セラピー中心主義から生活中心主義へ
セラピー中心主義と生活中心主義、吃音へのアプローチとして両極端にある考え方だと思いますが、僕は一貫して、生活中心主義を提案してきました。21歳までの自分の体験をもとにした、体験にもとづくアプローチです。「スタタリング・ナウ」 2009.5.24 NO.177 より、巻頭言を紹介します。
セラピー中心主義から生活中心主義へ
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
吃音へのアプローチを、私は、セラピー中心主義と生活中心主義に分けている。私たちはセラピー中心主義を捨て、生活中心主義を選び取った。
セラピー中心主義とは、吃音症状を吃音の中核的な問題ととらえ、専門家によるセラピーを受ける、受けないにかかわらず、吃音をコントロールする努力をし、吃音症状を改善して、問題を解決していこうというものである。
生活中心主義とは、基本的には専門家のセラピーを受けず、また、仮に受けたとしても、セラピーは単なるきっかけで、どもる事実を認めて、吃音を隠さず、話すことを回避しないで、どもりながら日常生活を丁寧に生きていこうというものである。
1974年の、私の「吃音を治す努力の否定」の提起は、セラピー主義との決別宣言である。
吃音に悩む人が有能なセラピストに出会えるとは限らない。また出会えたとしても吃音のコントロールは本人の強い意志力と不断の継続した努力が必要だろう。それができる人はいいが、特別の能力や忍耐力、集中力がない私たちのような凡人には、とても難しい。セラピストのいない地域でも、誰でもが吃音の苦悩から解放されるアプローチはないのか、私たちは試行錯誤を繰り返し、生活中心主義を選択した。また、セラピー中心主義を選択した人々も、いつまでもセラピーのプロセスに居続けるわけではなく、生活中心主義に転換していかざるを得ない。私は、最初からセラピー主義を捨て、生活中心主義に徹することを薦める。
その成果は、セルフヘルプグループの43年の活動や、吃音親子サマーキャンプの19年の活動で立証済みである。生活中心主義は、セルフヘルプグループの活動の成果、財産とも言える。
確実な吃音治療法がないにもかかわらず、アメリカ言語病理学は、セラピー中心主義をとり、「流暢性」にこだわり続けている。それはなぜなのか、私はずっと疑問に思っていた。
比較することは誠に畏れ多いが、長年同じように、一所懸命吃音に取り組み、数千人というどもる人とかかわってきたチャールズ・ヴァン・ライパーと伊藤伸二の、どもる人間としての体験の違いに注目すると、疑問が少し解ける。
ライパーは、1994年88歳で亡くなったが、現在でも吃音臨床に大きな影響を与え続けている。ライパーは、アイオワ大学で、ブリンゲルソンの「随意吃音」のセラピーで、劇的に変わった。自分が変わったのは、セラピーのおかげだと考えただろう。アメリカの言語病理学者やセラピストが流暢性にこだわるのは、このライパーの強い影響があるのではないか。その後、ライパーは、多くの後継者を育てた。『学齢期の吃音』(大揚社)の著者、カール・デルも、『吃音の基礎と臨床』(学苑社)の著者、バリー・ギターも、吃音であり、ライパーのセラピーを受け、吃音の指導者として訓練を受けた弟子だ。他の、自分自身が吃音の言語病理学者も、セラピーを受けていることだろう。
民間吃音矯正所しかなかった日本では、効果がなければ、自分の力で、吃音に取り組まざるを得ない。治らなかった私は、治す努力のエネルギーを、日常生活を大切に生きることに振り替えた。吃音を隠さず、話すことから逃げないで、どもりながら精一杯生きる中で私は大きく変わった。
西洋医学が対症療法の短期決戦なのに対して、東洋医学は、時間はかかるがその人の体質をゆっくりと変えていく。私が変わっていったのは、まさに、自然なゆっくりとした歩みだった。変わったのは、私の自己変化力によるものだ。
セラピーのおかげで自分は変わったと考え、セラピストを多く育ててきたライパー。生活を大切に生きる中で自分は変わったと信じて、どもる子どもやどもる人たちと共に、日常生活をどう生きるかを常に考えてきた私とは大きな違いがある。
この原体験の違いが、「セラピー中心主義」と「生活中心主義」になってあらわれているのだろう。(「スタタリング・ナウ」2009.5.24 NO.177)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/02