吃音問題の歴史―楽石社と言友会をめぐって―
僕が大阪教育大学に勤めているときに書いた論文を紹介します。
大阪教育大学紀要第23巻第IV部門(昭和49年)に掲載されている、『吃音問題の歴史―楽石社と言友会をめぐって―』です。吃音問題を語るとき、正しい知識をまず知ることが大切だと思います。日本の吃音矯正所である楽石社とどもる人の最大のセルフヘルプグループ言友会を比較した論文を掲載した「スタタリング・ナウ」2008.9.22 NO.169、リードの部分から紹介します。論文調の文章は好きではないのですが、論文には論文の書き方があり、仕方がありません。我慢してお読みいただけるとうれしいです。
「歴史は繰り返す」
吃音に真剣に取り組み始めてから私は何度もこのことばを口にしました。
吃音の潮流は、世界でも、日本でも、いろいろと形を変えながらも「吃音の治療・改善」に回帰していきます。
2008年秋の吃音ショートコースでは、「どもる子ども、どもる人のための言語訓練とは何か」を考えます。そのための資料として、私が1974年に書いた大阪教育大学研究紀要の論文を紹介します。
私は、どもる人のセルフヘルプグループ言友会の創立者のひとりであり、長年全国言友会連絡協議会の会長として活動してきました。しかし、事情があって1994年、言友会から離脱し、日本吃音臨床研究会を設立しました。現在はNPO法人・大阪スタタリングプロジェクト(大阪吃音教室)で活動を続けています。
したがって、現在の言友会の活動の状況や、言友会がその後「吃音治療・改善」にどのような立場をとっているのかは分かりません。しかし、この当時書いた「治す努力の否定」の精神は、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトと神戸スタタリングプロジェクトの活動に脈々と受け継がれ、発展してきています。この事情を考慮に入れて、34年前の私の論文をお読み下さい。
また、この論文で使われている「吃音者」ということばを、私は使わなくなりました。「吃音克服」も、「たくましい吃音者」にも違和感がありますが、当時の論文そのままを紹介しました。ご理解下さい。
伊藤伸二
大阪教育大学紀要第23巻第IV部門(昭和49年)
吃音問題の歴史―楽石社と言友会をめぐって―
伊藤伸二(聴覚・言語障害児教育教室)
小論では、日本における吃音問題の歴史を、日本最初の成人吃音者のための矯正所である楽石社と、成人吃音者の団体としてはもっとも新しく、大きい言友会とを比較しつつ考察を加えた。
楽石社は、「吃音を治す」という前提のもとに、1903年に創立された。一方、言友会はその前提を取り去る方向に修正をし、新たな出発をしようとしている。吃音問題の解決にとって、この新しい方向が避けがたいことは、歴史的にも論理的にも裏付けされている。将来の吃音問題のいくつかもまた論じた。
はじめに
従来、民間矯正所の実態調査はまったく行われていなかった。昭和47年になって伊藤らが民間矯正所終了者の追跡調査を行った(1)。その報告によると、吃音の矯正期間中効果があったとした人の多くが、終了後一か月ほどで元の状態に戻っている。また、昭年48年に森川らが行った「ことばの教室」の追跡調査によっても、「ことばの教室」に通級しても、完全もしくは、ほぼ完全に治ったものはきわめて少なかったことが報告されている(2)。
民間矯正所は約70年の歴史を持ち、「ことばの教室」は約10年の歴史を持つ。しかし、いまだに吃音の問題を解決するには至っていない。どこに問題解決を遅らせている原因があり、どこに解決の糸口があるのか?民間矯正所の「由来」に学び、今後の吃音問題解決の方向を探った。
Ⅰ 日本吃音矯正法発明由来
日本における吃音矯正の歴史は、伊沢修二の楽石社に端を発している。伊沢は、明治36年3月、楽石社規程を配布し、楽石社の事業を開始した。しかし、楽石社は吃音矯正を主な目的として発足したものではなく、次の八項目の実行を目的としていた。1)視話法を伝習す、2)正しき日本語音を伝習す、3)正しき英語音を伝習す、4)正しき清国語音を伝習す、5)正しき台湾語音を伝習す、6)方言の誰を矯正す、7)吃音を矯正す、8)唖子にものを言はしむ(3)。
しかし、楽石社の募集に応じたのは、12,3才と17,8才の青年に、50がらみの老人を含め7名であった。しかも、他の科目を希望するものはなく、吃音矯正の希望者ばかりであった。楽石社は、事実上、吃音矯正事業団体として出発をした(9)。
伊沢の吃音矯正法の由来については、恩師であるところの、アレクサンドル・グラハム・ベル博士に送った書簡に詳しく述べられている。長くなるが、その一部を引用する。
現今小生は、吃音者の矯正に努力致し居り候。多分御記憶も可有之か。数年前御来東の節。東京帝国ホテルにて御面会に際し、吃音の原因に就き御教示を辱くせし処、尊説に依れば、「普通の人は談話を為すに母音を言語の基礎とすれども、吃音者は父音をその基礎とする故に、語音を吃して出でず、故に基矯正は初め各語の母韻のみを長く発音せしめ、後に適当の父音を加ふるによりて効果を奏すべし」とありし様記憶致し居り候。小生は貴説に従ひ、先づ吃音に悩み居る愚弟に試み候処、幸にも相当の効果を奏し候。然るにそれより一両年後、我極北の一県なる秋田県教育会の依頼に応じ、基地方訛音矯正の為め同地に赴きし際偶々一学校長の、14,5才なる吃患少年を伴ひ来りて、小生に基矯正を託するあり、依て先づ基吃患の如何なる症状なるかを問ひしに、彼少年の申すには「総て母韻に吃し、父母は吃せず」と、小生の予期に反したる返答を得、更に精密に診査致し候処、事実相違なきものと確認致し候。是に於て小生は少しく困惑せしも、退いて深く考察を重ねし末、「終に彼若し母韻にて吃するとせば、其障碍は必ず口中の機関に存するにあらずして、声帯の上に存せんこと必せり」との結論に到達し、再び彼を診査せしに、果して彼が母韻を発せんとする毎に、声帯を密閉する徴候として、一種の吸音を発するを聴断せり。如上の事実の発見に依り、小生は一の推断をなして日く「若し声帯の密閉が基障碍の原因ならば之れを張開することに依りて治癒せしむる事を得ん」と。然れども如何に、如何なる方法に依て、其目的を達し得べきぞ。日本五十音には、母音あり。是は視話音示の明示するが如く、必ず声帯を稍々開きて発音せざるべからざるものなるが故に、彼若し不断の練習に依り、此行の諸音を発音するに努力せば、基声帯は随意に開ける位置に留まり得べき習慣を得て、終に母音吃音を救治するに至るべし」と。小生幸にも此方法の実行に依りて、彼の吃音を矯正し、爾来進で小生が発見の吃音矯正法を成就せり。茲に其要旨を概述する事次の如し。
第一、声帯を張開し、同時に横隔膜を強くする練習。第二、先づ各語の子音を全く母韻化し、続て各子音に適当なる父音を加へ、発音する練習(5)。
Ⅱ 伊沢式矯正法の効果
伊沢の発明した矯正法をまとめると次のようになる。1)呼吸練習―腹式呼吸法。2)発声練習―「ハヘホ」練習。3)精神強化訓練―精神統一法等による吃音恐怖症の解消。この三つの柱をすえた伊沢の吃音矯正事業は、創業6か月で、約200名の吃音者を矯正している。その結果を前述のベル博士に次のように報告している。
「小生は本年五月此事業を開始し、今日迄に百九十三名の吃音者を矯正致し候。各患者に就き要する時日は種々にして、最も短きは唯七回に過ぎず。最も長きは二十回を責せり。その一回は各一時間を限りとす。其中全く治癒し能はざりしものは唯二人のみにて、其他は小生の指導の下に全く課程を練習し終り、何れも殆んど全治の効果を奏したり」(6)
明治39年9月には、矯正者1000名の記念会を、明治43年には2000名の記念会を開いている。伊沢は2000名の矯正を行った経験をもとに、その効果と限界を、明治44年2月に開かれた楽石学院新築落成記念会における演説で、次のように述べている。
先づ以てハヘホの練習で咽の縄をといてやると云ふと楽になりますからして始めて落着くことができる。そこで精神の修養も出来る。先づ障碍を取ってから徐々と精神修養も積み然る後に此の発音機関を自由に使はせると云ふ方法でやる。そこで先づ二週間も致しますと云ふと、一通りの障碍も取れ、あと一週間も尚母韻練習や会話の練習をしますると何でも言へるやうになる。そこで先づ出してやる。出してやるが何時も私が訓戒してやることは、決してこれで直ったと思ってはならぬ。十年、二十年、三十年も吃って居った人が今直ったからと云っても後を練習せぬと云ふと又再び起るからして能く練習しろと云ふことを言ってやる。所が吃る人はそれが治ると非常にうれしい。今迄で締められて居た咽が解かれて自由に何でも言へるから是程嬉しいことはない。非常に嬉しい感じと共にもう其で自分が十分直ったと云ふ心持がするから不養生したり、平日訓戒して置いたことに背いたりやる。是は吃が再発しないなんと思ふ為であろうが決してさう云ふものでない。吃りと云ふものは吃る原因があって起るのだから、其の原因を取ってやれば直る。併し又其の原因を再び自ら拵へれば又吃るやうになるのは当然の話である。併しながら此処で矯正した者の中、三週間ですっかり直ってしまったと云ふ者も随分ありますが、それを原則と心得てはならぬ。大抵は其の後二、三ケ月位の練習を要し、最も長いものは一年もかかっても尚直ったと言ふことの出来ぬものもある(7)。
Ⅲ 「治す」という大前提
伊沢修二の吃音矯正法の発明由来、その矯正法の具体的内容、その効果と限界を、伊沢自身の記述によってみて来た。その中で注目すべきは、伊沢自身、吃音矯正の終了後の吃音の再発を十分認めていることである。そして、その再発を防ぐには、「吃音は治る」という強い信念と、日常の生活での努力にかかるとしている点である。これは、現在の民間矯正所とかなり似ており、吃音者が矯正所終了後何度も繰り返して通所するのはそのためである。そして、吃音矯正の具体的内容そのものも現在の矯正所とほとんど同じである。
矯正事業創立の動機も、楽石社とそれ以後の矯正所に共通するものがある。それは、「吃音をなんとか治したい」という吃音者への愛情から出発している点である。伊沢は、実弟の吃音を治したいという兄弟愛が一つの動機となった。伊沢以後の吃音矯正家では、自分自身が吃音者であったことが出発となっている。すなわち、自分が治したように、他の吃音者にも治ってもらいたいという愛情から出発している。吃音を伊沢によって矯正され後に楽石社の副社長となった、松沢忠太は、次のように熱情を吐露している。
「我が多年の暗愁・苦悩は、今やこの嬉しき快癒に際して猛然として一種の反動的責務の情を喚起せしめたり。乃ち余は是より我全生涯を傾けて、必ずや吃音矯正の事業に委ぬざるべからず(8)。
松沢のように、自身が吃音者であった人は、吃音者への愛情が深い。その為に、「吃音を治す」ことに執着し、また自分の体験から、「吃音は努力次第で必ず治る」と信じてきた。「治す」ことを大前提に出発した吃音問題の歴史は、明治36年以来その前提を変えてはいない。矯正事業開始の動機も、その内容も、そしてその効果と限界も、約70年間ほとんど変っていない。そして、残念なことに吃音者の悩みは全く解消されずにいる。「治す」という大前提を示された吃音者は、吃音を治す努力をする。努力をしても治らないか、または一時治っても再発した場合は、その吃音者は自分の努力不足を責める。更には、「吃音が治らなくては、自分の人生はない」とまで思いつめてしまう。これらの吃音者は、治そうと努力すればする程、悩みが深まっていくという悪循環をくり返してしまう。
伊沢、松沢らの愛情が、かえって吃音問題の解決を遅らせる原因となってしまったと言えよう。
「吃音を治す」という前提に、吃音問題の解決を遅らせてきた原因がありそうである。
Ⅳ 言友会の誕生
民間矯正所に通った、しかし矯正所での効果が持続しなかった人たちが集まり、言友会(日本吃音矯正会)を誕生させた。この会も、名前の示す通り、「治す」ことを大前提に出発した。当然活動は、吃音矯正の為の練習が中心であり、矯正所出身者が多かったため、各矯正所の矯正所の方法が受けつがれていた。楽石社の三つの柱、呼吸練習、発声練習、精神強化訓練、がそのまま受けつがれたのである。ただ、吃音恐怖を取り去ることには力を入れていたため、暗い吃音者から明るい吃音者への移行は比較的進んでいた。「治す」ことを前提にして出発したこの会も、吃音が治っていかない現実から目をそらすことができなかった。
そこで、言友会は、昭和42年秋には、「日本吃音矯正会」という看板をおろした。そして、「団結の力で吃音を克服しよう」のスローガンが新たに掲げられた。「吃音矯正」から、「吃音克服」への移行である。そこで、「たとえどもっても言いたいことは言い、やりたいことはやっていく」、たくましい吃音者作りに目標が置かれた。しかし、「治す」という大前提が取り払われたわけではなかった。あくまで発想は、「吃音を治す」ためであり、その方が近道だ、ということであった。そのため、相変らず活動は、発声練習、呼吸練習が大きな位置をしめていた。
昭和49年5月、言友会は全国大会を高野山で開いている。そこでは、「行動する吃音者へ」というテーマが選ばれた。昭和42年、すでに「たくましい吃音者」作りに目標が置かれながら、現実には、吃音にとらわれ一歩行動に踏み出せなかった吃音者が多かったことへの反省から、このテーマが選ばれた。ここでは、「吃音は治らないかもしれない」ということを前提に、「治す」ための努力を否定した。そして、「治す」ために費すエネルギーを、「吃音を持ったまま、たくましく生きる」ために使おうということが論義された。「治す」という大前提を今一度考えなおそうということであった。
言友会は、伊沢以来続いてきた、「治す」という前提を取り去ることを決意し、これまでとは違った視点での問題解決にとりくみ始めた。吃音者自身の手によって、「治す」ことに初めてメスが入れられたのである。
Ⅴ 今後の吃音問題の一つの方向
上述のごとく、これまでの吃音に関するアプローチの多くが、「吃音を治す」という大前提で進められて来た。ある手法を、「吃音を治す」ために導入し、効果がなければ次の手法を導入する。効果が少なければ、それをより効果的にするために研究を行うということが続けられた。それはあくまで、「治す」方向での研究であった。
しかし、吃音者は体験を通して、「吃音を治そうとすればするほど、ますます吃音にとらわれ、悩みが深まっていく」ことを知った。そして、その悩みの中から、「吃音を治すための努力の否定」という新しい一つの方向を打ち出した。「吃音のために、本当にやりたいことを見っけられず、実行もできなかった吃音者」から、「吃音を持ったままで、更には、吃音であることを一つのチャンスにして、自分のやりたいことを知り、それに集中していく吃音者」への一歩を踏み出したのである。言友会のこの方向が、今後の吃音問題の一つの方向を示している。
Ⅵ 病気のなかの健康を求めて
吃音問題は、吃音問題の歴史を通して、一つの新しい方向を見い出した。他の分野でも、いわゆる「治す」という前提にメスを入れている。
肺結核軽症患者との体験学習を続けている、大串靖子・上野矗が、吃音問題にとって示唆に富んだ提言を、医・看護の関係者にしている。その一部を部分的に引用しておく。
病気→苦痛→除去→健康というレールが明らかな場合は病人にとっても治療者にとっても比較的迷いがない。しかし苦痛がないような病気、健康であるような病人にとっては、複雑なものがある。病気とは一体何なのか、健康回復とは何なのかという迷いが生じる。(中略)たしかに病気は人の生活にとって多くの場合ありがたくないものであり、生命をも失いかねないできごとである。しかし人に病気はつきものであり、歓迎こそしないが避けるわけにはゆかない。とすれば病気の体験を活かす道があって当然であろう。病気=苦痛=不健康=無意味=排除ではなく、病気=意味のある体験=積極的なかかわり・うけとめの姿勢が必要である。これは患者にとって必要であるばかりでなく、その前に看護者にとって必要な姿勢である。(9)
病気の体験を活かす、すなわち「治す」ことに拘泥せず、「吃音を活かせ」と、提言している。この提言は、吃音者ばかりでなく、「ことばの教室」の教師、吃音の研究者にとっても受けとめられなければならないであろう。
おわりに
吃音者が自分の問題をより正しくとらえ、自分の目標を設定するために、そしてその目標に合わせたプログラムを組むために、今後研究が進められなければならない。「吃音を治す」前提を取り払った吃音者をささえるのは、この方向の研究である。「吃音を治す」ために試みられてきた従来の方法―自律訓練法、心理劇、精神統一法、自己催眠等―は、前提が違っても役立つはずである。他の領域での研究に、学ぶべきものも多い。それらを生かしていけなければ、吃音者はいつかまた、逆もどりをし、歴史はくり返すということになろう。
引用文献
(1)伊藤伸二他:民間矯正所終了者の実態調査、音声言語医学、Vo1.14、No.3、1973年。
(2)森川登他:吃音児の指導や教育相談ケースの追跡調査、岡山市立出石小学校ことばの教室、1973年。
(3)上沼八郎:人物叢書・伊沢修二、吉川弘文館、293、1962年。
(4)信濃教育会:伊沢修二選集、1958。
(5)信濃教育会:伊沢修二選集、855-856、1958年。
(6)同上、857、1958年。
(7)同上、869、1958年。
(8)上沼八郎:人物叢書・伊沢修二、吉川弘文館、302、1962年。
(9)大串靖子、上野矗:看護婦と患者・私とあなたの関係、メヂカルフレンド社、114-115、Vol.19、No.6、1973年。(「スタタリング・ナウ」2008.9.22 NO.169)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/30