セルフヘルプグループを通してみえてきたこと 2

 昨日のつづきです。
後半、松田さんは、自分の体験を通して、セルフヘルプグループがどのような場であるかについて、①希望を得ることができる場、②言葉を得ることができる場、③弱さをみせることができる場、④変だと思われない場 とまとめています。
 当事者であり、研究者である松田さんの今回の文章を読みながら、セルフヘルプグループの良さを噛みしめています。
 最後に紹介している冊子ですが、僕が中心になって編集し、12のグループの活動の軌跡を収録しました。まだフロッピーディスクの時代で、僕に送られてくるものが、それぞれ違うフロッピーディスクで大変でした。だけど、いろんなグループとの交流ができて楽しい作業でした。
 朝日福祉ガイド『セルフヘルプグループ』(大阪セルフヘルプ支援センター編)の在庫が少しだけあります。ご希望の方は、お申し込みください。送料込みで、700円です。700円分の切手を同封していただければお送りします。送付先は、下記のとおりです。
〒572-0850 寝屋川市打上高塚町1-2-1526 伊藤伸二まで
 では、松田さんの文章の続きです。

セルフヘルプグループを通してみえてきたこと
                  大阪府立大学 人間社会学部 松田博幸

◆「リカバリー」の考え◆
精神的な疾患を持つ人たちのSHGにおいても、けっして治療がおこなわれているわけではない。そのことは、近年精神保健福祉分野において頻繁に使われるようになってきた「リカバリー」(recovery)という言葉がSHGという文脈でどのように用いられているのかをみるとよくわかる。「リカバリー」という言葉は多義的に使われている。治療という文脈においては症状が消失することという意味で用いられるが、SHGという文脈においてはずいぶん違った意味を持ってくる。
 SHGという文脈で「リカバリー」という言葉を用いている代表的な論者が、ダニエル・フィッシャーをはじめとする、アメリカのナショナル・エンパワメント・センター(NEC)の人たちである。フィッシャーらの考えによれば、「リカバリー」というのは人が成長していく魂の(spiritual)過程であり、人がそのような過程をたどることができるかどうかは、その人が生きる社会の状況に左右される。そして、精神疾患をもつ人たちの場合、社会から排除されることによって、「リカバリー」に必要な資源を奪われているとされる。
 ダニエル・フィッシャーとローリー・アハーンによれば、人は、人生において、下記のサイクルを繰り返して発達している。

①バランスがとれ、人とつながっている状態にいる。
②喪失や心的外傷(トラウマ)を体験する。
③感情的苦痛(emotional distress)を持つ。
④人びととのつながりを通してそれを癒す。

しかしながら、充分な、社会的・文化的サポート、資源、スキルがない場合、人は自らの生活をコントロールするのが困難になり、精神病のラベルを貼られる。そして、「リカバリー」が困難になる。そのような状況に置かれた人が「リカバリー」するには、自分が「リカバリー」すると信じること、「リカバリー」すると信じてくれる人と人間関係を持つこと、「リカバリー」のスキルを学ぶこと、社会における価値ある役割を持つこと、が必要であるとされる(「精神病からのリカバリーのエンパワメント・モデル」)。
 また、ダニエル・フィッシャーとジュディ・チェンバレンは、実際に「リカバリー」した人たちに対して、その人たちがどのように「リカバリー」したのかを尋ねるインタビュー調査をおこない、以下のような「リカバリー」の10の原理を見出した。

・原理1 「リカバリー」すると信じてくれる人びとが必要である。
・原理2 人びとがあなたを信じることであなたは自分自身を信じることができるようになる。
・原理3 信頼は「リカバリー」の礎(いしずえ)である。
・原理4 自己決定
・原理5 夢を追いかけることは大切である。
・原理6 愛は必要不可欠である。
・原理7 すべての感情は正当であり、理解可能である。
・原理8 尊敬と尊厳
・原理9 精神の混乱に意味がある。
・原理10 あなたの声をみつけることが「リカバリー」に必要不可欠である。

 そして、フィッシャーらは、これらの原理が実現され、「リカバリー」がうながされるには、SHG(フィッシャーらの言葉ではピア・サポート)が不可欠であるとする。
 人は、社会において排除され、人びととのつながりや社会的役割を持つことができない場合、「リカバリー」が困難な状況に追いやられる。そして、SHGは、そのような状況に置かれた人に対して、「リカバリー」のためのつながりや社会的役割を生み出すといえる。
 先に、人はSHGにおいて“生き方を学ぶ”と述べたが、フィッシャーらの考えを通してみえてくるのは、“生き方を学ぶ”際には一定の資源が必要であり、それらを提供するのがSHGであるということである。

  ◆ WRAP  ◆(「あんじょう暮らし回復するための行動計画」)
また、精神保健福祉分野においてWRAP(Wellness Recovery Action Plan)が急速に注目されるようになってきている。2004年の3月にアメリカでフィッシャーさんらに会ったときに、アメリカの精神障害を持つ人たちのSHGの状況を尋ねたところ、WRAPがSHGの人たちの間で広がっているとの情報を得た。帰国直後、インターネットで検索してみると、たしかにアメリカの精神障害を持つ人たちのSHGにおいてWRAPが受け入れられていることがわかった。ただ、日本国内のホームページを検索したところ、海外で開催されたSHGの大会の発言録を紹介した1つのページがヒットするのみであった。しかし、近年、わが国においてもWRAPに対する関心が急速に高まり、ホームページでの言及も増え、各地で研究会などが開催されるようになってきた。
 WRAPは、自らも精神障害を持つメアリー・コープランドによって開発され、現在はアメリカにあるコープランド・センターによって普及が進められている。筆者はWRAPを「あんじょう暮らし回復するための行動計画」と訳しているが、精神障害を持つ人が自らの病気とうまくつきあい、うまく暮らすためのプログラムである。
 WRAPは、さまざまなテーマ(たとえば、自分の調子を保つためにしていること、自分の調子が悪くなるときのきっかけ、など)に沿って自らのありようを振り返り、気づいたことをノートに記述するというやり方を通して進められる。それは、一見したところ、単なる生活スキル習得のためのプログラムのようにみえる。しかし、WRAPの原理はSHG(ピア・サポート)に深く根ざしている。単なる生活スキル習得のためのプログラムではない。ましてや治療のためのプログラムではない。
 人は苦しい状況を生きのびることを通して知恵や工夫を身につける。そして、本人がそのような知恵や工夫を自覚し、さらにそれらを同じような体験をしてきた仲間とわかちあうこと、これがWRAPの原理である。人がサバイバルを通して獲得した知恵や工夫に対して敬意を払い、それらを仲間と共有すること。もちろん、そのためには、生きのびてきた人の声にきちんと耳を傾け、その人が持つ知恵や工夫に光をあてる過程が不可欠である。どのようにして生きのびていくのか、という問いの答えを仲間とともに求めること、それは治療という行為にはまったくなじまない行為である。

◆私の体験より◆
 最後は、私自身の体験である。私自身がSHGのメンバーとしてSHGに参加することを通して、SHGがどのような場であると感じたのかを述べたい。

・希望を得ることができる場
 あるとき、私は混乱し、不安で押しつぶされていた。そして、感情の面でしんどさを抱える人たちが運営する、あるセルフヘルプグループの集まりに転がり込んだ。それは、参加者が自分のことを語る、そして、話したくないときは話さなくてもよい、集まりであった。出席はまったく強要されず、本名も住んでいるところも職業も明かさなくてかまわないという、AAと同じようなルールで運営されていた。「言いっぱなし、聴きっぱなし」というルールがあり、話されたことに対して批判やコメントを加えないこと、また、話されたことは集まりの外に噂話のような形で持ち出さないことになっていた。
 私が最初に集まりに参加したとき、あるメンバーが自分の体験を語ったのを今も忘れることができない。
 そのメンバーは、あることを目の前にして自分がどういうふうに不安なのかを語った。その人が直面していることと私が直面していることとは違ったが、その人が不安について語る言葉の一つひとつがよくわかるような気がした。
 続いて、その人は、そのような不安を抱えながらも、ある一日をどれだけ楽しく過ごすことができたのかを具体的に語った。私はその語りを聴き、“ここに来れば自分もあの人みたいになれるのかな”と感じた。真っ暗な海に放り出されてもがいているときに、遠くで灯りがともったのがみえたような感じがした。
 その人の語りから私が得たのは希望なのだと思う。希望という言葉は、文脈によっては非常に薄っぺらな意味しか持たない場合があり、慎重に使うべきだと思うが、そのとき私が感じた光のようなものを名付けるとすれば、やはり、希望だと思う。

・言葉を得ることができる場
 私は、その集まりのなかで自分の苦しい体験を語ろうとしたが、しどろもどろになり、ほとんど話せないうちに話を終えた。自分はたしかに体験を持っているのに、それを語ることができないことがとても不思議だった。そのときはなぜなのかわからなかったが、後で振り返れば、その理由の一つは、私が自分の体験を語るための言葉を持っていなかったからではないかと思う。実際、その後、他のメンバーたちの語りを聴くことを通して、自分の体験をどのような言葉でどのように語ればよいのかがわかってきた。言葉にならなかったことを言葉にすることができるようになったし、恥の感覚が生じるような(つまり、スティグマを付与された)言葉を使わずに自分のことを語ることができるようになっていった。

・弱さをみせることができる場
 私が自分の体験を語ることができなかったのには、もう一つ理由があったのではと考える。私は、自分の弱さをみせることが怖かったのだと思う。鎧を脱いでしまうと槍で突き刺されそうな感じがしていたのだと思う。しかし、私は、しばらくその集まりに参加し続けているうちに、その場が安全な場であると感じるようになっていった。メンバーたちは自らの体験談を語っていたが、他の場所で話せば、低くみられ、あるいは弱みに付け込まれ、傷つけられるだろうと思われる話が多く語られていた。私は、そのような場を通して、安心感を得ることができたのだと思う。その場が「言いっぱなし、聴きっぱなし」というルールによって守られているということだけでなく、対等な関係性からくる安心感があったのだと思う。
 また、私にとってその集まりは、感情を自由に表わすことのできる場であった。集まりのなかで大泣きをしたことがあったが、泣きたいだけ泣くことができた。
 このような体験を通して、“人は強くないといけない”というとらわれが私から少しずつ滑り落ちていったように思う。“こんなに弱い自分でも生きていてかまわないのだ”と感じることで自尊感情が高められていったように思う。一所懸命に“強い自分”を目指して、強くなれず、自尊感情を傷つけるのではなく。

・変だと思われない場
 私は、その集まりのなかで、参加の直接のきっかけとなったこと以外の体験も話すようになった。私の場合、子どもの頃から、ある行動をする自分を変だと感じ続けてきた。そして、自分がそのように感じていることを他の人に話すことはなかった。しかし、そういった行動や自分の感情について少しずつ話すようになると、“自分は変だ”という感覚が少しずつ滑り落ちていくのを感じた。

・勇気を得ることができる場
 集まりのなかでは、“初めはとても不安だったけど、勇気を出して~をやってみたら、とても楽しかった”という物語もよく語られた。あるとき、私はあることで一歩を踏み出そうかどうか逡巡していた。しかし、他のメンバーたちのそのような物語を聴いていると、自分も勇気を出せば世界が広がるのではないかと感じた。そして、一歩を踏み出したところ、すてきな体験をすることができ、そのことを集まりのなかで語るようになった。
 しかし、一歩を踏み出して、つらい体験をし、その結果を自分で引き受けないといけない場合もあった。そんなときは、他のメンバーに支えられながら、その体験を引き受けた。

◆おわりに◆
 AAやそのやり方を取り入れたSHGでは、「平安の祈り」(あるいは、「小さな祈り」)と呼ばれる祈りの言葉が受け継がれ、ミーティングの終わりに唱えられている(アメリカでは、最初の「神様お与えください」の部分をとって、それら以外のSHGでも用いられているようである)。神学者のラインホールド・ニーバーの作といわれている。

  神様お与えください。
  自分に変えられないものを受け入れる落ち着き(serenity)を、
  変えられるものは変えていく勇気(courage)を、
  そして2つのものをみわける賢さ(wisdom)を。

 はたして、ここでいうところの「落ち着き」「勇気」「賢さ」を治療という発想から得ることができるのだろうか。
 私はけっして治療という発想がSHGの人たちにとって無用であると言いたいわけではない。たとえば、難病のSHGの人たちにとって、よりよい治療法の確立を求めて運動を展開することや、治療法に関する情報を収集し提供することは人びとの命に関わる、SHGの重要な活動である。しかし、そのことと、SHGの活動の核となる過程が治療という発想とは無縁であること、あるいは、治療という発想がそのような核となる過程を阻害するということとは、まったく次元が異なる。
 治療が自分たちの「ライフ」にとってどのような意味を持つのかを自分たちの体験を通して仲間とともに考えること、それがSHGの核となる過程であり、治療という発想とはまったく異質な過程である。それは人と人との基本的な関係を通して展開される過程である。
 しかし、そのことが忘れ去られ、治療という発想がSHGの核となる過程を支配するとき、SHGは命を失うだろう。おそらく吃音のSHGの場合、そして精神障害のSHGの場合、たえず、このような危機にさらされてきた(そして、いる)のだと思う。治療という発想がSHGの命を脅かすという危機である。治療という発想が人と人との基本的な関係に持ち込まれることで、自己否定や排除が生まれる危険性が生じる。吃音を治そうとすること、精神疾患を治そうとすることと、それらをもつ人たちが基本的な人間関係や社会的役割を取り戻し、その結果として吃音の程度や病気の症状が軽くなることとは、まったく別のことであるが、すぐに混同されてしまう(あるいは、専門職者と呼ばれる人たちによって混同させられてしまう)。「吃音を治す努力の否定」という言葉、あるいは「リカバリー」という発想は、このようなポリティカルなギリギリの状況において治療という発想と闘い、それを相対化する営みから生まれてきたのだと思う。治療という発想を相対化するということは、治療が自分たちにとってどのような意味をもつのかを自分たちの体験を通して自分たちで考えるということにほかならない。そして、それは、人と人とのつながりを通して成り立つ、人びとが社会を生きのびていく上で欠くことのできない大切な営みだと思う。武満さんが示されたように、それは手軽に成り立つような営みではないと思うが。

〈参考・引用文献>
Fisher,Daniel&Laurie Ahern.Personal Assistance in Community Existence:A Recovery Guide,National Empowerment Center,1999.(=齋藤明子・村上満子訳『自分らしく街で暮らす:当事者(わたしたち)のやり方』RAC研究会,2004年)。
Fisher,Daniel&Judi Chamberlin.Personal Assistance in Community Existence:Recovery through Peer Support,National Empowerment Center,1999。
武満徹「吃音宣言:どもりのマニフェスト」『武満徹著作集』第1巻 新潮社 2000年 67-88頁。

 1993年春、大阪セルフヘルプ支援センターが設立された。セルフヘルプグループについて月例会や合宿で議論をし、電話相談やセミナーを開き、冊子をつくった。私はこの活動が楽しかったが、その後とても忙しくなり、電話当番だけでなく、月例会にも行けなくなった。私がとても大切に思っているこの活動をずっと支え、継続して下さっているのが、大阪府立大学(現在:大阪公立大学)の松田博幸さんだ。
 今回、ご自分の体験も織り込みながら、セルフヘルプグループの役割について書いて下さった。
 治療という流れに抗いながら、本来のセルフヘルプグループの意義を追求する私たちへの、心強い援軍だと感謝します。
 大阪セルフヘルプ支援センターの活動から生まれた、冊子と書籍のうち、冊子の在庫が少しあります。ご注文いただければ、送料当方負担でお送りします。

・朝日福祉ガイド『セルフヘルプグループ』…在庫があります。
  大阪セルフヘルプ支援センター編 500円(12のグループの活動の軌跡を収録)
・『知っていますか?セルフヘルプグループ一問一答』
  伊藤伸二・中田智恵海 解放出版社 1050円(セルフヘルプグループについて解説)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/13

Follow me!