第10回ことば文学賞 3
第10回ことば文学賞受賞作品の紹介の続きです。
どもる人が苦手な場面として挙げるひとつ、「電話」をテーマにしたものです。大阪吃音教室でも、「電話とのつき合い方」は定番の講座です。かける前、かけている時、かけた後、この3つに分けて、みんなで話し合っています。
今回、紹介する体験も、何かのヒントになりそうです。
《優秀賞》
電話が得意になるまで
西田逸夫(55歳、団体職員)
横の机の電話が鳴る。急ぎの仕事を中断させられて、少しムッとした気分になる。
2回目の呼び出し音が鳴る。頭の中で、やりかけの仕事を強引にフリーズする。顔を上げ、受話器に向き直る。キーボードとマウスから手を離し、メモ用紙の束を引き寄せる。シャーペンを手にして、深呼吸を一つ。
3回目の呼び出し音で、受話器に手を伸ばす。その頃にはほとんど、さっきまで頭を占領していた仕事のことは忘れている。自然に口角が上がり、顔には笑顔が浮かんでいる。この、「電話モード」の時の自分を、私は結構気に入っている。落ち着いて話していられ、ほとんどどもることがない。そう、私は電話が得意なのだ。
実を言うと私は、しばらく前まで電話が大の苦手だった。
中学3年から高校1年に進む春休み。この短い期間に、私の吃音症状は一気に悪化した。電話のせいでそうなったと、今でも自分で思っている。
もうすっかり忘れてしまった、何かの理由があったのだろう。中学時代に通っていた学習塾の連絡係を、その時の私は引受けた。毎日のように何本も掛かって来る電話を受け、何人もの相手に電話を掛けた。毎回、先ず自分の名を告げるところで難渋し、回を重ねるごとに電話への苦手意識が強まった。「わわわわわ、私は」という連発性の吃音症状がひどくなったのはもちろん、ことばが完全にブロックする難発性の症状が、この時期に初めて出た。
難発性の吃音症状は、その後の1年間ほどで電話以外の場面にも広がり、やがて人との会話の全場面に出るようになった。こうして、高校から大学にかけての時期、私は重い吃音症状に悩まされ続けた。その後、社会人になって経験を積み、話すことの場数を踏むにっれ、私の吃音症状は徐々に和らいだけれど、電話だけはずっと、苦手のままだった。何と言っても、吃音症状悪化の大きなきっかけになった電話を、私は好きになれなかった。
そんな私の苦手意識が改善する最初のきっかけは、今から10年ほど前にやって来た。当時私は、土木設計の会社に勤めていた。その会社の新しい得意先になった社長さんは、独特の電話の使い方をする人だった。
その社長さんは、どんな差し迫った用件の時でも、落ち着いた口調で電話を下さった。若い頃は一時プロの歌手だったという声は、低音が良く響いた。その声で、ゆったりとした口調で話されるので、その社長さんの電話は、とても聞き取りやすかった。
仕事の打合せで面と向かって話す時は、その社長さんも普通の口調だった。と言うより、人一倍滑舌が良い分、むしろ早口に話されることが多いくらいだった。それでも、そんな打合せの最中に電話が掛って来ると、低音でゆったりした口調にサッと切り替えて、受話器に話されるのだった。
この社長さんの電話の使い方に、私は大いに感化された。自分でも電話では、思い切りゆっくり話すように心掛けた。電話が、少し楽になった。それでも、苦手意識はなかなか抜けなかった。大事な用件の電話でも、自分から掛けるのをズルズルと後回しにしていた。その社長さんほど模範的な電話の使い方は、私には身につきそうにないと思っていた。ただ、電話口で普段と口調を変えてゆっくり話すことだけは、私にも実行出来た。
2つ目のきっかけは、6年前に通い始めた大阪吃音教室だった。論理療法を知って、吃音や電話に限らず、人生のあらゆることに対する自分の態度を柔らげることが出来た。竹内敏晴さんのレッスンを何度か受けて、一音一拍の話し方が時々は出来るようになった。2004年度の吃音ショートコースで諸富祥彦さんのワークショップに参加し、常に自分のどこかに「心のスペース」を確保しておくことの大切さを学んだ。吃音教室の常連の仲間には電話が苦手なメンバーが多く、電話の具体的な対処法を何度も一緒に話し合った。
2005年の春、職場の近くで大きな鉄道事故が起こった。阪神地域の広い範囲に住む人達が、被害者やその家族、遺族として、事故に巻き込まれた。職場は阪神大震災の復興ボランティアから出発した団体で、すぐに近隣地域の幾つかの団体と共に、事故被害者支援のネットワークを立ち上げた。私の職場が、その事務局を引受けた。その年の6月から12月まで、私の職場では電話回線のひとつをこのネットワーク専用と決め、事故被害者からの相談受信や、団体間の事務連絡に充てた。
私の職場では、ちょうどその年の春から、ある大型事業を始めることになり、スタッフの大半はそちらに従事していた。ネットワークの事務局を引受けたということは、掛かってくる電話への対応が、ほとんど私一人に任されたということだった。何かほかの作業に取り掛かっている最中でも、一旦その受話器が鳴れば、すべてをなげうって電話に集中することが、私の任務の一部になった。
実際には、我々のネットワークの活動は余り広く知られるには至らず、掛かって来る電話の9割方は、同じネットワークに属する団体スタッフとの打合せや、マスコミによる取材などだった。とは言え、事故の被害者ご本人やご家族からの電話が、いつ掛かって来るか分からなかったし、掛かって来ればその内容は、身の引き締まるようなものだった。それに、ネットワーク団体間の連絡の電話も、話題は悲惨な事故被害に直接間接に関わる内容だった。電話の直前まで携わっていた作業のことはほぼ完全に念頭から消し、と言うより、自分に関わる事情の一切をほぼ完全に念頭から消し、電話の内容をひたすら聴き取る姿勢が、いつの間にか身についた。その受話器を手にした私は、もはや急ぎの仕事に気を取られた私ではなかった。その受話器を手にした私は、もはや電話が苦手で吃音を気にする私ではなかった。
事故被害者支援ネットワークは、当初の予定通りその年の12月で幕を閉じた。年明けから3月の年度末までは目の回る忙しさで、任務を無事に終えたことをじっくり味わう間もないまま、春を迎えた。
その頃、長らく海外に暮らしていた知人が日本に戻って来た。帰国に当たり、私はパソコンの買い換えと設定の相談に乗った。メールと電話での長いやり取りを何度か繰り返した後、帰国後の知人宅でパソコンの配線や設定を手伝った。お礼に誘ってくれた夕食の席で、知人は不思議そうに私に尋ねた。
「西田君、電話ではどもらんようになったのに、普段の会話では相変わらずどもるんやね」
このことばに、私は本当に驚いた。電話口でほとんどどもらずに話せているということを、この知人に指摘されるまで、自分では気付いていなかった。
知人の指摘を受けた翌日から私は、職場で電話を使う時、自分がどんな風に話しているかを観察した。確かに、電話口ですらすら話せていると気付いた。時には長電話で、込み入った話題になるなどして普段の会話口調に戻っていることがあり、そうなれば吃音が出始めることも分かった。そんな時でも、意識して自分を「電話モード」に切り替えると、またすぐに楽に話せるようになった。一方で、面と向かって相手と話すときには、以前と同様よくどもっていることにも、改めて気付いた。
電話を使う時の自分をよく観察すると、相手の話を聞く時、全身が耳になって聴くことに集中できている。電話では、声以外の情報が遮断されるけれど、逆に言えば、電話回線という1本の細い管の向こう側で、電話の相手が懸命に話し、また、聞き耳を立てている。電話が苦手な頃は、声だけしか伝えられないということをひどく不便に感じたけれど、今ではこの不便さが、雑念なく相手に話し掛けるのにちょうど良いくらいに感じられる。
今日も電話が鳴る。忙しい仕事の最中だと、一瞬ムッとすることが今でもある。
しかし、呼吸を整え、「電話モード」で受話器を手にする頃には、掛かってきた電話を大いに歓迎する気分になっている。顔には自然と笑顔が浮かぶ。
電話をしているときには、最近あまりどもらないということも、歓迎する気分の中にはある。しかしそれ以上に、電話回線という1本の管を通してなら、相手と確かにつながっている手応えを感じることができるからである。
〈選者コメント〉
どもる人にとって電話が大きなテーマであることは世界で共通する。イギリスの国会では、どもる人の長距離電話を割り引きすべきだとのどもる人の団体からの要求があり、論議されたほどである。どもる人の多くが数々のエピソードをもっている。作者も電話がきっかけで吃音が悪化したという。
電話が苦手で嫌いだったが、得意先の社長の喋り方、大阪吃音教室や吃音ショートコースでの学習や気づきなどから、電話に対する気持ちが変化していく。JRの鉄道事故で家族を失った人の哀しみの電話をただじっと聞くという経験は、作者に電話の苦手意識を徐々に小さくさせた。その変化が丁寧に詳しく綴られている。今までは電話が苦手だったという書き出しと、今は「電話を通して社会とつながっているという手応えを感じる」というしめくくりの明らかな変化を、共に喜びたい。
そして、この電話での対応は、電話が苦手だという多くのどもる人に多くのヒントを与えることだろう。作者が吃音に悩むきっかけとなった電話が、今では、社会につながっている一本の管となっているという作者の電話にまつわる歴史がおもしろい。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/25