのです。
それからは毎日がお祭りのようでした。たとえば私が「こんにちは」と言うと、瞬時に相手から反応が返ってくる。自分の話したことが相手に伝わっていることがわかる、そのうれしさ、「ああ言葉っていうのはこういうものか」と本当にうれしくて、何度も繰り返しあいさつをしていました。
しかし、そのうちに変なことに気づいたのです。それは、自分以外の人はよく話せると思っていたのに、どうも違うらしいということです。たとえばAさんとBさんが話をしている。でも、よく聞いているとAさんはAさんで勝手に話し、BさんはBさんで勝手に話している。お互いのつながりがまったくない状態で話をしている。しかもその状況はよくあるようだと気づき本当にびっくりしました。
ことばを話すことができるようになると、そんな変なことに気がっいてしまい(笑)、自分が一所懸命にあこがれていたことばとはいったい何なんだろう?」という疑問が浮かび、それから「話しかけのレッスン」を始めるようになったのです。
「情報伝達のことば」と「表現のことば」
フランスの哲学者メルロ・ポンティという人は、ことばには2つの種類があると言っています。
2種類とは私流に言うと、「情報伝達のことば」と「表現のことば」です。
「情報伝達のことば」とは、ひとつひとつのことばの意味が社会的に確定しているもの、誰がどう組み合わせても通じるものです。
一方の「表現のことば」とは、自分が感じていることをなんとかことばにしようとすること。たとえば生後3、4カ月の赤ん坊が「あー、あー」と話しかけてくるような、文章としてはきちんと成り立っていないけれど全身で話しかけてくる意味がわかるということばです。
人間にとっての根源的な言葉とは「表現のことば」の方で、それが十分にできるかどうかが「人間が人間である」ことにつながるだろうと、私は思います。つまり、ことばというものは情報を伝達するためだけにあるのではなく、人と人とがつながることそのものとしてあるということ。それをもう一度見つめ直すことが、いまとても大切なことだと思うのです。
ところが社会は、とくに現代社会は「情報伝達のことば」を早く身につけることを子どもたちにも要求します。そしてそれは、「早く社会に適応しなさい」という要求を押しつけていることだとも言えるでしょう。
子ども自身は自分の体で感じたことをことばにしたいと思っているのに、周囲からそうでないことを要求される。「早く、早く」とせきたてられ、自分が何を感じているのか、どう表現しようかと考えている時間もない。
自宅近くに住む小学4年生の男の子は吃音の症状が現れました。その子の場合は自分が自分であろうとすることと、他人からの要求に向かって自分を適応させようとする境目で苦しんでいたのだと思います。
「伝える」から「伝わる」へ
人と人とがどうやって結びついていけばいいのかを一人ひとりが考え直す、そんな時代に私たちはいま立っているのだと思います。夫婦、親と子、学校で先生が生徒とどう接するか、「こうあるべきだ」という考え方をいったん手放し、「本当につながれるのか、つながれるとしたらどうすればいいのか」を問いかけられているのが現代でしょう。
私は、自分のことばで自分を表現することができて初めて、社会的なことばを使いこなしていくことができるのだと考えます。つまり、自分が生み出したことばをつなぎ、社会で使いこなしていこうとすることができて初めて、他者とのことばのやりとりが十分にできるのだと思います。
「表現のことば」が十分に使えないうちに「情報伝達のことば」ばかりを要求されてしまっては、自分自身のことばを見つけることができなくなってしまいます。うまく話せなくて感情的になり、泣いたりわめいたりすることでしか自分を表現できないという事態になるでしょう。
「自分が生きる」のは「自分のことばによって生きる」のです。自分のことばをどう見つけ、他の人とどうつながっていけるのかということを、一人でも多くの人と一緒に考えていきたいと思っています。
おわりに
竹内さんのお話を聴いた後、私なりにコミュニケーションについて考えてみました。
最近、マスコミなどで取り上げられる教育改革にまつわる話には、「コミュニケーション能力」をめぐっての議論が活発に行われているようです。
たとえば、2002年から実施される新学習指導要領では、教師が独自に授業内容を決められる「総合的な学習の時間」が導入されます。そして、「211世紀に向けて国際社会の中で通用するコミュニケーション能力を身につけること」を目的に、ディベートを授業の中に取り入れる試みが広がっているそうです。
ディベートとは、あるテーマについて肯定側と否定側2つのグループに分かれ、一定の時間内で議論し合い、最後に勝敗の判定を下すというものです。
けれど私は、コミュニケーションについてまで「評価」が持ち込まれることに疑問を感じるのです。自分を表現しようとすること、それを相手がどう受けとめるかは二人の間の問題であり、評価できるものではないと思うからです。また自分の考えを主張し勝ち負けを争うことがコミュニケーションではなく、話し合いを重ねてお互いの接点を見つけ、まったく別の意見を双方の歩みよりによって生み出そうとすることも必要なことではないでしょうか。
一方、学級崩壊という問題が起こり、「ムカツク」「キレル」といったことばでしか自分の状態を表現しようとしない子どもたちについて、いろいろな論議が交わされています。子どもたちを問題視してどうにかしようとする前に、ことばにならないものや「表現のことば」を受けとめようとする存在として大人がどのように関われるかが今いちばん必要なことのように思います。
「自分のことを丸ごと受けとめてくれる他者がいる」と感じられる、つたない言葉でもいいから自分を表現しようと思える、そんな存在でありたい。と同時に、ことばが自分のものになっているか、相手に届いているかを見つめ直す勇気や大切さを、改めて感じる時間でした。
『たけうち通信』第1号1999年4月10日より
『たけうち通信』は、日本吃音臨床研究会が編集し、10年間発行し続けた。2009年9月、42号の最終号で、竹内敏晴さんと私たちを結ぶ役割を終えた。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/21