法然の選択と日本の吃音臨床 3
かなり力を入れて書いたと思われる文章の紹介は今日で終わりです。2008年に書いたのですが、今も何も変わっていません。これだけ世の中が変わっているのに、吃音についての僕の向き合い方が変わっていないのは、吃音に関しては医学、科学の進歩をもってしても、何も変わっていないからでしょう。おそらく今後も吃音の原因を含めて、何も解明されないと思います。これからもブレずに、信じる道を歩いていきます。(「スタタリング・ナウ」2008.1.19 NO.161 より)
吃音は自然に変わっていくもの
吃音は、本来自然に変わっていくものだと私は考えている。どもり始めるのもある日突然に起こる。そして、ひどくどもったり、治ったかのような「波」を繰り返す。この波は、何かのきっかけがある時もあるが、多くは自然の変化である。吃音は意図的にコントロールするものではなく、自然な変化に委ねるものだと、私は確信するようになった。医学が自然治癒力や免疫力に注目するように。
「吃音を治す努力の否定」から34年。私は吃音を治したり、ライパーの言うどもり方を学ぶという吃音コントロールの努力は一切しない吃音の取り組みを続けてきた。成人のどもる人のセルフヘルプグループの活動だけでなく、どもる子どもの指導にあたることばの教室の担当者や言語聴覚士など吃音臨床の専門家に対しても、そのように提言をしてきた。小学生から高校生を対象に「吃音親子サマーキャンプ」で18年間、どもる子どもとかかわってきた。どもる人のセルフヘルプグループでも、吃音親子サマーキャンプでも、「吃音を治し、改善する」アプローチを一切していないにもかかわらず多くの子どもや成人に大きな変化が見られた。
吃音の悩みから解放されただけでなく、吃音そのものにも変化が現れてきた。これらの実践の中で、吃音は「治す、改善する」を目指して取り組むものではなく、自然に変化していくものだとの確信を強くもつようになった。それは私自身の吃音の変化に素直につきあってもいえることだった。
学童期の吃音。思春期の吃音。吃音を治そうと必死になった21歳頃の吃音。治すことを諦めた頃の吃音。大阪教育大学の教員として学生に講義や大勢の前で講演をしたときの吃音。それらはどんどん変化していった。43歳の時、第一回吃音問題研究国際大会を開催した頃、私は人前で緊張して話をするときにはほとんどどもらなくなっていた。
しかし、55歳の時、石川県教育センターで、新人教員研修の講義で、「初恋の人」の文章を読んだとき、自分でも驚くほどどもった。どもっていても、どもることが嫌ではない、動揺することもなく、不思議な、おもしろい体験だった。この日を境に、私は再び得意だったはずの緊張する人前でもどもるようになった。この現実に向き合い、私は「吃音は変化する」ものだと確信したのだった。
バリー・ギター著「吃音の基礎と臨床」(学苑社)
詳しくは原著をお読みいただくとして、私の臨床との違いを明らかにするために、流暢性促進のスキルについてのみ引用する。「臨床家は、常にどもる子どもの流暢な発話を増加させるための努力をしなければならない」と、学童期・思春期の子どもの吃音緩和法と流暢性形成法が紹介されている。
■筆者の臨床アプローチは、吃音に対する否定的な感情を軽減させるために吃音を探究することから始め、その後、弾力的な発話速度、軟起声、構音器官の軽い接触、固有受容感覚といった、流暢性スキルを促進させつつ、一方で吃音を上手に扱うためのスキルを教えるものである。また年少の子どもには、自分の吃音についてオープンに話し合うことで、吃音に対する恐れや回避を軽減させる練習をし、その一方で、流暢性阻害要因への過敏性を減少させたり、いじめやからかいにうまく対処したりするスキルも学習させる。(P.367)
流暢性促進スキル
・弾力的な発話速度(Flexible Rate)
単語の発話速度、中でも第一音節発話速度を下げる。発話速度を下げると言語企図や発話運動の遂行に、より多くの時間をかけることができるため、吃音を効果的に軽減できる。どもると予期する音節の発話速度のみを下げるため「弾力的な発話速度」と呼ぶ。臨床家が手本を示した後、子どもにその単語を「弾力的な発話速度」で発音させ、目標に近づいたらその発音を強化し、すべての音を練習させる。
・軟起声(Easy Onsets)
楽に柔らかく声を出す。まず声帯をゆっくりと振動させて声を出すと、どもることなく滑らかに発声を続けられる。軟起声の教え方は、まず臨床家が様々な音を使いながら目標となる行動やスキルの手本を提示して子どもに軟起声のまねをさせる。
・構音器官の軽い接触(Light Contacts)
構音器官の強い接触は吃音を引き起こす。ある音韻でどもりそうだと予期したとき、その音韻を含む単語を言う前に、あらかじめ自分の構音器官を所定の位置に調節したり、どもったときのことをイメージしながら練習したりする。構音器官を軽く接触させて子音を発音する。構音器官の力を抜き、呼気あるいは声の流れを途切れさせずに子音を発声する手本を子どもに示す。
・固有受容感覚(Proprioception)
口唇、顎、舌の筋肉の筋紡錘に存在する機械受容器から送られる感覚フィードバックは、発話時の筋肉の動きを調整する重要な役割を果たす。固有受容感覚からのフィードバックに留意させる。
構音器官からの感覚情報に意識的に注意を向けることを促進させると考えられる。子どもが固有受容感覚のスキルを正確に使えることが確認できたら、弾力的な発話速度や軟起声、構音器官の軽い接触のスキルと組み合わせる。このスキルの組み合わせを「スーパーフルーエンシー」と呼ぶ。
吃音を流暢な発話に置き換えるスキルを身につけた子どもは発話に対する自信を得、吃音の予期を流暢な発話の予期に変えるようにもなるだろう。このような子どもは吃音を予期したとしても、もはや構音器官を所定の位置に固定したり、吃音を生じさせる要因になる予期不安によって過度に緊張したりすることはなくなっているだろう。
吃音の悩み最前線
私は今、吃音に悩む人の最前線にいる。私の開設している吃音ホッラインには毎日2~3件の相談が寄せられる。手紙や、インターネットからのメールでの相談も少なくない。多くの人は、いい加減なちょっと参考までにという相談ではない。
子どもがどもり始めてまだ10日も経っていない場合や、そのうち治ると信じて、「その内に治るよ」と言ってきたが、小学3年生になっても治らず「この話し方が嫌だから治して欲しい」という子にどう向き合えばいいかなど、どもる子どもの親からの相談が多いが、どもる人からの相談も少なくない。
卒業する生徒の名前が言えないと悩む卒業式を控えた教師や、職場の電話が恐くなって辞職しようと思っているという事務職の女性。苦手な音のある名前を言えるようになりたい、電話の恐怖から解放されたい。「できれば吃音を治したい、どもらないようになりたい」という相談だ。
そのような相談に毎日向き合う私に何ができるだろう。まずは、本人が知りたい吃音についての情報の事実を伝え、個別の相談への対処を具体的に一緒に考える。卒業式で子どもの名前が言えない、電話の応対に困るなどの場合は、「どもらずに話す方法」を求めている。私が経験した吃音治療法は熟知している。また、アメリカの提案する治療法も知っている。しかし、2週間後に控えた卒業式のために、「どもると思うことばをゆっくりと話しなさい」「軟起声といいますが、やわらかく、軽く言い始めなさい」「声を出すとき発語器官を軽く接触させて」「自分が声を出すときの感覚に注意を払って」などという、スーパーフルーエンシーと言われるものを、相手に伝えてどんな意味があるだろうか。かつて私が民間矯正所で教えられたのとほとんど変わらない吃音コントロール方法を教えても、ほとんど役に立たないだろう。私たちがさんざん試みて失敗してきた方法でもあるからだ。
それよりも、「卒業式というせっかくのチャンスだ、自然に任せてどもるときはどもるに任せ、どうしても言えないときのために、生徒や同僚の教師や校長と作戦を立てればどうですか。いつまでも、隠し、逃げていられませんよ」と言うしかない。
中には、吃音をコントロールできる人はいるだろうが、私を含め、ほとんどの人たちが失敗してきた吃音コントロールの方法を教えることは、私にはできないのだ。ただ、その不安や辛さに耳を傾け、「どもっても仕方がない。あなたはどもるんだから」とごく当たり前のことを言い、「やってみれば」と背中を押すしかない。
吃音緩和・流暢性形成の方法には100年ほどの歴史がある。その方法を知っていても、上手く使えないのが現実なのだ。その方法がいいと信じて努力し、吃音をコントロールできる人はそれでいいのだろうが、私自身ができなかったことを人に勧めることは私にはできないのだ。
「吃音を治す努力の否定」の理論的根拠
三つの事実
1 確実に治る、改善できる治療法はない。
2 治っていない人は多い。
3 吃音の悩み、受ける影響には個人差がある。
日本はアメリカと違って信頼できる、大学で臨床する吃音臨床家はきわめて少ない。ほとんどの日本のどもる人はアメリカ言語病理学の恩恵を受けていない。では、アメリカ人に比べて日本のどもる人が吃音に悩み、困難な状態にあるかと言えば、必ずしもそうではないだろう。日米比較はできないものの、世界大会などで世界のどもる人々と出会う限り差がない。ということは、言語病理学をもとにした吃音セラピーを受けなくても、日本のどもる人たちは、自分なりの対処法をみつけ、悩んだ時期はあったものの、自分なりの豊かな人生を送っているということになる。
私が「治す努力の否定」を提起した時、後押しとなったことがある。
1 私とセルフヘルプグループの仲間の変容
私自身が不安や恐れをもちながらも、日常生活を大切に生きる中で、どんどん変わっていった。吃音にあまり悩まなくなり、自分なりの人生を送るようになった。私だけでなく、セルフヘルプグループに集まった人の多くがそうだった。
2 一人の青年の実践
私が大阪教育大学の言語障害研究室に勤務していた時代、いわゆる重度な吃音で、舌を出す随伴症状のあった消極的な一人のどもる青年の吃音に、6か月取り組んだ。治す努力を一切しないで、「ただ、日常生活を丁寧に生きる」ことだけをこころがけ、彼の話すことから逃げる行動に焦点をあてて取り組んだ。その結果職場での生活態度が変わった。
目指したわけではないが、しばらくして、舌が出なくなり、吃音も軽くなった。この経験から、私の考えは、誰にでも通用するものだと確信した。
3 全国巡回吃音相談会
全国35都道府県38会場で相談会を開いて、3か月集中的に多くのどもる人に出会った。その時、吃音に悩む人だけでなく、どもりながら豊かに自分らしく生きている人とたくさん出会った。自分の経験からも、どもっていれば吃音に困り、悩んでいるはずだと思っていた先入観が崩された。
ほとんど吃音が目立たないのに、非常に悩んでいる人。かなりどもっているのに、平気で生きている人。吃音の苦労や悩みは、吃音の症状とは正比例しないことも実態調査で知った。吃音のコントロールができなくても、自分の人生を生きることはできる。いつまでも、流暢に話すこと、どもらず吃音をコントロールすることにこだわるより、吃音と共に生きる覚悟を決めた方がいい。そして、「治す努力の否定」を提案したのだった。
その後、34年間の取り組みの中でも、吃音のコントロールをしなくても多くの人がどもっていても、日常生活に支障なく生活ができるようになっていった。そして、自然に吃音そのものも変わっていった。吃音にあまり悩まなくなり、話すことから逃げなくなり、充実して生きる人に、吃音のコントロールは必要がないだろう。
終わりに~日本のことばの教室の実践のすばらしさ~
法然の「聖道門・難行」と「浄土門・易業」にあやかって、吃音コントロールがいかに難しいものであるかを明らかにしたかったために、日本のことばの教室の素晴らしい実践について触れなかった。近年、日本のことばの教室は、「吃音の治療・改善」の難しさに目を向け、治すことにこだわらない実践をしている所も少なくない。
治すことよりもどもる子どもの自己肯定に注目する研究も出てきた。私の知る限り、子どもの吃音の学習や、表現力を高める実践など、日本の実践はすばらしいと私は考えている。
アメリカの方法が紹介されることで、やはりことばの教室では、スーパーフルーエンシーの指導ができなければダメな臨床家だと思わないで欲しい。せっかくのいい実践から吃音コントロールに向かわないで欲しいと願うばかりだ。
長年の吃音研究を誠実に続けてこられた、水町俊郎愛媛大学教授との共著で、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)を出版した。吃音コントロールとは違う実践をまとめた実践集もあわせてお読みいただきたい。
・『吃音と向き合う、吃る子どもへの支援~ことばの教室の実践集』(日本吃音臨床研究会発行)
(了)
※この冊子は完売となりましたが、日本吃音臨床研究会のホームページに全文掲載しています。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/17