谷川俊太郎さんの訃報に接して 2

 谷川俊太郎さんが亡くなったということは大きな出来事で、昨日の夕刊、そして今朝の朝刊でも一面のトップに日本を代表する詩人の死を悼む大きな記事が掲載されていました。やさしいことばで、深いことを表現されていたなあと思います。
 あれから、いろいろなことを思い出しました。
 「スタタリング・ナウ」100号記念のメッセージをもらったこと。寝屋川市民会館で、息子の賢作さんと一緒に、詩の朗読と音楽のライブのステージをされて行ったこと。家の近くの星誕堂という小さなホールに谷川さんが来られて、あいさつに行き、音楽と詩を聞く楽しい時間を過ごしたこと。日本吃音臨床研究会の1998年度の年報『谷川俊太郎と竹内敏晴の世界』の制作のため何度か原稿のやりとりをしたこと。その都度、独特のやさしいやわらかい文字のお手紙をいただいたこと。その他、ありがたいおつき合いでした。

 さて、今日は、1998年の吃音ショートコースの2年後、2000年の全国難聴・言語障害教育研究協議会山形大会の記念対談のことです。谷川さんは、「自分から話したいことはない。質問してもらえれば話せると思う」と山形大会の事務局に伝えていて、対談相手の人選に難航していた時に、「伊藤伸二はどうか」と、谷川さんが僕を推薦されたそうです。2年前に吃音ショートコースで出会っているとはいえ、びっくりしました。たくさんのいろんな人と対談をしている谷川さんとの対談、普通なら尻込みしてしまいそうですが、僕は引き受けました。それからが大変で、谷川さんの詩集、散文集などたくさん読みました。読めば読むほど対談が怖くなってきました。そこで、腹をくくりました。小手先のことをしても仕方がない。何も読まなかったことにして、まっさらに伊藤伸二をそのまま出して、話の流れに任せるしかない。対談の最初と最後に話すことだけを決めて、本番に臨みました。
 僕が口火をきったのは、「俊太郎さん、俊太郎という名前は好きですか」でした。当然、谷川さんは予想しなかったその質問に驚かれました。谷川さんの父君である谷川徹三さんは吃音でした。だから、息子の名前をつけるのに、自分の言いやすい名前をつけられたのではないかと思ったからです。そんな話からスタートして、最後は、「鉄腕アトム」の歌を会場にいたみんなで歌いました。「鉄腕アトム」の歌詞の中に、ラララがありますが、あれは、先にメロディがあって、後から谷川さんが歌詞を作っていったそうですが、いいことばがみつからず、ラララになったんだというエピソードも、笑いながら紹介してもらいました。
 お礼の言葉として大会会長が、「大きな講演会でみんなで歌を歌ったのは初めてでしたが、みんなが一つになれたようでとてもよかったです」と話され、僕も無事に大役を終えてほっとしました。全難言全国大会山形大会での「内なることば 外なることば」と題した記念対談は、僕にとって、思い出深い記念すべき対談でした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/19

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