どもりに向き合える自分になりたい―ゆうちゃんを支えた人 2―
どもりに向き合える自分になりたいというゆうちゃんを支えた人、昨日のことばの教室担当者につづいて、今日は、ゆうちゃんのお母さんの文章です。前回も、今回も紹介されている、岡山吃音キャンプは、2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、中止になりました。そして、残念ながら、中心的に取り組んでいたスタッフの定年退職などで、再開されることなく終わりました。僕としても大切にしていた岡山吃音キャンプだったので、とても残念なことですが、仕方がないことですね。岡山吃音キャンプではいろいろな良い出会いがありました。とてもありがたいことでした。
ゆうちゃんを支えた人としましたが、担当者もお母さんも、ゆうちゃんに支えられたともいえます。お互いがお互いを支え、成長していった物語のようでした。しっかりと振り返り、言語化してくださったこと、ありがたいことでした。
我が家とことばの教室
ゆうの母親
4歳の夏の終わり、上の娘の友達のお母さんから、「ことばの教室」の存在を知り相談に行った。その頃の娘は連発が激しく、言っている途中で自分が何を言いたかったのかを忘れてしまうことも度々あったほどだ。しかし、当日、前日までの連発が嘘のように消失し、ちっともどもらない。一体何をしにここへ来たのか?と思う私の気持ちとは裏腹に、娘はことばの教室が妙に気に入ったらしく、帰りの車の中で、「次はいつ来るの?」とうるさかった。しかし、「もう少し、様子をみましょう。気になるようだったらまた連絡して下さい」と言われ、娘はとても残念がっていた。
自宅である教室をしている私は、子どもが帰宅する夕方には生徒達が来る事になり、まだまだ母親に甘えたい年頃の娘達とゆっくり接してやれることが出来ないでいた。唯一、夕食の時間がその日一日の報告タイムとなるのだが、小学校へ通う姉の話を優先している自分に気づき、姉にも了承を得て、この日から、下の娘の話を先に聞く事になった。それは、主人にもお願いした。
主人の仕事の転職などの関係で、私たちの精神状態がいっぱいいっぱいだった夏の終わりに、娘の吃音が出始めた。この頃、私達夫婦は自分達の生活設計のことが精一杯だったのだ。
・子ども達にちゃんと目を向けていただろうか?
・イライラして子ども達に当たらなかったか?
この頃の事を言葉にすると『後悔』の文字しか浮かばない。やり直しが出来るなら、ここへ戻りたい。私のせいでどもり始めたのかもしれない。娘がどもるたび、そんな風に思う自分がいた。
一旦は消失したと思われた吃音は、どもったりどもらなかったりと色々で、やはりもう一度、ことばの教室を訪ねることにした。その頃、我が家に大きな転機が訪れた。夫が家で仕事を始めたからだ。家に帰れば両親がいる。家族4人が夕食を共に出来る。娘と一緒にお風呂に入る。何でもないようなことが、家族の落ち着きを取り戻した。
5歳の春、ことばの教室への通級が始まった。
週に一度、お弁当のない水曜日。みんなより少し早めのお迎えに行って、ことばの教室へ行く。先生方は皆優しく朗らかだ。マンツーマンで一人の子だけを相手にしてもらえる。小学校に通う姉を思った。40人近い生徒を一人の先生が相手にするのに比べここは何て贅沢な空間なんだ。私にも、待ち時間という今までになかった時間が与えられた。本が読める。同室しているお母さん方と話ができる。それに、行き帰りの時間は、下の娘が私を一人占め出来る時間にもなった。
しかし、問題はこれからだ。娘には吃音があるからことばの教室へ行くとは言ってはいない。「発音がちょっとおかしいから行くのよ」と言っていた。この時点では、私自身に治してやりたい強い気持ちがあり、治らないかも?と思わないようにしていたのだ。ここは、私の勉強の場でもあった。
小学入学
小学校に入学し、ことばの教室の先生も、小学校の担当の先生へとバトンタッチされた。毎週の通級は隔週になり、授業に支障が出ない夕方の時間になった。夕方になると私の仕事への支障が出るが、私の開く教室の先生の代わりはいるが、親の代わりはいない。仕事を減らして調整した。
小学生になり、ことばの教室の先生方の配慮から、吃音をオープンに話せる関係になっていた私達家族は、家の中でもよく話題にするようになった。時々壁にぶつかることがある。本読みや計算カード等々、どもる子ならではの悩みだ。その一つ一つを担当の先生に相談しながら解決していく。
私の教室にどもる子が二人来ていた。とてもよくどもる男の子と、お母さんに言われるまで全く気がつかなかった女の子だ。二人ともことばの教室へは通級していない。家庭によって考え方もそれぞれだ。女の子のお母さんとは吃音の話を時々するようになり、「うちの子は、人に聞かれたら、私はこういう話し方なの。癖みたいなものよ」と言っているという。それを娘に話すと、同じように質問してくるお友達に自分のことを話せるようになった。また一つ問題が解決した。
姉の問題
下の娘が安定していると思っている矢先、上の娘の方に問題発生だ。5年生になった娘はしっかりもので、口も達者なのが裏目に出た。高学年の女の子によくある問題なのだが、娘ひとりが孤立してしまった。この一年で、帰宅してから遊びに出たのはたった一度という苦しい年だった。この頃、親子3人でことばの教室へ通っていた。ことばに問題のない姉までがここで癒されていたのだ。
現在中学3年生になる姉は、思春期真っ只中で問題も多々あるようだが、5年生の経験は確実に彼女を強くした。聞き流すことも覚え、言いたいことはしっかり言う。決して流されない。壁にぶつかることで、人間は必ず成長する。何かを得ることが出来る。そう実感する一年だったと思う。
3年生
3年生になり、初めて、「吃音の生徒は経験があるからわかります」と言われる先生が担任になった。色々な場面で発言する機会を与えてくれた。彼女なりに過ごしやすい一学期を終えると同時に、その先生が結婚退職された。二学期を迎えると新しい先生との初顔合わせが待っている。中学年になり、自分自身の吃音が気になりだした娘にとって、担任が代わるストレスは大きかった。自己紹介が苦手になり、発表が出来なくなり、本読みが出来なくなった。家に帰っても、「今日はどもりまくった」と言っては泣き、泣きながら本読みの練習をすることが多々あった。
そして迎えた三学期。娘の吃音を真似て笑う子が出てしまい、娘は教室で号泣した。とっさの先生の判断で、その時その場で、娘の吃音についてクラスのみんなに話をしてくれた。その夜、担任の先生から電話があり、泣きながら謝られた。
「私のせいで傷つけてしまった」と言われ、何も出来ないご自分を責められていた。そこで私は担任の先生にかけた慰めの言葉は本心だが、少し違う。本当は悔しくて泣きたかったのだ。次の日、何もなかったような顔で登校した娘を見て、先生も安心されたと思う。クラスで笑う子もいなくなった。先生への私の言葉も、翌日の娘の笑顔も、私達に出来る精一杯の強がりだったと思う。
4年生
4年生になった娘を待ち受けていたのは、恐怖の自己紹介だ。予想通りうまく言えなかったらしい。ところが、隣の席の男の子に、「少しつまったけどいいじゃん」と、今まで言われた事のない言葉をかけられたのだ。その後も彼は、「すごく緊張してつまったけどまあいいじゃん」など、さりげなく言葉をかけてくれた。うれしさのあまり、それらのことを娘は日記に書いている。そして、それを読まれた担任の先生が、「みんなの前でこれを読んでもいいかな?」と聞いてきた。娘は、みんなに吃音のことを知られる恥ずかしさからか、躊躇していたが、私や姉に、「読んでもらえばいいのに。みんなに知ってもらえるチャンスよ」と言われてその気になった。次の日先生は、黒板に「吃音」と書き、娘のことについて説明をされた。
どんなにどもっても誰も何も言わない。それでも、みんなと同じようにすらすら話せる自分になりたい。いつか治るだろうと信じている娘に、治らないかもしれないと自分で伝えられない私は、夏に行われる吃音キャンプの参加を決めた。
岡山吃音キャンプ
キャンプが始まっての自己紹介。家族単位で誰がマイクを握ってもいいのだが、娘は私に言って欲しいと懇願する。「何のためにこのキャンプに来たの?自分で言わなきゃ意味がないよ」私に諭されて覚悟を決めたのか、番がきたらすっと立って難なくクリアした。と同時に大粒の涙がぼろぼろ溢れ出る。それを見た私までもが泣いてしまった。その後の娘は、憧れの伊藤伸二さんとゲームをしたりと上機嫌だ。この日、伊藤さんは親の私達に、「コンプレックス」についてお話をされた。
「誰しもコンプレックスはある。しかし、コンプレックスがあることで、違う何かをがんばれる」
我が家の二人の娘達はそれぞれ個性があり、それぞれ色々な壁にぶつかってきた。その度に考えさせられ成長してきたように思う。それは親である私自身も同じだ。伊藤さんの言葉が胸に響く。
日帰りのキャンプでの参加だったが、確実に娘は成長した。たくさんのどもる子どもに出会い大人のどもる人にも出会った。治らないかもしれないと思ったのもきっとこの頃だと思う。それからは、治るだろうという言葉を言わなくなった。
5年生
始業式の翌日、娘は「私の吃音のことをみんなに話して下さい」と担任の先生に手紙を託した。「本読みなどはつまりやすいので、みんなで読むようにして下さい」と、変なお願いも書いてある。「ちょっと待ちなさい。これは他の人の学ぶ機会を奪ってしまうことになるからダメ。自分のことだけお願いしなさい」と、つい言ってしまった。娘は、「どうしても言葉が出てこない時は少し助けて下さい」と書き直した。そして、簡単に娘のことが説明されたらしい。自分から先生にお願いできたことに、娘は満足していた。後に聞いた話だが、前年度の担任の先生から、「早い時期にクラスのみんなに話した方がいいよ」とアドバイスを受けられていたらしい。そこへ娘から手紙を託されたものだから、「いつ話そう」と思われていた先生は、「彼女からタイミングをもらいました」と家庭訪問で言われた。娘に関わるたくさんの先生方に感謝せずにはいられない。
2回目の夏の岡山吃音キャンプ
吃音キャンプに、主人が同行してくれることになった。5年生になると、伊藤伸二さんや成人の方達と話が出来る「夜の部」がある。それにどうしても参加したかったのだが、一泊が難しい私に代わり、主人が引き受けてくれた。子どもはとても可愛がるが、学校やことばの教室等々、私任せのことが多い主人にとって、しっかりした意見を述べられるお父様方に驚いていた。娘は、「パパありがとう。来年も行こうね」と言って抱きついていた。
今回のキャンプは娘に大きなプレゼントを残してくれた。帰ってから感想文を書いていたのだが、夜の部での伊藤さんの言葉が娘の心に響いたのは確かなようだ。
「ぼくなんて、60年以上もどもりとつき合っているのだから、あきらめなさい」と言われたらしい。吃音と向き合いなさい。受け入れなさい。というメッセージだと素直に受け止めている。実際、娘の書いた感想文には、それらしきことが書かれ、前向きになれたと書いている。夏休みの宿題に出される作文にも、同じように書いていた。
娘は確実に成長している。それは私達家族も同じだ。壁にぶつかった分だけ強くもなった。そして、「ことばの教室」の存在が私達をどんなに助けてくれているか、言葉で表すのは難しい。我が家にとってことばの教室は、初めは確かに治しに行く所だったが、次第に学ぶ場所になった。そして今はと言えば、癒しの場所だと言っても過言ではない。通級は小学校終了までとなっている。現在中学3年生の姉を見ていると、思春期になってからの下の娘がどうなっていくのか不安なのは確かなことだ。中学生になれば、授業は教科ごとに先生が変わる。今までのように担任の先生に託せばいいというわけにはいかない。他の小学校も一緒になるので、娘のことを知らない子達にまた説明していくのか?また、つらい日々が続くのか?考え出したらきりがない。課題は山積みだ。
子ども達は学校という小さな社会の中に過ごしている。学校で起こったことは、私達親にはほとんどが事後報告だ。親の私達が出ていく前に解決していることがほとんどだ。助けてやりたくても、結局は自分で解決していかなければならない。そのためには「生きる力」が必要なのではないか。
我が家では、子ども達の口から「学校が楽しい」「ご飯がおいしい」この二つの言葉が聞けたら心が元気な証拠だと思うことにしている。「がんばれ」と言うこともある。時には、「がんばらなくていいよ」と言わなければならないこともある。子育てに教科書はない。一つ一つの経験が、私達家族に「生きる力」を与えてくれる。
「吃音は大人になってからより、子どもの頃に受け入れる方が簡単だ」と伊藤さんから伺ったことがある。自らが吃音で苦しんだ人ならではの言葉だが、娘を見ていると、正にその通りだと思う。そして、ことばの教室で学んだことの一つ一つが、将来の娘の「力」になってくれると確信している。
我が家にとっての「ことばの教室」とは、子育ての分岐点に必ず登場してきては助けてくれ、慰めてくれ、癒してくれた。言葉にしきれないほど感謝の気持ちが詰まった場所だ。下の娘に吃音がなければ、ことばの教室の存在すら知ることもなかっただろう。伊藤さんとも、もちろん出会えなかったし、今の我が家の形も違ったものになっていたかもしれないと思う。ことばの教室に通うようになって6年目だ。いつか必ず「卒業」しなくてはならない。吃音を受け入れられた私達親子にとって、本当はいつ卒業できてもいいはずなのに、それがなかなか出来ないでいる。次々入級してこられる新しいお子さん達の対応で、先生方も本当に大変なのは知っている。子どもにとってのことばの教室は文字通りだが、私にとってのことばの教室は、弱音の吐ける場所でもある。それだけに、子どもよりも私が卒業出来ないでいるのかもしれない。
先生方も卒業して欲しいとは言われない。でも、娘が小学校を卒業する頃には、強制的にことばの教室も卒業させられてしまう。ここはもう少し、居座らせていただいて、卒業を延ばして頂くことにしよう。我が家はもう少しお世話になります。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/17