べてるの家から吹く風 2

 北海道浦河にある浦河赤十字病院の精神科医である川村敏明さんの講演を紹介しています。
べてるの家と関わる川村さんは、「治せない、治さない精神科医」と、自分のことを紹介しています。ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは「相談するソーシャルワーカー」。お二人と、当事者であるメンバーの力で、生き生きと生きる「べてるの家」様子が語られました。「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175 に掲載の後半を紹介します。

べてるの家から吹く風 2  
                    川村敏明 浦河赤十字病院精神科医

デイケアのプログラム

 病院のデイケアのプログラムの名前だけ見たら、何なのか。実は、私もデイケアに行く時間がないので、参加したことがあるのは、一つか二つです。みんなが語り合う場、そして練習し合う場、自分の苦労を披露して、ほかの人の苦労も聞ける場です。上っ面ミーティングでは、自分にとっての上っ面って何だろうとかという話をしたりする。あじさいクラブは、子どもをもっているメンバーの虐待などを防ぐ、子育ての支援グループです。
 幻聴ミーティングは、自分の幻聴を披露し、それにどうつきあうかなどを話します。今は、医者の前でも普段でも安心して幻聴のことを話しますが、昔は幻聴があるなんて言うと、薬は増やされ、退院は延ばされるから、みんな、絶対言わなかった。特に、精神科医の前ではほんとのことを言わないのは常識だった。例えば、治療を受けているだれかが幻聴があるとあちこちで言ったら、精神科医である私の治療が不十分だったり、失敗していると思ってしまう。だから、昔は、よくなりましたと言うまで、あの薬、この薬とだんだん薬を増やしたくなる。今は、ミーティングがありますから、幻聴ってあってもいいんだと思える。本人に「もっと薬を増やして幻聴を減らすようにやってみるかい」と言うと、「いいや、いいです。このままでいけます。友だちに助けてもらいますから」と言う。そういうやり方で暮らせるということがだんだん分かってくると、いわゆる医者の役割もどこまで必要なのか、見守っていていいのかの私自身の見極めも必要になってきます。こういうプログラムがあって、低脳薬、薬をできるだけ少なくすることができるのです。
 この他、べてるの中でもミーティングはありますし、各職場でもあります。毎日どこかここかで数回のミーティングが行われている。だから、町全体として考えたら、ミーティングは、たくさん行われているわけです。だから、当然、ことばを覚えていきます。話さないとやっていけない人たちが増えてきた。精神病は黙っているのが、30年前の常識でしたが、今は、黙っていると練習が足りないんじゃないかという評価になっていく。

べてるの組織図

 べてる大学があったり、しあわせ研究所なんていうのもある。大学の建物があるわけじゃないが、研究をしている。精神障害を持ちながら、あるいは障害がなくても、人としての幸せを追求する、研究する大学といってもいい。理念や考え方をことばにする研究という部分は、べてるにとって非常に大きいものです。
 会社もある。年商1億数千万くらいですが、儲けるために商売をしてるんじゃない。心配するほど黒字には絶対になりません。ただつぶれなければいい、という程度です。課題は、べてるの活動が始まった頃に考えていたように、自分たちは障害者なりに地域に対して何が貢献できるかということです。今も考えているのは、浦河町にどうやって儲けてもらうかです。去年の9月、全国の精神障害者の全国大会が浦河で行われました。毎日1000人くらいの人たちが、浦河の町を、3日間にわたって歩きました。あの過疎の町をぞろぞろと歩いているのは、みんな、べてるに来た人たちです。とにかく集団が歩いていると、みんなべてるです。JRローカル線の日高線浦河駅で降りて、荷物を持ってキョロキョロしていると、JRの職員が「べてるに行くんですか?」と声をかけてくれると、お客さんが感動してました。
 どうやったら、地域活性化に役立ち、地域に暮らす人たちを応援できるようになるか、べてるは取り組んでいます。浦河は、観光の町じゃないので、泊まるお客さんは、べてる以外にはないだろうと思います。町長さんも会うたびに「お世話になってます」と、私の方が言われます。でも、町の一般的な人たちの声ではまだまだですけどね。べてるのおかげで曲がりなりにも潤っている人たちもいますが、均等に1万数千人の地域の人がみんな、べてるで潤っているわけではもちろんありません。当然ながら迷惑をかける人たちも中にはいます。だから、全国から変な人ばかりを集めるとずいぶん批判を浴びることもあります。警察からは長い間叱られています。でも、町おこしになっていると、町も警察の方も慣れてきてくれ、ずいぶん昔と変わってきていると感じます。

苦労の取り戻し

 私たちは、「精神障害者に対する偏見・差別、無理解が地域にあるという偏見」をもっていたけれど、相手に理解を求めるんじゃなくて、地域が抱えている課題を理解する障害者をつくるか。浦河も、町民も、すごい苦労してる。病気でない人たちも大変だ。商店街もお客さんがいない。商売をどう続けていくか大変苦労している。自分たちが苦労してきた経験を、地域で役立てられないだろうか。一方的に理解してもらうのではなくて、自分たちが地域を理解するという力をつけよう。
 私たちは「苦労の取り戻し」と言い、自分も苦労できる人になると同時に、地域が抱えている苦労にも参加させてもらおうとします。最初、昆布の販売をしたのも、地域での商売の同じ苦労に参加させてもらうのが目的でした。商売は難しいものだという、地域の人たちと同じ目線に入っていくということです。「地域のために健常者のために」とは、町の人たちに聞こえるようには言いません。自分たちが元気が出るようにと勝手に言っていることばです。今なら結構言えるようになりましたが、まだ気を悪くする町の人だっているかもしれないので。自分たち用だと理解して下さい。

町おこしとしての商売

 地元でとれる日高昆布を全国に売る。全国に売って町を助けよう。もちろん、べてるが昆布を売っただけで町が救われるわけじゃないんですけど、志、思いが大切です。
 昔は、働けない人をどうにかしてがまんさせて働く人にするかが、いわゆる治療的かかわりでした。しかし、向かない人は使わないで、もっと向く役割はないかと、新しい役割を常に開発するのが、べてるです。3分ともたず、すぐたばこを吸いに行く人に、がんばって作業させるとか、無理に作業させるとか、指導して作業させるとかは一切ない。
 作業所なんかでよくあることですが、作業を本人が一生懸命やらされているというようなニュアンスが多少でもあると、調子が悪くなって、いったん入院したりすると、もうあそこの作業所には帰りたくないということになってしまう。代わりに親が通って、親の割合が多い作業所ができあがるのが全国によくある。親の社会復帰には役立ったけれど、本人の社会復帰には何にも役に立ってなかった。やらされる、やらせる、一方的な方向だからです。べてるは、自分たちがやると言って、やり始めた。家族会は一切関係してません。
 とにかく過疎地ですから、働く場所は自分たちで仕事を作るしかない。昆布の仕事も最初は下請けでしたが、会社から仕事を打ち切られて、仕方なく自分たちで仕事を始めた。元気を出すために、自分たちすら救えないのに、町を救うという、あきれ果てるスローガンで出発しました。その後、べてるもだんだん大きくなります。昆布の仕事ばっかりでなく、自らが仕事や役割をみつけました。
 本の出版や、ビデオを作って全国に販売するなど、東京の人がやることで、最初は、発想のかけらもなかった。ところが、べてるを応援してくれる人がいて、本を出しましょうと言ってくれた。べてるの本が、医学書院やみすず書房などから出るなんて、どう考えたって考えられない。想像もつかないことが、今現実になっているのは、よくよく考えれば自然の流れのような気がしますし、一方では、不思議だなあというような気がします。

体験をビジネスに

 他に何か売るものないかなと思っていたところ、病気を売ればいいんだと、病気をビデオに写して、自分たちがどんな経験をしたのか、病気とはこういうものだと語っていくことをしようとなりました。急に語れと言っても語れないけれども、十数年、二十年来の経験の蓄積があるから、病気を売ろうという話があったときチャンスとして生まれてくる。ただ言われるままにするのじゃなくて、自分たちのことばにしてみる当事者研究をしてきました。もちろん、そこには、医療もあるし、応援も手助けもあります。薬も飲みます。しかし、ただ教えられて、聞かされて、指示されて、うなずいてるだけじゃなくて、自分たちのことばに変換してみる。自分たちが使う日常のことばにしてみる。そのとき初めて、自分たちが主役になって、この病気と、あるいは、自分たちの生活とどう取り組めばいいのかということが見えてくる。
 そこまで深めて、初めてこの病気の意味が見えてくる。「いやあ、いい病気になったと思ってます」ということをよく聞きます。精神分裂病と言っていた時代に、今ここにいる松本君は「分裂病はいい病気です。神様がくれた病気です」言った。「どういいの?」と聞くと、「分裂病は、友達が増える」といいました。この話をしただけで、永久不滅の業績です。精神病に関して、こんな明るい定義をした人って日本には今までいなかったと思います。
 医者は、おそらく、もっと人生を絶望させる説明しかできなかったでしょう。「友達が増える病気だ」と言うのは、ただ分裂病であれば友達が増えるということじゃない。彼は、統合失調症、当時は分裂病といっていたんですが、分裂病体験、幻聴の体験、いろいろの失敗体験を語っている間に、同じ分裂病の人たちがたくさんいるということに気づいて、「先生、分裂病の人っていっぱいいるわ。みんなと友達になってみて、分裂病っていいわと思った」と言ったんです。そういう受け止め方やことばは、私にはとっても新鮮だった。こういう発想は、私たち医療者には真似できない、絶対沸いてこない考え方だと思いました。それが、いわゆるべてるらしいなあという発想で、彼は、べてるの幻覚・妄想大会のグランプリをとっています。
 
自分の悩みと地域の悩み

 今度は逆に、自分の悩みを地域の悩みにしていこう、オープンにしていくということです。ただひとりで悩んでいればいいんじゃない。この悩みは多くの人たちにとっても同じ、共通の悩みじゃないだろうか。子育てで悩むのは、べてるのメンバーだけの問題だけじゃない。そういう悩みをオ一プンにしていく。語りの悩みにしていく。そのことによって、どんどん人がそこに入っていく。
 地域が依存し始めたと私は思っていますけど、そんなにべてるに依存してねえぞという人だって、ずいぶんいると思います。だけど、年間2000人以上の宿泊客が来る人たちが落としていくお金、浦河にとっては外貨が入ってこなくなったら、宿泊施設のいくつかはつぶれているかもしれない。べてるは、黒字か赤字かの微妙なところを担っているんじゃないかと思うんですね。かなり大事なところをべてるは、町の中で貢献できるようになってきているんじゃないかなと思います。働いてその給料だけで暮らせるほどまとまった仕事は地域にはないけれど、ちょっとした小さな仕事で手伝っていけるとところへ、べてるは入っていきやすい。狭間の仕事みたいな、小さな仕事で、これはちょっとべてるに頼みたいなというような仕事は、積極的に受け入れるようにしています。

関係機関とのネットワーク

 地域の中のいろんなつながり、連絡網が非常に有効に動いていると思います。何も精神障害という問題だけじゃなくて、ときに今子育て支援、虐待のネットワークみたいなとことつながっています。いろんな関係機関とのつながりが密になるために、非常に相談しやすい、情報の効率的な交換のできる場になってくれていると思います。

べてるの理念

 理念といえば、会社経営の理念とか、私たちの病院にも、赤十字病院の理念がありますが、恥ずかしいかな、赤十字病院の理念を見ている職員はいません。しかし、べてるの理念は、みんな、誰もが知っていて、自分たちの日常生活に使います。
 「3度の飯よりミーティング」は、べてるのミーティングの多さを表しています。ミーティングというのはとても大事な場だよということを、このことばは表していて、非常に使われています。
 「安心してさぼれる職場作り」は、ビジネス界に衝撃を与えた理念でした。これができた頃に、実際に全員がさぼって来ない日があって、現場が大変困った。後で分かったのは、さぼっている人たちも少しも安心してさぼってなかった。黙ってさぼったものだから、気になって気になって、あわててみんな出てきたということでした。「安心してさぼる」ためには、お互いに、「明日は、僕疲れててちょっと休みたいんだけど」とか、事前の話し合いや相談をした方がいいということが分かった。安心してさぼれる前提には、コミュニケーションが大事だと分かった。今は、勝手にさぼる人はいなくなったそうです。自分たちが決めてしたことの結果を全てミーティングにかけて、どうすればいいか工夫するようになったんです。
 「手を動かすより、口を動かせ」は、普通は、黙って作業しなさいだけど、黙々と昆布の作業をしていると、「あんた、手しか動いてないよ。ここは、ただ作業する場じゃないんだよ。口が動かないとよくならないんだよ。手しか動かな人は、何日かで来れなくなるよ」と。話をしないとただの我慢の場になると辛い場所になってしまう。あるいは、作業が辛いものになっちゃう。口を動かそうとは、経験の中から出てきたことばです。

全国大会

 全国大会では、グランプリの授賞式をするんです。こういう中で賞をいただくのは、誇らしげです。家族の人が見ていて、我が子がここで賞をもらったらもう涙ですよ。しかも、ただ病気がよくなりましたと言って、もらってるんじゃないですから。あなたの苦労やあなたの病気体験には、多くの人たちへのメッセージとなる価値があるので、べてるはあなたを表彰しますということです。だから、グランプリをもらった人たちにとって、病気でよかったと思う瞬間です。また、精神障害の人たちがこういう晴れがましい評価を受けているのを見たというだけでも、自分たちもなんか開放されていくようです。精神病の人というのは、気の毒で、だめな人で、はやく治さなければいけない、なんとかしなきゃいけない人と思われていたのが、病気のままで賞を受けていますから、これは多くの人たちにとっても、どうも目から鱗が落ちるという体験のようです。
 7年ほど前、TBSのニュース23の筑紫哲也さんたちが浦河に来て、1時間半の生中継を放送しました。その時、町の人は、なんでこの町にニュース23が来るのか、訳が分からなかったと言います。それまで、町の人は、べてるを知らない人がずいぶん多かった。外からの評価でやっと、私たちの活動が認められたのです。
 このように浦河でも大変不思議な活動として、認められる。しかも特別努力に向く体質の人たちがいるわけじゃない。努力した人って、あんまりべてるにはいないですね。ただ、とにかく、何が大事だろうねという話をずっと、べてるの人はよくしゃべってるなあと思います。私たちは、昨日、浦河から来ましたけれど、車の中だろうがどこだろうが、よくまあしゃべるんですわ。しかも、それぞれがバラバラなんです。本当に、真剣に聞いていたら嫌になるような。でも、思ったことが語られているという、これは、私たちにとっては、とっても自然に見えますね。まあ、1ヶ月や2ヶ月の練習ではこうはならない。しかも、本人たちだけが練習してたというよりも、もっと前の人たちもしていて、長年の取り組みの中にごく自然に入ってきた「語ることばの力」の大きさを、私たちは、よく言うんです。「治ってるの?」と聞くと、「治ってない」とみんな言います。「治せる先生がいないから」と。浦河なんて、田舎町じゃないですか。名医なんかいたら、すぐ札幌の大学病院に戻って、1年でいなくなるんだとよく言います。私、25年もいますからね。何を期待していいか、期待しても無駄か、みんなよく分かってます。
 一貫して、みんなが取り組んでいます。先生だけが、あるいは病院だけが、がんばっていたら、今のような活動という形には決してなっていません。
 私から多少のアドバイスがあるとすれば、今がんばっている人たちや、今うんと心配な人たちは、ちょっとエネルギーを減らしていいかなという気がします。心配もがんばりも、みんな一緒に分けて、見ていく方が、余裕があります。私も心配で気になって気になって一生懸命やってたときには、あんまりうまくいかなかった。ところが、こっちが心配するのをやめて、その分だけ、相手が心配する、周りが心配する、心配のもとを聞く。そのとき、代わりにすぐ心配を解決してあげるよりも、へこの心配や悩みは、みんなで話し合いをして、やっていこうとしています。解決してあげるよりも、一緒に考える人、あるいは応援する人というような立場、そういうことを大事にしてやっています。(了)(「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/27

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