吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 4

吃音にとって大切なテーマである、予期不安と恐れに対する対処について、大阪吃音教室の講座での話し合いを紹介してきました。今日はその最終で、参加者ひとりひとりの感想を紹介します。改めて読み返してみて、充実した講座だったなと思います。吃音は、それだけ、生きることを考えるテーマとなりうるということでしょう。僕たちが伝えたいのは、こっちの道もあるんだよということです。そして、その、こっちの道を、楽しく機嫌良く歩いていきたいと思います。
 「スタタリング・ナウ」2009.9.20 NO.181 に掲載の、2008年10月3日の大阪吃音教室の講座を紹介します。最後の感想です。

《大阪吃音教室2008.10.3》
吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 4
                             担当:伊藤伸二

参加者の感想

U 自分は、会社の朝礼とかワードトレーニングが苦手で、そういうところでどもってしまって、しゃべれない。みんなは僕がどもるということは分かっている。でも、順番に言わされる。助け船はない。今日のことを聞いて、どもって当然だと思えるようになるかな。
伊藤 僕らは、もうどもってしまうだけでいいのよ。後は、周りの人の責任で、誰か助け船を出すか、あいつはもう挨拶をやめさせようとか考えてくれる。こちらはただどもってさえいればいい。そう考えたら、挨拶とか朝礼に命をかける必要はまったくないのであって、ほかの仕事でがんばればいい。

どもりを認めたくない人

G どもりだけれど、それを認めたくないという友だちがいるんです。今日の話はどもる自分を認めるのが前提での不安や恐れへの対処でしたが、認めたくない人には、対処法はないんでしょうか。大阪吃音教室に誘っても来ない。どうにかして、連れてきたいと思うけど、来ないんです。
伊藤 どうしても、どもる事実を認めたくない人はいます。大阪吃音教室のようなセルフヘルプグループにも、サマーキャンプにも、吃音ショートコースにも行きたくないと言う人もいます。そんな人に私たちは何ができるだろうか。
N メッセージを発して、ただ待つだけですね。
G それしかないですかね。
M 『どもる君へいま伝えたいこと』を贈呈する。
G 私も今、それを考えていたんですけど。それを渡して、来るか来ないかはもう、その後の判断は任せるしかないと思っているんですけどね。
M すぐにじゃなくていいやん。
G でも、もう4、5年たっているんですけどね。
N 10年でも20年たっても、いいじゃん。
K 伊藤さんのことばで、僕が好きなのが、「とりあえず言い置く」です。とりあえず言って、待つしかない。
伊藤 とりあえず言い置いて、『どもる君へいま伝えたいこと』をプレゼントすることはできる。読むか読まないかは、その人の勝手でしょう。
V 私はどもることを認められないけれど、この吃音教室に来ている。
伊藤 どもりを認めたくない人も、それも人生でしょう。それでも、あなたはその人を無理矢理なんとかしようとしてるわけだ。僕は基本的にはおせっかいおばさんは好きなんですよ。やっぱりおせっかいはやいた方がいいと思う。あなたは、おせっかいをやいているわけよね、4、5年も。それでも嫌だと言うんだから、それはもうその人の人生でしょう。僕たちは、できたらどもりに悩むできるだけ多くの人の役に立ちたいなあとは思うけれど、それはこの場所に来てくれた人であったり、僕たちの発信する本やニュースレターを読んでくれる人であったりがひとつの条件だと思うんです。なんやこんなもんと言う人には何もできない。それは、もうあきらめなさい。
G 見捨てるってことですか。
伊藤 見捨てるって言っても、その人はそれでいいと言っているんだから仕方がない。その人の人生なんだから。その人はその人で、どもりを否定し、治したい治したいと思い続けて生きる人生を選んでいるわけだから。
H 交流分析で勉強してきたように、過去と他人は変えられないということでしょう。
伊藤 どもる人間のみんながみんな、明るく、楽しく、がんばろうぜ、と生きる人間ばかりじゃない。中には、うじうじ悩む人がいていい。明るく元気で溌剌な人もいていい。いろんな人がいて、ひとつの社会をつくっているのだから。
 アドラー心理学で言う目的論で言うと、どもりを利用して、ある意味、引きこもり、自分がみじめな生活をするということを選択している。どもりを認めたくないという人は、そこに何かの目的がある。その目的のために認めないんだから。
E その人が今、悩んで悩んで何もできない状態だったら困りますが、どうなんですか。
G それは違う。それなりにがんばっています。
E でしょう。だったら、いいじゃないですか。
G どもってどうしても声が出ないとき、手を振ってでも言えばいいけれど恥ずかしくてできないと言います。私は、聞くことしかできないから、そうやね、嫌やねえとか言って聞いている。
E それが言えることっていいですよ。
G そう思って、ずっとつきあっているけれど、それ以上に深まることがないのは寂しい。寂しいと思うのは、私の単なる欲でしかないけど。
L なんでそこで、Gさんが、その人に合わせて、「そうやね、恥ずかしいね」と言うのかな。「恥ずかしいことやないよ」と言ったらいいのに。Gさんは恥ずかしいと思っていないだろうに、一緒になって、恥ずかしいと言っていることが分からない。説得力がないやん。
G そうそうそう。そうなんですよ。
伊藤 さきほど、誰かが言ったように、その人はその人なりに生きているのだから、どもりを認めたくないと言っているけれど、現実的には認めて生きているわけですよ。ことばではどもりを認めると言っていないけれど、現実にどもりながら生きているということは、もうすでにどもりを認めて生きているということでしょ。反対に、私はどもることは認めていると言いながら、肝心のところでは、隠したり、逃げたりしている人は少なくない。何もことさらに、私はどもりを認めて生きていますと言わなくてもいい。自分なりの人生を生きていればそれで十分ですよ。また、仮に社会的に引きこもって生きていたとしても、それでしか生きられないのだから、仕方がない。一所懸命、その人にかかわり、できるだけのことを私たちはしたいけれど、最終的にはその人の人生です。そうとしか生きられない人生もある。他人がそれをとやかく言うことは必要ないんじゃないの。
 そういう生き方しかできないことを、仮にどもりという原因があると思っているかもしれないけれど、ある意味、どもりを口実に、どもりを理由にして引きこもっているという言い方もできる。だから、いいんだよ、人それぞれの人生があって。吃音を治したいと切実に思っている人が、この大阪吃音教室のようなところに来たらしんどいかもしれない。もちろん、私たちは、治したいと考えている人も、本人さえよければ、堂々と、私たちの吃音教室に参加したらいいと思っている。私たちは、自分たちの考えを決して強制したりしませんからね。まだまだ私は吃音に向き合っていない、認めていないと、小さくなることはない。何年かかってもきっと私たちの道筋に立ってくれると思う。だから、その人に参加して欲しいという思いはありますね。
T 今の話も含めて、まったくそのとおりやなあと思います。その人の最終判断で生きていくのであって、こういう生き方だけ正しくて、それを押しつけるというのは傲慢かなと思う。
伊藤 「とりあえず言い置く」ということも含めて、「こうした方が楽だよ」、「私たちはこうして生きてきたんだよ」と自分たちの体験を語り続けていくことは大切ですね。その僕たちの生き方を見てもらう。それを見て、そうだなと思う人もいるだろうし、嫌だなあと思う人もいるだろう。自由だ。自分たちの価値観を、生き方を、押しつけるのは傲慢ですよ。
O 紙に書いて見せるという話がありましたけど、調子が悪いとき、僕もしています。
J どもりの核心というものを改めて感じました。予期不安とかどもりに対する考えを、ひとつひとつみんなで確認できて、わかりやすかった。私も大阪吃音教室に入ってこれたのは、考えを強要しないというか、どんな考えでも、どんな私でもいいという所だったから、自然に入ってこれたんです。どんな状態の自分でもここにいていいんだなあというのを感じています。
伊藤 自分たちの考えていることをかみ砕いて、分析し、整理していくということは、仲間がいるからできることですね。自分ひとりではなかなか気づけないし、発見できない。確かに、吃音は吃音症状ではなく、氷山の海面下にある、吃音を隠したり、話すことから逃げたりする行動、恥ずかしいと思ったり、みじめと感じる感情が吃音の問題の核心であり、大変であり、取り扱いが難しいんだけど、順序立てて考えていけば、対処できることだ。
X どもりながら生きていくのは、そんなに恥ずかしいことではないんだなということが分かった。
伊藤 そういう生き方をしていると、周りに勇気を与えるかもしれないね。
Y ひどくどもったときには、人というものは、応援してくれる。ちょうど、高校時代、返事もできないくらいのとき、同級生が代返をしてくれた。
伊藤 応援してくれるような人間になろうよ。嫌な奴だったら、応援しないよ。吃音とは関係なく、他人に親切で、仲間を大切にして、人の役に立ったりしていたら、いい奴だなあということになって、困ったとき応援してくれるんじゃない。
S だんだんと生き方が楽になってきましたが、どもりがだんだんひどくなってきた。
伊藤 生き方が楽になったが、どもりがひどくなったというのは、老化ですよ。僕も以前よりよくどもるようになりました。でも、なんともないよね。
S それは、この大阪吃音教室に来て、ずっと吃音について考えているからだろうと思います。
U 勇気づけられたことがある。どもるという事実を認めるという前提を私は忘れていたんじゃないかなと思います。どこかで、どもりを隠したいというのがあったけれど、それを聞いて、前提を自分で認めていければ楽になると思います。
B 認めるということができれば、確かに楽になるんだけど、なかなか認められないんだけど。
伊藤 それも一つの生き方ですよ。ぜひ、棺桶に足をつっこむまで、認めない人生を歩んで下さい。
V 認めることを自分は認めていたつもりですけど、認め切れていなかったんだと思いました。
X 小さいときから、どもったら馬鹿にされると思っていた。負けず嫌いだから、誰一人として馬鹿にされたくないと思っていた。でも、馬鹿にされたくないと意地を張っているのに、人に分かってもらいたいという、矛盾している。だから、もう馬鹿にされてもいいかと思った。その方が友だちができるから。
伊藤 そうやなあ。馬鹿にされたっていいよねえ。
I どもりを認めるということはどういうことかなと考えていた。僕は、自分がどもるということは認めているつもりだけど、やっぱり話すときには、どもらないようにしゃべっているので、半分半分かなと思いました。
伊藤 いやいや、それで十分ですよ。僕なんかでもそうですよ。わざとどもることもないので、どもらないように、しゃべっているよ。
P 恐怖と不安を克服するには、どんなに吃音がひどくても前向きに考えたいと思いました。
伊藤 前向きに考えなくてもいいんやけどな。
Q 皆さんが強い、というか、特に年配の皆さんがキャリアを積まれて強くなられているなあと思いました。どもりを認めてそこからスタートする。ほんとにひどくどもったときにどうするかというときに、前向きな意見が出ていましたけれど、なかなかそこまでいくには大変やろうなと思って聞いていました。
伊藤 本当は全然大変じゃないんですよ。前向きとか、プラス思考とか、強くなくてもいい。全然強くなくてもできる。別のことばで言うと、自分の人生を大切にするということですよ。
D そのような生き方は、年齢が上がっていくと、できやすくなるんですか。
伊藤 反対です。年を経るに従って、難しくなります。だから、僕たちが吃音親子サマーキャンプをしているのは、小さい子どもの方がしやすいからです。小学生、中学生がびっくりするくらい変わります。それは、強いからではない。小さな子どもでも、自分の人生を大切にするからです。
I 自分の人生を大切にするというのがちょっとわからない。みんな普通に生きているというのではなくて、べつのものですか。
伊藤 いやいや、普通に生きているということが人生を大切にしているということですよ。際だって大変なことをしているのではなくて、普通に生きていればいい。普通って言い方は変だけどね。あなたはまだ2回目でしょ。2回目で分かってどうするんですか。僕たち、悩んで悩んでここまで来たのですから。まあ、できるだけ続けてここに来て下さい。
Z 僕は、仕事の配属で、来週から関東に行ってしまうんですが、配属先でうまくやっていけるかどうか心配だったんですけど、今日の話で、どもっていても仕事をがんばれば評価されるという話があって、よかった。
伊藤 それは確実です。だから、ほかの人以上にがんばろうよ。がんばろうと他人に言うのは基本的には嫌なんだけど、どもりがまったくハンディがないかというと、そうじゃない。ハンディがある分、ほかの人にないもの、つまり、仕事に対する一生懸命さ、誠実さ、努力が大事だと思う。
D ついつい、人と比較しがちだったけれど、それぞれ違うから、そのままでいいと思います。
伊藤 そうね、やっぱり比べるのはしんどいね。
L 私は長い間、日常生活では、どもりが分からないようにしゃべってきたので、予期不安が大きかったと思うんです。だから、私はこの大阪吃音教室に来てから、吃音を公表できるようになって、予期不安がまったくといっていいほどなくなった。すごく楽。公表してから、予期不安の字が小さい。
伊藤 そうですよね。普段あまりどもらない人ほど、どもりたくないから、どもるかもしれない、どもったら嫌だという予期不安が大きくなりますね。
L ばれたらどうしようと。
伊藤 今までばれてないんやからね。
L 吃音のコマーシャルをしながら、どもりを生きています。
伊藤 いいねえ。楽やねえ。
C どもりに限らず、恐怖とか予期不安というものは、みんないっぱいもっていると思う。先延ばしにするとしんどい。早くぶつかる方がいいなあと思いました。
M 恥ずかしいことって何だろうというのが、今回の吃音教室で印象に残っています。これからも考えていきたいです。
H 僕たちはどもりを認めるのではなくて、どもる事実を認めるんです。どもりを認めるとなると、どもりを受け入れるとなって、受け入れるのは難しい人もいる。どもっている現象の事実を認める意味の深さというか、広さというか、そんなものを感じました。感情、思考も広がりがあって、深さがあるんやなと思いました。
K いろんなことを考えさせられた講座でした。
E 教員をやっていて、肩肘はって、こうあらねばならない、こうあらねばならないと自分をしめつけていた。子どもにもこうしろと言って、お互いに苦しんできたなあと思いました。それを感じました。自然にしたいです。
伊藤 自然に生きるが一番ですね。
N どもりが治らないでよかったとつくづく思います。自分のどもりを含めて、どもりのことをネタに、こんなに長いこと話し合える。治るならこうはいかない。解決しない問題を持っていること、自分がそういう問題を持っていることのすばらしさを感じました。
伊藤 なるほどね。どもりを治す、改善するだったら、最近、どもらないね、調子はいいです、で終わりやもんね。話は深まらないし、自分の人生は何だとか考えない。ほんとに恥ずかしいことって何だろう。汚染米を売りつける農水省の役人の方がよっぽど恥ずかしい。
F 以前、悩んでいたときは、自分は、深く細かく考えることを避けていた。でも、深く細かく考えることって大事だなと思いました。
伊藤 言語訓練なんか必要ないけれど、考える習慣は大事。選択肢は何か。恥ずかしいとは何か。横に広がり、奥に深めることができる大阪吃音教室はいい。どもりは、とてもいいテーマだということでしょう。ということで、今日の大阪吃音教室は終わりです。お疲れ様でした。

 今日は、NHKが「きらっと生きる」の取材にカメラが入っています。ディレクターとカメラの方に感想をお聞きしましょう。
◇ひとりひとりの個性を大切にするということを大事にしたいと感じました。ひとりひとりを大切にする。私、正直今回この仕事をいただくまで、どもりということをまったく知らないで生きてきて、今日いろいろみなさんの話を聞いて、しっかりした気持ちを持っているんだなあと感心した。私の方がもっと考えて生きないといけないんじゃないかと自分を見つめ直すいい機会を与えていただきました。
◇皆さんが全員積極的に発言し、ことばに勢いがあります。自信を持っている人もいない人もいるけれど、話されることばに勢いがあり、説得力がありました。いい番組を作らせていただきます。

《編集部から》
 大阪吃音教室の映像は2008年11月7日、NHK教育テレビ「きらっと生きる」で放送されました。反響が大きく、第二弾が翌年2月に新しく製作され放送されました。スタジオ出演した4人の中の2人が再度出演し、さらに吃音の問題を深めることができました。その後、番組を見たという、沖縄や熊本、東京など、遠隔地からの参加がありました。

 活字にすると、固い話し合いが続いているような印象を受けるるでしょうが、大阪特有の「ツッコミ」や「ひやかし」「いちびり」があり、常に笑いにあふれています。その雰囲気をお伝えできないのは残念です。また、脱線していくおもしろい話も、紙面の都合でカットしました。
 吃音にとって、不安・恐怖は大きなテーマなので先月号と2回に分けて紹介しました。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/18

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