吃音受容から吃音サバイバルへ

 こうして、昔の「スタタリング・ナウ」を紹介していると、根底に流れるものは全く変わらず、微動だにしないのですが、日常的に使うことばや言い回し、伝え方には微妙な変化があることに気づかされます。以前は、「吃音者」ということばを使っていたのに、今は使わなく、使えなくなっていることも、そのひとつです。今は、「どもる人」ということばを使います。この変化をたどることも、おもしろいものです。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2007.7.28 NO.155 の巻頭言を紹介します。

吃音受容から吃音サバイバルへ
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 かつて抵抗なく使っていたことばが最近使えなくなっている。「吃音を受け入れる」がそのひとつだ。話の流れの中で、「吃音受容」ということばを使わなくても、聞く人にとっては私が「吃音受容」を勧めていると受け取られるのだろう。すると、私は吃音を受け入れられないと、自分を責める人が現れる。強い劣等感をもち、マイナスのものと意識したことを簡単に受け入れられるものではない。受け入れられない自分を受け入れようと言ったり、戦略的に、とりあえず、大江健三郎さんの言う「仮の受容」をしてみようと提案したりもした。
 このようなことを何度も経験して、また、「障害の受容」を周りの人が簡単に言うのを見聞きするにつれ、いつしか私は「吃音受容」「吃音を受け入れよう」とは言わなくなった。
 吃音を受け入れられないと言う人も、「どもる事実は認める」と言う。それだけで十分だと思う。セルフヘルプグループに参加する人は、どもる事実を認めたから参加したのだ。ここが出発点だと思う。
 21歳の夏。民間吃音矯正所、東京正生学院の門を前にして私は立ちすくんだ。あれだけ来たかったのに、入れない。この門をくぐることは、自分の吃音を、どもる事実を認めることになる。吃音に深く悩んでいながらどもる事実を認めたくなかったのだ。1時間以上も吃音矯正所の周りをぐるぐる廻っていたことを思い出す。とても不思議な感覚だった。意を決して門をくぐった時が、私がどもる事実を認め、吃音と向き合った瞬間だったろう。
 この「どもる事実を認める」ことを、私はゼロの地点に立つと表現するようになった。
 親交のあった世界的なミュージシャン、スキャットマン・ジョンは、大きな象(吃音)を連れて歩いているにもかかわらず、象の存在を認めなかった。CD制作の話があったとき、CDがヒットしたらインタビューなどを受けると象の存在が明らかになる。そのことへの不安と恐怖でCD制作を断念するところまで追い込まれる。ジョンは苦悩の中で、ジャケットで吃音を公表し、ゼロの地点に立った。52歳の時だった。
 アメリカの言語病理学の第一人者、チャールズ・ヴァンライパー博士は、30歳の時、聾者を装って農場に就職する。農場主と家族にからかわれ農場を去る道で老人と出会う。力を入れて激しくどもる彼を、どうしてそんなに力を入れてどもるのかと老人は笑い、自分もどもるがもっと気楽にどもってはどうかと指摘された。吃音が治った日を夢見るより、どもる事実を認め楽にどもろうと決意する。ライパー博士が吃音と初めて向き合った瞬間だった。
 どもる事実を認めることは、このように簡単なことではないのだが、追いつめられ、どうしようもなくなってどもる事実を認めざるを得ない場合や、ライパー博士が出会った老人のように、人との出会いによって、ゼロの地点に立つことがある。
 私はここ数年、言語聴覚士の専門学校の講義などの中で、サバイバルということばをよく使うらしい。学生のレポートにこのことばが多く見られるようになって自覚した。意識しないで私は吃音受容でなく吃音サバイバルを使っていたのだ。
 クロアチアの第8回世界大会の前、国際吃音連盟は、動議21、22で、どもる人たちがしていることばの言い換えや回りくどい言い方を隠された吃音だとし、吃音の問題だと指摘した。私はどもりたくないという意識はないが、言いにくいことばを別のことばに言い換えたり、言いにくいことばの前に言いやすいことばをつけたり、時に言わなかったりする。無意識のうちに、瞬間的にしていることも多く、そのことに罪悪感はない。それを隠された吃音として、治療の対象とされたら、どもる私たちは表現できなくなってしまう。
 ことばの言い換えをしようと、随伴運動をしようと、自分の言いたいこと、言わなければならないことはどもりながらも言っていく。しなやかに、ある意味のしたたかさで生き延びていく。私はこれを吃音サバイバルと言うことにした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/10/02

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