法然の選択と日本の吃音臨床

 畏れ多いと思いながら、法然上人に登場していただき、アメリカ言語病理学と僕の主張する吃音へのアプローチを、「聖同門・難行」と「浄土門・易行」として、書いた巻頭言を紹介します。この巻頭言は、明日から紹介することになる文章のプロローグにあたるもので、力を尽くし、心を尽くして書いたものだということが分かります。毎回毎号、せいいっぱい書いていますが、この号は特別で、「吃音を治す努力の否定」を出したとき以上の、僕自身の覚悟が表れています。「スタタリング・ナウ」2008.1.19 NO.161 より紹介します。

  法然の選択と日本の吃音臨床
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 法然の『選択本願念仏集』などを読み、アメリカで発展してきた言語病理学と、私の主張する「治す努力の否定」との違いを整理した。宗教に門外漢の私が、法然を、強引に都合良く引用するため、間違った解釈もあるだろう。法然上人には畏れ多いことだが、素人に免じてお許しいただきたい。
 法然は、護国鎮守のための旧仏教を否定し、民衆の誰でもが救われる仏教を打ち立てた。法然は、学問、修行、功徳を積むことで救われるという「聖道門」を捨て、「ただ信じて、念仏を称えさえすればいい」とする「浄土門」を選択した。
 煩悩の多い、修行や功徳を積めない乱世に生きる当時の一般大衆には「聖道門」は難行であり、誰でもが救われるに道として、易行(易しい道)でなければならないというのである。煩悩の多い凡夫であると自覚し、その自分でも救われると信じて、念仏を称えよと言う。さらに、修行などは雑業だとして一切せず、正業である念仏だけを勧めた。当然、旧仏教の人たちから激しい反発や批判を受け、島流しなどの迫害も受けている。しかし、法然はひるむことなく、主張し続けた。

 吃音については、薬や手術などの本人の努力とは関係ない根本的な治療法はなく、本人が取り組む言語訓練しかない。私も、「どもりは必ず治る」として、吃音コントロール法を教えられた。
 アメリカでは、吃音コントロールについて、二つの流派が長年対立し、激しく論争をした。「どもらずに流暢に話す派」と「流暢にどもる派」だ。そして、近年統合的なアプローチが提案された。
 1930年代、アメリカのアイオワ大学を中心に吃音臨床研究が集中的に行われた。当時の、ウェンデル・ジョンソンやチャールズ・ヴァン・ライパ一は現在でも大きな影響を与えている。
 1974年、私はこの流れをくむ吃音臨床に一つの選択肢を提起した。「流暢に話す」も「流暢にどもる」努力も一切やめようと「吃音を治す努力の否定」を提案した。それから、34年間、私はセルフヘルプグループや吃音親子サマーキャンプなどで、「治すことにこだわらない」吃音とのつきあい方を実践してきた。多くの人が吃音の悩みから解放され、自分らしく生きている結果において、アメリカの言語病理学に決してひけをとらないと思う。
 昨年の第8回クロアチア世界大会、また昨年秋翻訳出版されたギター著『吃音の基礎と臨床』(学苑社)のおかげで、ありがたいことに現在の世界の吃音の臨床について詳しく知り、整理することができた。
 1974年は呼びかけだったが、今回は34年の実績の報告をもとにした、再度の提起だ。アメリカ言語病理学一辺倒の日本の吃音臨床に、他の選択肢があった方がいいと思うからだ。アメリカ言語病理学に対して、東洋思想からの選択肢の提示である。
 ひとつの選択肢であっても、誰もができる易しい方法であり、自分が実際に経験し本当によかったもの、多くの人が実践して役に立ち、臨床家が指導しやすいものでなければならない。選択肢は違いを鮮明にした方が分かりやすい。遠慮せず、正直に提起したい。人によっては過激な主張だと思われるだろうが、読む人が、自分にとって役に立つ方を自ら選択して下さることだろう。
 アメリカの提案する、吃音のコントロールは一部の人にはできても、誰にでもできることではない。どもる人の多くが失敗し、よく似た方法の日本の民間吃音矯正所が衰退した。また、臨床家が簡単に教えられないことはアメリカのセラピストの多くが吃音臨床を苦手としていることでも明らかである。法然の言う「聖道門」だと私は思う。
 「どもる事実を認め、自分や他者を大切に、ただ、日常生活を丁寧に生きる」
 これは難しいように見えて、自分の人生を大切に考える人なら、吃音をコントロールする努力を続けるよりも、はるかに易しい道だ。それは、多くの人の体験を通して私は言い切ることができる。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/14

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