どもる人へのメッセージ
1975年、日本放送出版協会から出版された『吃音者のために 人間とコミュニケーション』に収められている《吃音者へのメッセージ》の中から、ジョセフ・G・シーアンの文章を紹介します。
どもる人へのメッセージ
ジョセフ・G・シーアン カリフォルニア大学教授(心理学)
今までの治療法の失敗
あなたは、私と同じような、どもる人間としての体験を積み重ねてきたのであれば、これまでいろんな助言に耳を傾けてきたことでしょう。たとえば、「落ち着いて、言う前によく考えて」、「自信を持って、息を十分すって……」などは、何度も耳にしてきたことでしょう。さらには、「口の中へ小石を入れてしゃべってみては」と言われたことだってあるかもしれません。そして今では、それらの助言がまったく役に立たないどころか、かえって吃音を悪化させてしまうことになったということがわかってきたと思います。
このような昔から言われている吃音治療法が、なぜ失敗に終わるかというと、それらは、結局はどもらないための工夫であり、吃音を隠すことしか教えないからです。吃音を隠そうとし、どもることから逃れようとすればするほど、かえってどもってしまうことになってしまいます。
吃音は氷山のようなもの
吃音は氷山のようなものです。水面に浮かんで見える部分、すなわち、他人が見たり、聞いたりしている部分は、吃音のごく一部分でしかありません。これよりもずっと大きな部分は、水面下に隠れています。この周りからは見えない隠れた、水面下の部分が、実は吃音の問題を考えるうえでは重要なのです。
どもることに対して、みっともないとか恐ろしいと感じる気持ち、何か悪いことをしたような気持ちがそうです。ちょっとしたことばでどもってしまうと、何ともいえない情けない気持ちになります。
私と同じように、どもる人は恐らく、この氷山の水面下にある部分を、これまでできるだけ隠そうとしてきたのではないでしょうか。ひどくどもり、長い間ことばが出ないときなど、自分にも相手にもごまかせる状態ではないにもかかわらず、どもることを隠そうとしたり、あたかもなめらかに話せる人のように装ったことがあったでしょう。
しかし、このようなごまかしには、もう飽き飽きしていることと思います。たとえうまくその場がごまかせたとしても、あまり良い気持ちはしないでしょう。そして、ごまかしが万一失敗したときには、大変気まずい思いをしなければならなかったことでしょう。そういう状況に何度も出くわしながら、まだどもる人は、どもることを避けたり隠したりすることが、どれほど吃音にとって悪い影響を及ぼすかについて気づかないでいます。その悪い影響によってますます吃音にとらわれていく、悪循環に引きこまれていくのです。
吃音は心の抗争から生まれる
私たちは、話しことばについての心理学的な実験や研究によって、吃音は一つの葛藤から生まれることを明らかにしました。
前進しようとする欲求と、それを引き止めておこうとする欲求との、対立する二つの欲求の間に生まれる特殊な心の中での争いです。
たとえば、あることを言いたいと思ったとき、同時に、どもることへの恐れのために言うのをやめておきたいという気持ちも起こります。この心の争いを招くどもることへの恐怖は、それぞれのどもる人によって、その源も度合いも違います。
すぐに湧き起こってくる、どうしようもない恐怖というものは、どもること自体に対する恐怖であって、おそらくこの恐怖は、吃音の直接の原因ではないと思います。つまり恐怖によって吃音が始まったのではなく、どもっているうちに、どもることそのものに恐怖を覚えるようになり、吃音がしだいに悪化していくのです。
ありのままの自分でいること
どもることへの恐怖は、主にどもることへの恥ずかしさと嫌悪感から成り立っています。またこの恐怖は、前にも述べたように、自分は吃音ではないというふりをすることからも生じます。
しかしちょっとした勇気を持てば、この恐怖感はなんとかすることができます。自分の吃音を隠さない、つまり、氷山の隠れた部分を、もっと水面上に出すことはできるのです。
どもることに対する恐怖を自覚しながらも進んで言おうとすると、何とか話すことはできます。そしてどもりながら行動できることを学ぶことでしょう。つまり、ありのままの姿でいられるのです。そうすれば、自分は吃音ではないというふりをしていたときに味わっていた、不安定な気持ちは消えてしまいます。
このことは、吃音の問題の解決にあたってまず第一に実行しなければならないことなのです。ありのままの自分でいること、つまり吃音をおおっぴらにすることだけでも、話すときに味わう緊張はかなりとけるものです。
次の二つの原則をよく理解していただければ、役に立つでしょう。
①どもることがあなたを傷つけることはない。
②すらすらとなめらかに話すことが必ずしもよい結果をもたらすとは限らない。
どもったからといって、それを恥に思う必要はありません。また、なめらかに話せたからといって、誇りに思うこともありません。
どもる人の大多数は、どもるたびに萎縮し、話すことに失敗したと思い、自分は話すことに関しては、欠陥者であると思いこんでしまいます。ですから吃音に悩む人は、どもらないようにと必死にもがき、そのために結果としてますますどもってしまいます。
次の図のような悪循環の中へだんだんと引きこまれていくことになるのです。
吃音の悪循環
どもる
↓
感情
みっともない 恐ろしい 情けない 恥ずかしい
↓
行動
吃音を隠す 吃音をごまかす 話す場を避ける
↓
どもる
どもるのはあなただけではない
どもる人は、自分だけがどもっていると思いこんでいます。それゆえに、いつも寂しい思いをしています。おそらく、あまり多くのどもる人に出会ったことがないでしょう。たとえ出会ったとしても、疫病かなにかのようにその人を嫌い、お互いに反発し合い、見て見ぬふりをしてきたのではないでしようか。
どもる人と、ふだんつきあいがあり、お互いに話し合っていながら、その人の吃音に気づかない人は大勢います。どもる人自身が吃音を隠そうとしているために、どもる人が世間にはあまりいないように見えるのです。
したがって、人口の約1パーセントの人がどもるという事実はほとんど知られていません。人口の約1パーセントとすると、アメリカでは百五十万人もの人がどもっていることになるのです。
古来、歴史上有名な人物の中に、どもっていた経験がある人々がいます。例をあげると、モーゼ、デモステネス、チャールス・ラム、チャールス・ダーウィン、イギリスのチャールス一世があり、もっと最近では、イギリスのジョージ六世、サマセット・モーム、マリリン・モンロー、テレビ俳優のゲーリ・ムーアやジャック・パールらは皆、生涯のある時期にどもっていた経験がありました。
吃音の問題は今までどもる人が思っているほど特別なものではないのです。まして、この世にたったひとりしかいないということはありえません。
楽などもり方ならできる
成人になったどもる人はどもることへの恐れから、無意識のうちにいろいろなごまかしを使いながら、吃音を隠すようになります。しかし、そのごまかし方は、一人一人でかなり違いがあります。その隠したり、ごまかしたりして話すことを含めて、それぞれの人が自分の話し方を、吃音とか言語障害と呼んでいますが、結局は、みんなが同じように悩んでいるのです。
ところで、どのようなどもり方をするかということは大変に重要なことです。どもるという事実は、自分の意志でどうすることもできませんが、どのようなどもり方をするかについては、自分でどうにでもすることができるからです。
私と同じように、これまで多くの人々は、もがいたり力んだりしないで楽にどもることを学んできました。この楽などもり方を身につける、もっとも重要な鍵は、吃音を公開することにあります。
言いかえれば、氷山の隠れている部分をもっと水面に出すことです。具体的には、次のことを実行してみるとよいでしょう。
①ありのままの自分をさらけ出す。
②どもったら、あせっていらいらせず、また無理に言おうとしないで、相手の目を静かに見る。
③言いかけたことばは、どもったからといってあきらめないで、最後まで言おうと努力する。
④どもりそうで言いたくないことや、話したくない場面を決して逃げたりしない。
⑤たとえどもってばかりいるときでも、積極的に話す。
これらのことはすべて、吃音の問題を解決させるための必須事項なのです。
このようなことを実行すれば、吃音にとらわれないで、しかも自分なりに楽にどもることができるようになっていくでしょう。
ところが、どもったときに、恥ずかしい気持ちや、いやな気持ちや何か悪いことをしたような気持ちを抱き続けると、話すことを恐れたり、話すことから逃れたりすることから脱皮することはできなくなります、なぜなら、この恐れや逃避や罪の意識が、ますますどもらせてしまうことになるからです。
古い吃音治療法の多くは、この悪循環を断ち切ることに失敗してきたのです。吃音が、話すことへの不安や恐れからおこるということを無視し、どもるという現象面だけをなくそうとしたためです。逆に、不安や恐れを抱かせる原因となっている、どもることへの恥辱、罪悪、嫌悪などの感情を減らせば、かなりうまく話せるようになります。
吃音は、先に図で示したような悪循環をくり返して、ますます問題が大きくなっていきます。しかし、もしどもる人が自分の吃音を受け入れ、吃音にオープンな気持ちで対処し、吃音への嫌悪感を減らすことができれば、悪循環を断ち切ることができます。さらには、あまり苦しそうにどもることはなくなるでしょう。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/18