第10回ことば文学賞~重松清さんからのメッセージとともに~

 突然の谷川俊太郎さんの訃報に接し、谷川さんとの思い出を紹介しました。
 今日は、2007年度、第10回ことば文学賞の受賞作品を紹介します。
 どもることについて、ことばについて、どもる自分の生き方について、文章にしてみようという試みが、大阪スタタリングプロジェクト主催の「ことば文学賞」として10回を迎えた年でした。2006年の吃音ショートコースでの特別講演者、作家の重松清さんは、お話の中で何度も僕たちのことば文学賞の作品に触れて下さいました。そこで、第10回ことば文学賞の応募作品集をお送りし、メッセージをいただきました。まず、そのメッセージを紹介します。その後、受賞作品を紹介します。

重松清さんからのメッセージ
 言葉がつっかえるときは、自分の心の扉を自分でノックしているのだと思います。
 その扉を開けよう。ペンをとり、パソコンのキーを叩いてみよう。
 すると、きっと豊かな言葉が流れだす。
 ぼくは、この文集に載ったすべての言葉を、音楽を聴くように読みました。
 哀しさや寂しささえも包み込んでくれる、とても優しいメロディーの言葉ばかりでした。

《最優秀賞》
  一番伝えたいひと
                        藤岡千恵(31歳、保育士)
 私がどもりで悩んでいる事は、家族にさえ秘密だった。
 幼い頃、私がどもると必ず両親に言い直しをさせられて来た事で「私の喋り方はおかしいのかな?」と感じ始めた。
 私がどもれば両親は「もう一回、落ち着いてゆっくり言ってごらん」と言い、私がつっかえないように意識しながらゆっくり言い直すと誉められた。
 小学校の頃は吃音を隠す術を知らなかった。国語の本読みではもちろん、会話でもどもっていた。そんな自分に強いコンプレックスを抱くようになり、言い換えをしたり、どもりそうな言葉だと喋らないという自分なりの隠す術を身に付けていった。
 言い直しをされられていた経験や、授業参観でどもりながら作文を読んだ時に教室が凍り付いたように感じた事などから、幼心に「私がどもるとお父さんもお母さんもガッカリするし、何よりどもる私は愛されないんじゃないか」というような考えが私の中に刷り込まれていった。だから家族と居る時もどもらないように工夫して喋るようになった。
そんな私を見て、いつからか父も母も、私の吃音を真似して笑っていた弟さえも、私の吃音は治ったのだと思っていた。
 私は幼い頃から成人するまで、吃音の事を誰かに話すなんて考えもしなかったし、自分が吃音者だという事はおろか、吃音で悩んでいると知られる事も恐くて仕方が無かった。
 そんな私が、吃音で悩んでいるという事を母に手紙で打ち明けた事があった。
 それは、短大で就職活動をしていた時の事。幼稚園・保育園・乳児院に実習に行き、想像していた以上にどもりが弊害になると思い込んだ私は、就職をする自信を無くし、吃音が治るまでは就職は出来ないかもしれないと思っていた。
 そして、就職活動をしないのなら母に伝えなきゃ、と考え、『今までどもらないように工夫して隠してきた事、実は今もどもりで悩んでいる事、どもるから就職したくない事』などを便せんにびっしり書いた。
 それが、私が生まれて初めて人に向けて自分が吃音者である事を伝えた瞬間だった。
 それを読んで母は泣いた。私はその姿を見て固まってしまった。
 母は私に、ただ一言「今まで辛かったんやね。気づいてあげられなくてごめんね。」と言った。
 その時私は、母に伝えられて良かったとは思わず、私のこの胸の内は母が涙する程に大きな事なのだと捉え、胸が痛くなったのを覚えている。
 私がずっと一人で抱えてきた事のしんどさを母が理解をしてくれて、「気づいてあげられなくてごめんね」と言ってくれた事は嬉しかった。だけど、それ以上に「お母さんをこんな風に泣かせるのなら、これからも絶対にどもらないようにしなきゃ」と歪んだ解釈をしてしまった。
 それからの私は、相変わらずどもりを隠し続けて生きてきた。この大阪吃音教室に来るまでは。
 私が大阪吃音教室の扉を初めて叩いたのは9年ほど前。
 私が22年間心の中に溜め込んできた思いを吐き出すように話し、そんな私を吃音教室の人達は「ようこそ」と温かく迎えてくれた。ただ、その時の自分は「吃音を治したい」という思いが強すぎて、自分の場所はここじゃないと感じていた。そして足が遠のいた。
 それから7年の月日が経ち、再び大阪吃音教室の扉を叩いた。昔と変わらないスタイルにホッとし、私を覚えてくれていた人たちが居る事に喜んだものの、まだ私の中に心の壁があった。
 当時はそんな調子だった私も、今や大阪吃音教室での例会や、教室の仲間達の前では、かなりどもれるようになり、吃音をコントロールしないで話す事がラクだと思っている。
 吃音をコントロールしていた頃、人との間にあった見えない壁も、今は教室ではほとんど無い。
 どもりながら自分らしく豊かに生きる事が出来たら、どれほどラクで、幸せな事だろう、と今は思う。
 どもりを何が何でも頑に隠し、どもりだから自分は不幸だと思っていた私は、もう居ない。
 かと言って、全て受け入れられた訳では無く、吃音教室を一歩出れば、どもらないようにコントロールしている事も多い。
 もしも大阪吃音教室が「どもりを受け入れましょう」という考えを押し付けるような場所だったら、私のどもりに対する気持ちも今とは違っただろう。
 「吃音と上手に付き合って、人生をより楽しく、より豊かに生きよう」と提唱しつつも、受け入れられない気持ちや治したい気持ちも否定しない。そういうスタイルだからこそ、自分の中から自然とどもりやどもる自分に対して、良い意味でのあきらめが湧いてきた。
 私の気持ちが、そんな風に変化した事を今一番伝えたい人がいる。
 それは、十数年前に私の手紙を読んで涙を流した母である。
 涙を流したあの日から、母の心の中にも、私が20年もの間吃音を隠して一人で悩んでいた事が鉛のように重く存在していたかもしれない。
 吃音に対する考えが少しずつ変わってきて、私の心が軽くなったように、母の心もスッキリと軽くさせたかった。
 それに、何より私のこの変化を、母なら手放しで喜んでくれるに違いない。
 しかし母は、私が再び大阪吃音教室に通うようになって3ヶ月ほど経った頃、冬の寒さが残る2月に、病気で急に息を引き取る事となってしまった。だから、生きている母に伝える事はもう出来ない。
 その事が残念でたまらない。
 だけど、今の私は昔のように暗い闇の中に一人ポツンと居るのではない。
 相変わらず吃音で悩み、人間関係で悩み、人生につまずく事もあるけれど、それを分かち合える仲間が居る。
 だから、どうにかこうにかやっていけそうな気がする。
 これからの私の変化を、お母さん、どうか空から見守っていて欲しい。

〈選者コメント〉
 家族にさえ秘密だったという冒頭の、短いがインパクトのある1行に、まずひきつけられる。
 自分で一所懸命吃音をコントロールしているのを周りの人は吃音が治ったものと錯覚する。家族の前でも吃音が治った姿を演じなければならない。それができなくなって、悩みを書いたときの母親の反応によってさらに演じ続けなければならないと思い詰めるあたりは痛々しい。吃音の悩みの深いところでもある。
 難しいことばは使わず、易しいことばで、大阪吃音教室との二度の出会いからの吃音に対する考え方の変化を、そして、そのときそのとき自分が感じたり考えたりしたことを過不足なく伝えている。状況・場面が想像でき、目に浮かんでくる。
 今はいない母親にこれからは見守ってほしいと、しめくくっている。胸をうつ作品である。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/22

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