第19回吃音親子サマーキャンプ

 第19回吃音親子サマーキャンプの、特に表現活動にしぼって報告をしました。今日は、そのときに参加した、ことばの教室担当者とどもる子どもの保護者2人の感想を紹介します。
 3日間を丁寧に振り返っての感想は、僕たちにとって何よりの励まし、次の活動へのエネルギーになります。DVDを見るのと、実際に生の体験をするのとは大違いと保護者が言っていましたが、まずどんな内容かなと興味のある人は、DVD「吃音を知る」を見てください。また、日本吃音臨床研究会のホームページに、吃音親子サマーキャンプについてその意義などについて話している動画もあります。
 DVD「吃音を知る」は、送料込みで、1200円。ご希望の方は、日本吃音臨床研究会までご連絡ください。
 では、「スタタリング・ナウ」2008.10.21 NO.170 より紹介します。

  3日間×19年の輝き
                  高木浩明 宇都宮市立雀宮中央小学校(当時) 

2泊3日の贅沢な時間
 手に入れたばかりの真新しいスニーカー。わくわく気分でそれを履き、玄関から飛び出す。すると、いつもと同じ風景なのに、何か違う街並みのように見えてくる。キャンプの帰り道、そんな子どもの頃の記憶が蘇ってきた。
 ただ一度のキャンプだけれど、たくさんの出会いがあった。子どもたち、お父さん、お母さん、スタッフとして参加した大学生やことばの教室の先生。吃音ショートコースで何度か顔を合わせてきた日本吃音臨床研究会のメンバーの新たな一面も垣間見た。その誰もが、同じ思いを持って、同じ空気を吸っていることの心地よさ。2泊3目の贅沢な時間。

キャンプとの出会い
 どもる子どもたちが出会える場を作ろうと、市内のことばの教室合同で、グループ学習会をスタートした頃、第1回「臨床家のための吃音講習会」の案内が来た。伊藤さんの本や「スタタリング・ナウ」案内号で、吃音親子サマーキャンプの存在を知っていたので、この講習会でもっと分かるかもしれない、出会いの次のステップが見つかるかもしれない、そんな期待を持って岐阜に向かった。
 その後も講習会や吃音ショートコースに参加して、いろいろな場面で、たくさんの人からキャンプの話を聞き、自分も参加したいと思い始めた。ただその頃は、もうちょっと地元の学習会や自分の実践をしっかりさせてから、キャンプに飛び込みたいと、まだちょっと躊躇する気持ちも正直あった。数年前からは、県内のことばの教室に通級しているどもる子どもたちを対象に、話し合い活動をメインにしたグループ学習会を企画するようになり、ますますキャンプへの思いが強くなった。
 参加するなら3日間の全部を味わいたい、そう思うと出張等で日程の都合がつかない状況が続き、ようやく今年、満を持しての参加となった。

変わる姿
 このキャンプの魅力の一つは、一つのテーマに向かった活動が繰り返しあること。話し合い、作文教室、そしてまた話し合い。自分が吃音とどんなふうに向き合っているのか、じっくりじっくり考えることができる。自分自身が変わっていくことを、じわりじわり感じることができる。
 3日間を通して行われる劇の練習、そして発表。子どもたちは、戸惑いや抵抗感もあったけれど、自分の、まわりの友だちの身体や声が変化していくことに、ふと気づく。それがうれしい。そして吃音との、今までと違う向き合い方が、ちょっとずつちょっとずつ伝わってくる。自分の中で、何かが変わり始めた息吹を感じ出す。表情が変わっていく。

6年生の話し合い
 1回目の話し合いは、夕食後に始まった。私が担当したのは、6年生8人のグループ。運動会の係や委員会のことなどが話題になる中、Aさんが話し始めた。「私、5年生の後半から学校を休んでいる」こちらからの問い掛けにゆっくり答える。「学校は嫌いでないし、行きたいと思っている。友だちもたくさんいる」「5年生になって先生が替わって、一日に何回も当てるようになった。どもらないように話していたけれど、だんだんそれが辛くなってきて、学校を休みたくなった」「友だちは、私がどもることを知らないと思う。でも私は、自分がどもるのがイヤ」まわりの子どもたちもじっとその話を聞いている。そして「どもりを隠しても、どもりが治るわけではないから、僕はそうしない」「僕は、タイミングを掴んで話せばどもらないから、そういうふうにしている」「僕は、隠そうと思っても、隠せないから」それぞれ自分の思いをことばにしていく。
 今振り返ると、Aさんが、最初からこの話をしようとは、思っていなかった気がする。初対面の人ばかりの中だけれども、心の中にあるものが、ふっと出てきた。気がつくと話し始めていたという感じではないだろうか。そうできる雰囲気が、このキャンプにあるのなら、もしAさんがそう感じていたのなら、それだけで、キャンプに来た意味があったと信じたい。そして、誰かに話していいこと。自分には伝える力があること。真剣に聞いてくれる人がいること。自分だけでなくみんなどもりと向き合って、いろいろあるけれど生活していること。そんなあれやこれやを知るだけで、一つでもそのことに気づくだけで、何かが変わっていく気がする。Aさんが学校に行ってもいいと思うのは、もう少し先のことだとしても。

楽しさより喜びをつかむキャンプ
 初参加のスタッフのためのキャンプ基礎講座。伊藤伸二さんが語った「このキャンプは楽しさを求めるのではなく、喜びが得られるものにしたい」ということばの重みがよく分かった。
 3日間の中には、涙もあった。辛さと直面する場面もあった。そしてただ話を聞くだけで、そばにいるだけで、どうすることもできずに、もどかしい自分がいた。けれども3日間という時間の中で、そんな瞬間も、いつの間にか違う彩りを帯び始める。苦しかったり悩んだり。でもそれを一緒に感じてくれる人がいる。分かってくれる人がいる。ぱっと解決策が見つかるわけではないけれど、それもこれも、大切な自分の一部。そんな思いが、ふっと湧き上がる。
 キャンプの中で見つけた、昨日からちょっぴり変わった自分は、どこかゴワゴワ、ザワザワしている。それは新品の靴が、まだ足に馴染まず、ちょっと痛く感じるように。履き続けているうちに、堅いキャンパス地も、少しずつ自分の足に馴染んでくる。3日間では、まだピッタリ自分に合うようにはならないけれど、これから1年かけて馴染ませればいいと思う。新しい靴を手に入れた喜びを胸に。
 キャンプ最終日の卒業式。何年もこのキャンプに通い続けた高校生、一人ひとりが語ることばは、しっかり前を見つめている。「いろいろあるかもしれないけれど、大丈夫。やっていけると思う」そのことばの輝きに涙する。フロアーで、じっとその様子を見つめている子どもたち。きっと将来の自分の姿を、そこに映し出しているのだろうか。
 これも19回続いているからできること。きっと来年もまたみんなに会える。新しい自分に会えるという安心感。だから、新しい靴を手に入れるために、また来年もサマキャンに行こう。

9月のことばの教室
 キャンプの興奮が冷めぬ中始まった、9月からのことばの教室。どもる子どもに会うと、自然にキャンプの話になる。熱が入る。じっと聞く子どもたち。どもることを隠したい気持ちのこと、劇のこと、キャンプで出会った子どもたちの話が続く。
 劇の台本を一緒に読みながら、自分が参加したらどんなふうに思うか想像している子もいる。「1年生がこれ読んだの?」「何人の前でやったの?」「やっぱりどもりやすいセリフってあるね。でも違うことばとかにはしないんでしょ?」会ったことはないけれど、自分と同じようにどもる子たちが、たくさんいること。その子たちが、迷いながらも前へ進んでいることを、肌で感じている。「来年は一緒に行こうよ」と呼びかけると、「うーん、まっ、考えとくね」と、ちょっとつれない返事。まあいいか。ゆっくり、じっくりその気になってくれればいいさ。まだ一年ある。

おわりに
 9月末になり、夏休みに実施したどもる子どもたちのグループ学習会の感想が集まってきた。その中に本校の保護者のこんな思いが書かれていた。
 「グループ学習会の話があってから、何回か子どもと話し合いをしました。行くことを渋る子どもと、先生からのぜひにという誘い。正直迷いました。でも結局は、専門家である先生のことばを信じるしかないと思って参加を決めました。…親の私が分からなかった、子どものしんどさ、逃げたい気持ちが、先生には見透かされていたんですね。行くと決めてからは、私も子どもも、ふっと楽な気持ちになりました。…子どもはまた来年も行きたいと言っています。私も、これまでよりもっと明るいことばで、子どもと吃音の話ができそうな気がしています」たった一日の学習会だけど、子どもたちにとっても、保護者にとっても大切な時間になることを、今回だけでなくこれまでにもたくさん感じてきた。ことばの教室担当者として、そうした機会に関われることが、本当にうれしく感じる。だからこそ感じるのかもしれない。
 このサマーキャンプは、本当に羨ましいくらい贅沢な時間なんだと。

  うれしかった衝撃の三日間
                藤沢典子(東京都・高等専門学校5年生の親)
 私にとってサマーキャンプのことを一言で言うならば、「激動の三日間、衝撃の三日間」であった。
 何としても息子をサマキャンに連れていくのだという強い使命感だけで参加し、ただ行きさえすれば、後は何も望むまいと思っていた。行きの新幹線の中では、ずっと仏頂面でだんまり、お昼も食べずにいた息子。それが着いてから少しして、誰かに話しかけられ答えている息子を見て、エッと思った。表情が違う。戸惑っているのは明らかなんだけれど反発は全くしていない。これだけで、私は来てよかったと思った。
 そして、その夜。私はグループでの話し合いで、息子に関する思いの丈をはき出すことができた。こんなに素直に自分の思いを表現できたのは、生まれて初めてと言ってもいいくらい。そして、皆は一生懸命聞いてくれた。何という充実感、何という満足感。
 自分がすっきりと満足しているのを実感し、二日目の作文では、「これは私のためのサマキャンだった」と書いた。
 それから、息子がスタッフ以外の人と話をしている姿や、息子の笑顔を目にしたとき、私はうれしくてうれしくてたまらなかった。
 その夜、事態はまたもや急展開。息子は吃音であるとはっきり分かった。学校では一切発表しない、人前では話せなかった原因がやっと分かった。キャンプに参加するまでも吃音かどうかは半信半疑だった。参加して、多くの人から話を聞き、吃音にもいろんなタイプがあることを知っても100%納得したわけではなかった。
 それが、私、息子とそれぞれ面談していただいた伊藤伸二さんからていねいに説明されて初めて納得した。幸か不幸か、弟も吃音であるため、弟が通うことばの教室に、兄も一年ほど連れていった。だから私にも吃音の知識は多少ある。その中途半端な知識が先入観となり、弟とはどもり方の違う、兄が吃音であることが納得できなかったのだ。それをとっぱらって考えてみれば、ひとつひとつ合点がゆくことばかりだ。ジグソーパズルがピタッとはまった感じ、謎がとけて、目の前が晴れた感じだ。ああ、そうだったのか。
 だからあのとき、ことばの教室で10年近く前、初めてこのキャンプのことを知ったとき、その内容に強く惹かれ、そのときから、当時、吃音とは思いもしなかった息子をこのキャンプに連れてゆきたいと思っていたのだ。
 そして、今回、就職か進学かの崖っぷちに立たされて、やっと連れてくることができた。これまでの息子の苦悩を思うと、なんでなんでもっと早くに気づいてあげられなかったのとは思う。
 だけど、もっと早くにキャンプに参加していればとは思わない。思いたくない。これまでがあって、今スタートに立てたのだから。
 これからだって、不安材料をあげたら、きりがない。だから、考えない。
 今、今これからが大事なのだ。強くそう思う。息子は、戸惑っているようだが、心の内は分からない。が、その夜、遅くまで、部屋の仲間たちに囲まれ、真剣に話を聞いているのを見て、安心した。
 最終日、親の表現活動につづき、子どもたちの劇、皆の一生懸命さに感動し、そして、卒業生の姿、ことばに感動したのは、あの場にいた人たち、または過去に参加した人たちと同じだと思う。そしてこの感動は、生で体験するのとDVDで見るのでは、大きな違いである。
 いろいろなことがあって、たったの三日間とは思えない、一週間くらいいたような気がする。ある人がハードなスケジュールと言っていたけれど、私には全くそんなことはなかった。
終わってみて、少し疲れたけれど、心地よい。将来息子がスタッフとして参加できたらいいなあなんて思ったりもした。伊藤さんはじめスタッフの方々、お世話になりました。ありがとうございました。同室だった方々、同じグループで話を聞いてくれた方々、河瀬駅で最後に声をかけてくれたスタッフ、卒業生にもお礼を言いたい。来年、またよろしくね。

  初めてのサマキャン、温かい場所
                    福山玲子(岐阜県・小学校6年生の親)
 初めて会ったその日から、子どもだけでなく、私たち母も友だちでした。年齢も環境の違いも関係ない。ただ吃音をもつ子の親、それだけで私たちは何のわだかまりもなく話を始めました。サマキャンに通い慣れている母方も新参者を温かく迎え入れてくれました。今ここに来ている人たちは皆同じ思いだということを、知っているからこそなのでしょう。
 このキャンプのことは、去年の秋に知りました。来年は必ず!と今年初めて参加させていただきました。
 現在の悠也は、吃音は相変わらずですが、私の知る限り精神的には落ち着いています。母はもちろんですが、悠也自身も、吃音は治らないだろうことをある程度は理解しての参加でした。
 数年前の私たちには、吃音についての情報があまりに少なすぎました。いくつもの病院、相談所等を尋ね、何冊もの本も読みましたが、何か違っていたり、何も先行きに手がかりを得ることができませんでした。
 ここにはたくさんの子どもたちがいました。低年齢でこのサマキャンにたどりつけた方々が、私たち親子にはうらやましく思えました。現在、ことばの教室には通わせていただいていますが、年下のお友だちが多いため同年で対等に話せる友だちはいません。また、月に1度のかかわりでは、自分の本音を話せるまでの関係になるのも難しいと思いますし、話をするという感じの教室ではないです。
 このキャンプに参加したことで、悠也がどもる自分と向き合い、同じ年齢または兄さんたちと、自分に素直な思いを話すことができたことを願います。弱音を吐いても大丈夫、吃音という同じ悩みで苦しんできた、がんばってきた友だちと、普段には話せないことを話せる、今自分が思っていること、悩んでいること、誰かに聞いてほしいこと、知りたいことを話すのに、これほどまでに限りなくたくさんの選択が与えられた空間で時間を共有できたサマキャンに感謝します。
 ひとりでずっと苦しんできて、やっとたどり着いたここには、自分を分かってくれるたくさんの友だちがいる。それが解決ではないけれど、たったそれだけのことが、悠也をはじめ、この子たちには、どれだけ大きな力になり、勇気になり、宝物になるのだろうと思います。
 当たり前ですが、親は子どもを愛し、子どもの苦しみを理解しようとし、子どもが少しでも楽でいられるようにと願います。でも、私たち親が吃音のある人でない限り、またたとえそうだとしても、今現実に吃音で苦しんでいるこの子たちの心を、すべてわかってあげることなど、そんなことはあり得ないと思います。同じ苦しみ、哀しみ、それを経験してきた方が、ここにスタッフとしていて下さり、また共に過ごす仲間が皆同じなんだということ、それが何よりも大きな支えになるのだと思います。
 母たちの交流の中で、どんな思いでこのキャンプに参加したか、今現在または、今に至るまでどんな思いをしてきたか、たくさんの話をしました。ただ一言で吃音と言ってしまうには、あまりにもたくさんの思いがあふれていました。その気持ちを誰もがわかっているから、私たち親にとっても、ありのままでいられる、そんな空間だったと思います。
たくさんの涙がありました。苦しんでいる我が子に何もしてあげられない、どうしてあげればいいのかわからなく、と自分は無力だと自分を責める涙。参加することさえ嫌がっていた我が子が、出会ったばかりの友と笑顔で過ごす姿を目にしたときの安堵と喜びの涙。一生懸命にまた楽しそうに劇を演じ、来てよかった、楽しかったと言ってくれた子どものことばに、笑顔に涙。自分の接し方に不安がいっぱいで、ひとりでがんばってきて、張りつめていた心が、他の人のことばになぐさめられ、救われた、そんな涙もありました。
 そして、今年こそはとの、ほんの少しの期待、願いが叶わなかったと、つらい涙もありました。
 がんばれとは言えません。そんなことは言わなくても、十分にこの子たちはがんばっています。がんばってできることではないことを私たちはわかっています。この涙は、母の心の願い。そしてまた明日からのスタートに必要な涙でもあるのだと思います。
 来年こそは!と願う。同じ思いをもつ私たち。自分の子どもだけではなく、ここにいる子どもたち、その親たち、ここでは、皆が家族で、きょうだいで、仲間のような気がします。この子たちの成長、がんばり、どんなに小さいことでも、うれしい気持ちになれると思います。
 悠也の話し合いの場の担当の先生が、悠也の発言を、内容は分かりませんが、思いやりのある温かいことばだったと、通級の先生を通して教えて下さいました。苦しんできた分、今辛い思いをしている人にやさしくなれたりする、そんな心をもっていてくれるとしたら、とてもうれしいことです。そしてそれは、普通の子には与えられていない、すばらしい贈り物だと思います。
 現実の生活に戻って半月が過ぎ、日が経つほどに、サマキャンで過ごした時間がどれだけ貴重だったかという気持ちが大きくなっていく気がします。
 きれいごとかもしれません。母としての自覚が足りないのかもしれません。でも今私は、今どこかで苦しんでいる子や親御さんに、何かを伝えたい。何かできることはないだろうかと、そんなことを考えています。
 今のこんな気持ちにたどり着くまでにたくさんの時間がかかりました。私も悠也もたくさん泣きました。これからも、何度となく、そんな壁にぶつかり、悩みもするのだと思います。でも、今流す涙は、5年前とは全く別の涙だと思います。今はもう暗闇の中ではありません。ありがとうございました。また、来年。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/05

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