どもる子どもへの支援

 2008年11月28日、愛知県名古屋市立牧野小学校で、愛知県言語・聴覚障害児教育研究会の研究大会がありました。僕は、そこで、講演をしました。その収録を紹介します。紙面の都合で、すでに「スタタリング・ナウ」で紹介している、アメリカでの対立や統合的アプローチの具体的な方法についての説明は割愛しています。

  どもる子どもへの支援
                      日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
はじめに

 名古屋駅の西口に降りたとき、吃音に深く悩んいた高校時代を思い出しました。名古屋駅裏の中村警察署で、職務尋問されてパトカーに乗せられ、被害者の家を4軒まわり、首実検をされました。学生服姿のひったくり犯人と疑われたのです。
 僕は三重県の津市出身で、吃音に悩み始めた小学2年生の秋から、学校で僕の居場所はありませんでした。朗読や発表ができない、友人は一人もいない、いつもぽつんと一人でいました。だから、運動会や遠足、修学旅行などのイベントは辛いだけで、楽しい思い出はありません。中学2年の夏、吃音を治すために家で発声練習をしていた時、「うるさいわね」と母親に言われ、泣きながら家出をしてから、学校にも家にも居場所がなくなりました。唯一僕の居場所は映画館でした。
 高校生の時、国語の朗読が怖くて学校へ行けなくなり、よく学校をさぼって映画館に入り浸りました。時々名古屋にも足をのばしました。
 暴走族やシンナーのない時代でよかったですが、今なら非行グループの仲間に入っていたかもしれません。それ程苦しかったのですが、吃音の苦しみは、一般社会だけでなく、学校関係者にもなかなか理解されません。こんな例があります。
 さきほど、名古屋駅西口のコンビニで、資料と共に「どもる生徒の発表をしばらく免除して欲しい」との意見書をある中学校に発送しました。この男子中学生は小学校の時はことばの教室にずっと通い、無事終了したが、中学校に入って吃音に悩むようになった。授業中の発表を重視する国語科の教師のために学校へ行けなくなった。発表さえなければ行けるので、当てないで欲しいと頼んでもその教師は受けつけない。死にたいとまで思い詰める出来事があり、親が再度強く票求すると、「診断書を出せ」と言う。吃音は障害と認定されていないので、医者の診断書が出ない。困った親が、僕に所見書を書いてほしいと相談してきたのです。校長から依頼書が来たので、周りにはなかなか理解されにくい吃音の苦しみを書き、当面は本人の希望を聞いて欲しいと要望書を書きました。
 僕は彼の気持ちが痛いように分かります。音読ができなくて、怖くて、校門から入れなくて、映画館へ直行することもあったからです。これ以上休むと卒業ができなくなるというとき、僕は国語科の教師に「音読を免除してほしい」と願い出て、何とか高校を卒業しました。もし拒否されていたら僕は高校を中退していたかもしれません。意見書の中にこの経験も書きました。吃音は理解されにくいものだとつくづく思います。どもりながら平気で生きている人がいる一方で、悩み、不登校になり、非行に走り、社会的に引きこもる人もいる。吃音の悩みや影響にはすごい個人差がある。

僕の背後にはとてもたくさんのどもる人の体験がある

 吃音の臨床研究では、日本でも世界でも「治す・改善する」が大勢の意見です。僕の「吃音とつき合う」の考えは少数派ですが、すべて僕自身が体験し、自分の頭で考え、検証し、さらに多くの人と共に探ってきたことです。僕個人の吃音の体験が色濃く出ていますが、だからといって、僕個人の体験だけで話しているわけではありません。
 僕には、僕自身が世界一だと思っていることがあります。それは、どもる人やどもる子ども、子どもの保護者に直接出会った数です。どもる人のセルフヘルプグループで40年以上活動を続け、世界大会にも参加していますので、ものすごい数のどもる人と出会っています。数千人をはるかに超えるだろうと思います。また、大阪教育大学の教員の時、どもる子どもや保護者から様々な相談も受けました。吃音親子サマーキャンプを19年間続けてきていますし、島根県、静岡県、岡山県でも、ことばの教室の教師が主催するどもる子どものキャンプに僕は保護者担当として参加しています。それらで、たくさんのどもる子どもや保護者と会っています。
 僕自身の個人の体験を元に話しますが、背後にはたくさんのどもる人たちやどもる子どもたちの体験があると考えてお聞きいただいたらうれしいです。このことを前置きにして、これまでの吃音の治療め歴史を紹介し、その中のどこに問題があって、僕はそれをどう考えるかについてお話します。

吃音治療の歴史

1.伝統的な治療法

 1903年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の校長伊澤修二が東京小石川に「楽石社」を設立し、「吃音矯正事業」を始めました。それが世界でも最古に近いようです。驚くことにその指導法は、現在行われている、アメリカやオーストラリアなどの「流暢性の形成技法」とほとんど同じです。
 ヨーロッパでもアメリカでも「吃音を治す」取り組みの基本的なあり方は、どもっている限りは、吃音は治らない。どんな不自然なしゃべり方でもいいから「どもるな」です。どもらないでしゃべるために、極端にゆっくり言う、リズムをつけて言うなどが伝統的に考えられてきました。「み~な~さ~ん~こ~ん~に~ち~は~」の話し方を練習し、それを、実際の生活場面でも使えと言うのです。
 だから、喫茶店で、「カ~レ~エ~ラ~イ~ス~を~く~だ~さ~い~」と注文したり、町で道を尋ねたり、電車の中で演説したりしました。
 この方法は吃音の問題解決にならないと、否定したのが、アイオワ学派の人たちです。

2.アイオワ学派の主張

 1930年代になって、アメリカのアイオワ大学に、たくさんの吃音の研究者たちが集まりました。今でこそ吃音は片隅に追いやられていますが、昔は「言語障害と言えば吃音」でした。アメリカの言語病理学の発展に貢献した人の多くが、自分自身が吃音です。吃音研究から言語病理学が発展してきました。1930年代から始まった、アイオワ大学のアイオワ学派といわれる吃音研究者の中で有名な人を4人紹介します。

①ブリンゲルソンの「随意吃音」
 「どもるな」の治療は吃音問題の本質であるどもることへの不安や恐怖をますます強めることになる。吃音を客観的にみる態度が必要で、そのために、吃音を隠さず「どんどんどもろう」と、意図的にわざとどもることを教えました。これが「随意吃音」ですが、現在も統合的なアプローチの基本的な技法として重視されています。

②ウェンデル・ジョンソンの「言語関係図」
 X軸は吃音症状、Y軸は聞き手の反応、Z軸は本人の態度です。吃音は、X軸だけの問題ではなく、この三つの軸を短縮して、問題の箱を小さくすることを提案しました。X軸では、流暢などもり方を提唱しました。「随意吃音」が多くのどもる人の抵抗と反発にあったためです。Y軸の「より良い聞き手」になりましょうは、幼児吃音の臨床の「環境調整」へと発展しました。かつて母親が悪者にされた根拠ですが、僕はこの「環境調整」という言葉が好きではありません。

③ジョゼフ・G・シーアンの「氷山説」
 吃音の症状だけではないということを一番明確に言ったのが、ジョゼフ・G・シーアンの「吃音氷山説」です。海面の上に浮かんで目に見える吃音は吃音の問題のごく一部に過ぎず、本当の吃音の問題はこの海面下に大きく沈んでいると言いました。海面下の部分へのアプローチこそが、大切だと言いました。これは現在も非常に評価されています。僕が発展させて整理するとこうなります。
◇行動 吃音を隠したり、話すことから逃げたり、消極的になっていく行動
◇思考 どもりは悪いもので劣ったもので恥ずかしいものだとマイナスに考える思考
◇感情 どもると恐ろしい、不安、どもった後の惨めな嫌な気持ち

④チャールズ・ヴァン・ライパーの「吃音方程式」
 不安や恐れ、罪悪感などの吃音を悪化させる要因を分子に、士気、自信、流暢性などの吃音を緩和させる要因を分母に挙げました。分子を小さくして、分母を大きくするのです。分子への取り組みはいいのですが、分母に、「流暢性」を置いたことは、大きな問題だと僕は思います。これが現在もアメリカが「吃音治療改善」にこだわる元になっていると思うからです。僕なら流暢性に変えて、「どもっても相手には伝わる、いろんなことができる」を前提にして、「どもりながらできた経験」「どもりながら作れた人間関係」などを分母に置きます。

3.ライパーの経験と随意吃音の危険性

 ライパーは大学院を卒業するが、吃音のために就職できない。「どもる人間」としては就職できないと思い詰め、30歳の時、「聾者」を装って農場に就職して黙ってジャガイモを掘っていました。屈辱の日々の中で、農場を去ることを決め、故郷に帰る途中で老人と運命的な出会いをします。
 帰り道、馬車に乗せてくれた老人に行き先を尋ねられたとき、ライパーはひどくどもりました。そのどもり方を見て老人は笑います。ライパーは怒って「なぜ、笑うのか」と詰め寄ったところ、「私も若い頃、お前のように力んでどもっていたが、年をとってそんな元気がなくなったのだ」と、自分もどもる人間だと明かすのです。ライパーは、これまで「吃音を治す」ことばかりを考えてきたけれど、老人のようにどもるようになれればいいのだと考え直し、アイオワ大学で言語病理学を学ぼうと決意します。そして、世界有数の言語病理学者になるのです。この老人との出会いのエピソードをライパーは繰り返し、繰り返し話しています。
 ライパーがアイオワ大学で指導を受けたのが、ブリンゲルソンです。彼から「随意吃音」の指導を受けたライパーは2年ほどで劇的に変わります。
 去年の10月、バリー・ギターの『吃音の基礎と臨床』(学苑社)が翻訳され、出版されました。その中で「随意吃音」が紹介されています。この本を読んだことばの教室の教員が、「随意吃音」を子どもに教えなければならないと考えることにならないかと危惧しています。「随意吃音」を子ども達に教えることはやめてほしいと思います。「どんどんどもろう」は思想的には正しいのですが、実際にわざとどもる練習をすることで吃音が悪化する危険性があるのです。40年以上も前に、僕もこの随意吃音を練習し、吃音がひどくなり、しゃべれなくなった経験があります。僕だけでなく、日本でもアメリカでも多くのどもる人から反発を受け、評判のよくないものなんです。
 多くの人には役に立たなかったけれど、ライパーには効果的だった。ライパーは、ブロック(難発)が強い人でしたから、「ぼぼぼぼ…」とわざと意図的にどもることは、彼にとっては良かった。ひどくどもっていたライパーが2年ほどでかなりしゃべれるようになったそうです。
 ライパーの劇的な変化に、先輩のジョンソンが羨ましく思います。彼は、吃音の悩みから抜け出られていなかったのか、「随意吃音」に取り組みます。途端にどもりが悪化して一言一言が言えなくなる。驚いた教授から、「それは絶対だめだ。しばらく一切しゃべるな」と世間から隔離されます。それ程吃音が悪化しました。これは有名な話です。
 ある人に効果のあった方法が、ある人にとっては、言語病理学者でも悪化する結果を招いてしまった。「随意吃音」にはこんな危険性があるのです。

4.アメリカ言語病理学の限界

 ジョンソンの言語関係図の構想はすばらしいですが、Y軸、母親を中心とした環境を重視しましたが、Z軸、本人の吃音に対する態度についてはほとんど何も言っていません。これは、ジョンソンの限界だと思います。
 ひどくどもっていたのに、ブリンゲルソンの随意吃音で変わったライパーも、流暢性を重視します。随意吃音は、多くの人から反発を受けたため「軽く、楽にどもる」に変化してきたのですが、流暢性にはこだわったのかもしれません。だから、吃音方程式の分子に「流暢性」を入れたのでしょう。
 そのために、ラィパーの弟子であるカール・デルやバリー・ギターは、この流暢性の呪縛から抜け出られなくて、流暢性にこだわっています。
 「流暢性」にこだわって、その技法を使って吃音の問題が小さくなればいいのですが、現実はそうはなっていないようです。10万人以上いるアメリカのスピーチセラピストの95パーセントが吃音の指導に苦手意識をもっていると言われています。このように吃音臨床が行き詰まった最大の原因は、この二人の巨人を越えられないからだと思います。二人に肩を並べるか、超える吃音研究者、臨床家は未だに出ていないのです。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/03

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