いのちが激しく動く~竹内敏晴さんのレッスンをめぐって~ 2

 一昨日の続きです。この座談会の詳細は、『竹内レッスン』(春風社)に載っていす。お読み下さい。
 「ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ」、この竹内さんのことば、忘れられません。どもる人がどもりながら伝えるときは、いのちが激しく動いているときなのです。

伊藤 僕たちは「吃音とともに生きる」と、吃音を治そうとはしていなかったから、竹内さんに吃音を治してもらおう、少しでも軽くしてもらおうという発想は僕たちには全然ありませんでした。
 ただ、竹内さんに来ていただいたときは、少しずつことばに目覚め始めてきていたときでした。吃音の不安をもちながらおそるおそることばを出すというのは、相手に伝えたいというよりも、どもることばを相手に伝えたくない、つまりしゃべりたくないというのと同じです。そこを突破していくには、従来の吃音矯正ではとても間に合わないと思ったのです。
 どもらずに話そうとすると、しゃべらないことに行きつかざるを得ません。どもってもいいという前提があるからこそ、ことばが出ていくんです。どもってもいいけれど、力のあることばを出したい、ことばを豊かにしたい。相手に向かっていこうとするその結果として、ことばが出やすくなったということは、いっぱいあります。

竹内 言いにくいのは苦しいものね。とにかく少しでも言いやすくなったほうがいいですよね。ただ、言いやすい、というのはペラペラしゃべるということではありません。自分の中の気持ちがまっすぐことばになっていく、その筋道をつけるということですよね。
 レッスンに今年のはじめから来るようになった人がいます。その人と呼びかけのレッスンをやってみたら、いきなり相手に「来て下さい」と怒鳴るんです。それでは、相手の頭を声でひっぱたくようなもので、それは呼びかけることではない。その人の頭の中には、一所懸命声を届けなければいけないという思いがあるのでしょう。だから、ともかく急いで届けようとする。しかし、そうやっても声は届きません。ことばとは人と人との関係なのであって、声を届けようと一人でがんばった瞬間、相手との間のつながりは切れてしまうんです。その人、ずいぶん考え込んでしまいました。「なにかフッと内側から出たらしゃべれ」と言ったら困っちゃって、でもちっちゃな声で「来て」と言いました。その途端に相手の人がぱっと振り返った。呼びかけるということは、人が人に働きかけることであって、声を屈けることとは全然違います。そこを誤解して、必死にことばをぶつけようとするのは相手を叩き出すことであって、呼ぶことではありません。次に会ったときの彼、しゃべり方が変わっていました。

伊藤 僕たちが継続して竹内さんに大阪に来てもらった一番の理由は、よろこびです。

東野 僕らは、メルロ=ポンティの言う「情報伝達としてのことば」を使って、滑らかに流暢に話をしようと、そればかり追いかけてきました。でもうまくいかない。ところが竹内レッスンで、歌を歌ったり芝居をしたりする中で、もう一つ「表現としてのことば」があることを知りました。ことばをしゃべるってこんなに楽しいことなのか、声を出すってこんなに心地いいのか、表現ってこういうことだったのかと実感できました。
 それともう一つ、一音一拍で、息を出し話していく。だから当然、話はゆっくりになる。それは自然なこと、いいことなのだということが分かりました。民間吃音矯正所では、「母音を伸ばしながらゆっくり話をしたら、どもらない」とずっと教わってきました。でもそんな話し方するのはどもる人だけで、僕らは特別なことをやらされているという意識がありました。ところが、どもりの有無とは関係なしに、そういうふうに話をすれば、声も出るし、表現としても豊かになる。竹内レッスンに参加していなければ、こんなにゆっくり一音一拍で話す話し方に自信が持てなかったと思います。

竹内 昔の浅草のおじいさんやおばあさんたちは、もっとゆっくりだもんね。「はー、そうか、そういうふうにしゃべれば、フン、フン、なるほど」と、こう聞いて、またこちらが何か言うと「はあ、はあ、ねえ、そうするとよろこびがある。うん、よろこび、うーん、それで?」という具合に返す。江戸っ子はたんかを切ってシャキシャキしゃべるイメージがあります。たとえば職人はそうですよ。だけど、生活の場では相手の言うことを一つ一つくり返してしゃべっていくんです。

東野 職場は情報伝達のことばがいっぱいだから、みんなテンポが早い。ポンポンポンポンしゃべるのがいいとされています。

川崎 僕は以前、相手の顔からちょっと目をそらして、口も横に向けて、口をほとんど動かさずにしゃべっていました。なにかを伝えることよりも、自分がどもりだということを知られないのが一番大事でした。

赤松 とにかく、悩んでいたころは、スラスラ言うことばかりに気がいってしまっていました。結局、自分の思いを伝えることに向かっていないようなことがありました。「おはようございます」と言うときでも、「お」が出なかったらどうしようと心配ばかりしているから、平べったい「おはようございます」になってしまうんです。

川崎 そういうしゃべり方を小学校から、社会人になってもしていました。大阪吃音教室で勉強して、どもってもいいと言われたって、しゃべれません。息が100%あるうちの2割か3割だけ使ってしゃべっていました。それが、竹内レッスンで息の出し方を教わって、息が深くなっていきました。それでやっと深い話し方ができるようになったんです。

伊藤 どもる人がずっと持ち続けている迷信があります。息を吸うのが肝心という思い込みです。ところが竹内さんは、「吐くことが大事」と言われます。その迷信を打ち破っただけでも、革命ですよ。

竹内 原則として、そのことは言っていたけれどもね。でも、実際に息を吸うとどうなるかということは、どもる人とレッスンしなかったら分からなかった。見ていると、しゃべる前にまず息を吸って、それでとたんに詰まっているものね。

伊藤 「わーたーしーは」というのでも、昔、僕らが吃音矯正所で習ったのは、一音一音はっきりと言う。「わ」でもう吸っているわけですよ(笑)。「た」「し」「は」って、音はゆっくりになるけれど、そのつど吸うからすごくしんどいんです。それと、息を吐いてから入れて「わたしは」と言うのとでは、同じゆっくりでも全然意味が違います。これが分かったのはありがたいことでした。

東野 声を出すよろこびの中にもう一つあって、それは、たとえば「息を出せ」ということを竹内さんが誰かにやっている、それを周りで見ていますよね。だんだん声が出てくるでしょう。あれが他人事とは全然思えなくて、うれしいんです。

伊藤 他の人のレッスンを見ていると、うれしいし、よく分かるよね。「ああいうふうにすれば声が出るのか」「確かに、ここにこう力が入ってるな」と手にとるように分かります。
 表現するよろこびというのもありますね。舞台でシナリオを読んで、ことばで表現するなんて、僕たちにはできないものと思い込んでいました。特に僕自身が表現のよろこびに目覚めたのは、唱歌、童謡です。「咲いた、咲いた」と、本当に今咲いているということを歌詞に流していく。歌ではどもらないんです。どもらない歌でこれだけ表現できる。自分のこれまで持っていた表現ではないものに目覚めました。

新見 僕も、声を出すよろこびを味わえたのが一番です。今までは、力を入れないと声は出ないと思っていました。抜けた瞬間に声が出るという感覚が、何となく分かりました。

伊藤 それと継続の力だと思いますね。いろいろなことを聞いても、それがからだに染みてこなければならない。レッスンに通って3年4年と経つうちに、ようやく新見さんのからだに染みてきたんじゃないでしょうか。

竹内 レッスンにどんな意味があるのかということをよく言われるけれど、同じことでも、人が背負っている状況や歴史によって、焦点の当て方が変わってきます。たとえば、私がことばがゆっくりだといっても、ことばがしゃべれなかった人間独特の、特異なものがあるわけではありません。一番基本的なことが実現してゆくのにいろんな姿があるだけです。よくしゃべれる人たちは、しゃべれることが当たり前であって、そこから上に行こう、行こうとしています。かといって、よくしゃべれる人たちが、そこから先だけやれば、ちゃんと表現できるのかというとそうじゃない、根の部分に戻らないとだめです。呼びかけるからだの流れとか、日本語としては一音一拍による声そのものの力とか。根のところは吃音の人だろうと誰だろうと同じだと思っています。

溝口 どもっていることばとか、どもってことばが出てこない時間とかは、私にとって本当に見たくも触れたくもない、嫌な部分でした。ところが竹内さんは、そうではない。それも含めて自分のことばなんだということに気づかせて下さいました。竹内さんが、「ボ、ボ、ボクはあなたが好きだ!」って言ってくれたんです。

伊藤 そう。喫茶店ですごいおっきな声で。

竹内 念のために言いますが、恋の告白ではないですよ(笑)。

溝口 からだが震えるようなものが伝わってきました。「これがわたしのことばだ」っていう感じがいっぱいわーっと押し寄せてきた気がしたんです。

竹内 いや、そのことばをどこかで言った記憶はあるけれど、喫茶店でどなったとは(笑)。

溝口 私にとって、あそこがスタートだったように思います。小手先で治そうとか、できるだけ滑らかにしゃべろうとかいうのではなくて、もっと深いところで、そのままでいいというのを大事にしながら、それでも相手に伝わることば、自分が楽になる話し方を求めていきたいという気持ちが芽生えました。

竹内 いまはどもらなくなった吃音の人が以前レッスンに通って来ていて、二年目に芝居をやったんです。相手役の女の人と「裸足の青春」という劇のテクストを持って読みあわせをするんだけど、片一方はかなり重度の吃音で、ことばが出てこない。相手の女性は立って待っているんだけれど、いつまでたっても相手が言わないから、イライラしてくる。すると、彼がウーと言って、「こここ、こうだって」ってようやく何か言う。相手は待ち構えているから、間髪入れずに返事をする。すると、途端に向こうが次言わなきゃとあせって、また「とととと」ってどもる。それが三遍か四遍くり返したときに、私はその女の人に「だめだ」と言ったんです。ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ。その時間をあなたはゼロにして、なんにも感じないようにしておいて、ようやくことばが出てきたらまたすかさず返事をしている。それは相手のことばを何も聞いていないということだ、と言いました。彼女はしばらく黙っていたが、分かりましたと言いました。それから答え方の気づかいがまるで変わりました。すると、今度は彼のほうも変わってきます。「ここで今言わなきゃ、今言わなきゃ」というあせりがなくなってくるから。どもっているときというのは、本当に大事な、いのちが一番激しく動いているときなんです。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/26

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