吃音臨床家は同行者
今年も残り少なくなりました。時間の経つのが早く、あっという間に1年が過ぎたような気がします。今年も、吃音親子サマーキャンプや親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、各地のキャンプや研修会などで、たくさんの人と出会いました。どもる子どもや保護者だけでなく、ことばの教室の担当者、言語聴覚士にも会いました。直接会い、話をして、今日、紹介する巻頭言のことばどおり「吃音臨床家は同行者」だという思いを強くしました。僕は、オープンダイアローグが大切にする「対等性」について、ずうっと考えてきました。
「スタタリング・ナウ」2008.7.22 NO.167 の巻頭言を紹介します。
吃音臨床家は同行者
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
・対等性を常に自覚すること
・否定から肯定へと向かうもの
・社会適応のための治すではなく、その人の生きる意味と結びつくもの
言語聴覚士養成の専門学校や大学のソーシャルワーク演習などの講義で、対人援助の専門職を目指す人たちに、専門職者とは何かについて、私が常に強調してきたのがこの三つだ。
援助を必要とする人にとって、専門職者は構造的に、役割として指導する立場にある。役割としては確かにそうなのだから、人間としては対等であることを常に強く自覚しないと、指導しなければならないと、ともすれば上から見てしまう。
吃音の臨床家にとっては、ことのほかこの三つを考えることは重要だと私は思う。
専門学校の学生は、「言語聴覚士として、専門家として、専門的知識と技術で吃音を治療し改善してあげたい」と意気込んで私の講義を受ける。学生は、最初は私の講義と、これまでの他の講義との違いにとまどうが、吃音が原因も未解明で、治療法がないと知って、少しずつ、私の考え方に共感してくれるようになる。
専門職者として何ができるか、講義の中で、一緒に考え、話し合う中で、専門家としての立つ自分の位置をそれぞれが考えていく。それでもやはり、「治してあげたい、軽くしてあげたい」と食い下がる学生に、私はいつもこう答えている。
「世界一の吃音臨床家と言われ、たくさんの弟子の研究者や臨床家を育てた、プロ中のプロと言われている、チャールズ・ヴァン・ライパー博士でも治せなかった吃音だ。あなた達に治せないのは当たり前なのだから、治せないと自分を責める必要はない」
吃音は薬や手術などの誰にでも効果的で確実な治療法がない。また、最新の言語訓練と紹介された、「コントロールされた流暢さ」の形成法にしても、「ゆっくり、軽く言う」という、100年以上も前から取り組まれてきて、多くの人に役に立たなかったものなのだ。
もうそろそろ、吃音臨床家は、吃音について専門家として「無力宣言」をした方がいいのではないか。吃音については無力だが、その人が「どう生きるか」については、決して無力ではない。
「たいしたことはできないけれど、その人に誠実にかかわれば、何かが変わる」と、私は人間の変わる力を信じて、どもる子どもや、どもる人に向き合ってきた。吃音そのものは治らなくても、軽くならなくても、その人の行動、吃音についての考え方、どもることから生まれる様々な否定的な感情は、変化していく。すると、吃音にはあまり変化がなくても、吃音と共に生きていくことができる。
そして、自覚的に吃音と共に生きることによって、自己変化力が働き、直接吃音にアプローチしないにもかかわらず、吃音そのものも、多くの場合変化していく。この変化のプロセスに同行するのが、専門家の役割なのだ。
吃音臨床家の対等性とは、その人を尊重するという意味合いだけではない。自分にはたいしたことはできないという「無力宣言」が背景にある。
だから、どもる当事者と相談しながら、一緒に悩み、一緒に考え、迷いながら取り組んでいくものだ。共に学び合うもので、臨床家の一方通行の指導ではない。
今号の、ふたりのことばの教室の、どもる子どもとのつきあいの報告は、私が大切にしていることと、共通することが多くて興味深い。
佐々木和子さんとは、彼女が大阪教育大学に入学してからのつきあいだ。これほどどもる女の子がなぜ、教員養成大学に入学したのか不思議だった。彼女自身も教員になれるとは、微塵も思っていなかったようだ。言語訓練は一切しない彼女が、教員生活の中で、どんどん変わっていった。その彼女がどもる翔君とのつきあいを正直に語っている。
尾谷さんも、自分の耳の障害とMさんとのことを語って下さった。ここに吃音の同行者がいる。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/18