第26回島根スタタリングフォーラム 1日目の夜 ことばの教室担当者との交流会
1.幼児担当:子どもと、どう吃音について対話をすればいいか
「今回、親子と一緒に参加したが、事前に何も話さず、吃音のこともこのフォーラムのことも何も話さず、後で話そうということにした。でも、どんなふうに子どもと吃音について話そうかと思っている」
子どもは子どもではありません。人格をもった一人の人間として向き合って欲しい。フランスのドキュメンタリー映画「小さな哲学者たち」では、幼稚園の子が友情とは? 死とは? 親子とは? などについて、楽しそうに話しています。ファシリテーターの幼稚園の教諭と円陣を組んで、大人でも難しいと思われるテーマについても話しています。日本でも、こども哲学の対話を取り入れている幼稚園があります。子ども扱いしないで、単刀直入に吃音について話してほしい。「あなたの話し方は、吃音、どもりという名前があって、長い間研究してきたけれど、原因も治す方法も分からないんだよ」などと話せばいいです。そうして、子どもと話すときに、してはいけない問いかけがあると僕は思っていますが、皆さんはどんなことだと思いますか。
それは、「何か、困っていることは、ない?」です。
なぜ悪いのか。この問いかけは、この子は困っている存在だと決めつけているからです。子どもを弱い立場に落とし込んで、困っている子どもと、それを助ける先生という立場を作ってしまっています。役割として、幼稚園児と先生というのはあるけれど、人としては対等です。構造的には役割があるので、常に対等であるということを意識しておかないといけません。このことに注意していれば、どんなことを聞いても、どんな話をしても、大丈夫。自由に、率直に、正直に何でも話していいと思います。
2.幼児担当:吃音に悩んできた保護者が吃音を認めにくい
「母親もどもるという女の子を担当している。子ども自身はどもりながら明るく楽しく生活しているが、母親は、自分自身の経験から、我が子に同じような思いをさせたくないと強く思い、まだ子どもに吃音について話題にしてほしくないと思っている。これからどうすればいいか」
母親とまず話すことです。自分自身のつらい過去があるから、吃音を簡単には受け入れられないのだと思います。でも、親と子どもとは別人格です。母親が死にたいと思うほど悩んできたのは事実でしょう。でも、この子が母親と同じ道を歩むとは限りません。そう思う母親の根本的な考え方は何かと尋ねてみましょう。もし、どもることを「悪い、劣った」ものとする考え方があるなら、その呪いを、我が子にかけるつもりですか? と迫るのです。卒園するまでに、母親と話をするタイミングをみつけてほしいです。佐々木和子さんという島根県で教員をしていた人がいます。彼女も、自分のどもりは認めることができ、幸せに生きているけれども、我が子がどもり始めた時、子どものどもりは認められませんでした。このフォーラムに参加して、親が子どもの吃音をかわいそうだと話しているのを聞き、対話を続けてく中で、彼女は、私は私、息子は息子だと気がつきました。そして、「今は、ぞうさんの気持ち」という文章を書きました。販売している本の中に、体験集がありますので、ぜひ読んでください。
3.支援学級担当:過度な配慮を求めてくる親
「保護者が、環境を整えてほしい、負荷をかけないでほしい、支援を手厚くしてほしいと言ってくる。学校も、合理的配慮に関しては敏感になっていて、できることはしていこうという姿勢だけど、それでいいのか」
親の要望どおりに動いていたら、担当者として、教育のプロとは言えません。小学校という比較的安全な場で、失敗し、恥をかき、そこから回復していく経験をしてほしいと僕は考えています。親としっかり対話をして、「小学校では配慮ができても、この先、どこまで周りが配慮できるかは分からない。配慮がなくても、自分の力で生き抜く子どもに育ってほしい」と話しましょう。そのために、非認知能力やその子どもの強みを育てていくことが大切だと思います。人生は実験の連続だと思います。実験だと考え、挑戦している人をたくさん見てきました。吃音を認めるところから出発し、傷ついたり嫌な経験もしながら、それでも立ち直り、自分の人生を変えていく人たちを見てきました。どもりは、治る・治らないの問題ではないと確信しています。
4.今年初めて担当:吃音の話をどうしていったらいいか
「母にも吃音があり、子どもがいじめられないか心配している。そういう話はするが、吃音の話をしたことがない。そのような親子に、吃音の話をどうしていくのか、どう切り込んでいったらいいのか、悩んでいる」
さっきの話と矛盾するかもしれないけれど、切り込むということばに、担当者自身の肩に力が入っているのを感じます。話さなければならないということははありません。話すチャンスが訪れたときに、話せるよう、準備しておくことは大事です。例えば、「学習・どもりカルタ」を一緒にやってみるなどして、吃音について語るときの助けにしてもいいでしょう。自分の力で語り切れないときは、教材の助けを借りることはいいことです。僕の著書の『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版社)を、子どもと一緒に、読んでいることばの教室がありますよ。
5.参加2回目の担当者:面談に来ない保護者
「昨年、吃音フォーラムに参加して、保護者がどんな気持ちでいるのか、分かりました。親と話をしたいけれど、担当している子の親が面談に来ない。面談を拒否されて、まだ一度も話していない。父親は行きますと約束するのだけれど、母親は断ってくる。これはどういうことなのだろうか」
会って話ができないというのは、つらいですね。最大限、できることをしてみて、それでもダメなら、私の手には負えないと思うのもアリだと思います。ゲシュタルトセラピーの訓練の最終日に、卒業証書のような形で英文の小さな詩をもらいました。こんな詩です。
私は私のことをする
あなたはあなたのことをする
私は何もあなたに気に入られるために
この世に生きているわけじゃない
そして、あなたも私に気に入られるために
この世にいるわけじゃない
あなたはあなた 私は私
もし、私たちがお互いに出会うなら
そりぁ、素晴らしいことだ
もし出会えなかったら、
そりぁ、仕方のないことさ
出会えなかったと考えることも必要でしょう。そのほか、論理療法も役立ちました。自分自身を守ることも大切です。
6.10年目の担当者:吃音は治らないと伝えられない
「小学生に「吃音は治らない」と伝えることは、正直厳しい。伊藤さんという人が「治らない」と言っているという言い方をするんだけど、子どもの中には、「それは、その人の一つの論でしょ」と言われてしまう。で、私は、治らないとは言わず、流暢にどもる方法に取り組んでいる」
なぜ、治らないと伝えることが厳しいのでしょう。なぜ、そう思うのですか?
ショックを受けると思うからです。
ショックを受けることは悪いことですか。このことを伝えると、子どもは弱いから受け止めきれないだろうと思うのかもしれないけれど、事実は事実として知り得た事実は伝えるべきだろうと思います。それをどう受け止めるかは、子どもや保護者の課題です。小学生であっても、伝えるべきだと思います。今こそ、「生きる」ということについて、子どもと話すチャンスだと思います。ロシアのウクライナへの侵攻、コロナによるパンデミックなど、子どもの身近なところで、今の幸せな生活の土台がいつ崩れるか分からないということを、世界中で大人も子どもも経験しました。とても不安定な時代を生きていることは、子どもにも分かります。こんな時代だからこそ、「生きる」ことについて、真剣に話すときだと思うのです。
また、あなたは、「流暢にどもる方法」とおっしゃっいました。そのことができれば、どもる人の問題は解決したと同じです。アメリカ言語病理学のスピーチセラピストも指導できずに、吃音に強い苦手意識をもっています。吃音の世界大会でたくさんの人に出会いましたが、「流暢にどもる」ことが出来ている人はいませんでした。それほど難しいことなんです。ことばは、他人が操作できるものではありません。「流暢にどもる」も、子ども自身が自分で自然に身につけるものです。「ゆっくり、そっと、やわらかく」の言語訓練をして、子どもが納得する成果をあなたは上げているのですか。それができていなくても当たり前です。
どもりながら、生活の中でどんどん話していくことで、自然に変わっていきますから、心配しないでいいですよ。僕たちは、安易に、ことばをさわってはいけないと思っています。
予定の時間をオーバーして2時間ほど話し合いは続きました。担当になってまだ日が浅い人が多く、素朴な率直な質問をしてくださいました。どもる子どもや保護者と真摯に向き合おうと、日々、苦戦し、がんばっておられることが伝わってきます。そのヒントを掴もうと、このフォーラムに参加してくださったのでしょう。ありがたいことです。
僕は、自分の体験を基に、振り返り、出会った多くのどもる子どもやどもる人の体験と照らし合わせて普遍的なものとして、今後も、話していきたいます。
こうして、フォーラム1日目が過ぎていきました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/10/27
