認知療法・公開面接 2
昨日のつづきです。大野裕さんが、本当に丁寧に、原田さんにかかわっておられるのが分かります。そして、原田さんも、一所懸命に自分に向き合っています。
実は今、毎月発行している月刊紙「スタタリング・ナウ」の編集をしています。昨年の吃音親子サマーキャンプでの5・6年生の子どもたちとの話し合いの記録です。話し合いと言いながら子どもたちよりも僕が話している時間がとても長いのが気になっていたのですが、この公開面接で、大野さんが話している話の量の多さに驚きました。そんな訳で、大野さんの話す量の多さに、共感している僕がいます。
大勢の人の前での公開面接という難しい場面で、原田さんが静かに自分を振り返っていく展開は、何度読み返しても新鮮です。活きている対話だったからでしょう。
認知療法・公開面接 2
大野 裕・慶應大学教授(保健管理センター)
原田大介・広島大学大学院 教育研究科 学習開発専攻
大野 話がずれるかもしれないですけども、私の中に、どうしてなのかなと思うことがひとつあります。吃音をお持ちなのに、教師、それも現代文を選ばれたというのは何か理由がおありなんですか。
原田 国語科教育と言えば、だいたい教科書の説明文や文学作品を読んだり、漢字や文法の勉強、というのが多くの方が持っているイメージだと思うのですが、僕はこの国語科教育のあり方を、根本的に変えたいと思っています。「自分が向き合わなければならないことばについて考える」という授業にしていきたい。例えば、僕にとっては「吃音」がそれに当たります。誰であれ、一人ひとりが向き合わなければならないことばがあると思うのです。たとえば、「家族」「友人」「ジェンダー」「死」「暴力」「障害」などです。これらは僕が向き合わなければならない「吃音」以外のことばですが、人によって様々なことばが考えられると思います。自分が考えなければならないことばとは何か、もしくは、自分が見ようとせずに、逃げ続けていることばとは何かについて考えることができる授業ができたらいいなと思っています。大学院では、そういう研究もやっています。
大野 へえ。そうすると、吃音という背景があるので、却ってことばに対してとても関心があり、ことばを大切にという気持ちを授業として伝えたいというところがおありだということですか。
原田 はい。「自分」という個の輪郭をつかんでいく上で、ことばについて考え、突き詰めていくことは、生きていく上で不可欠な作業だと思っています。「吃音」、「死」、「性」ということばであれ、その人が向き合うべき、その人だけのことばを考え続けることが、その人自身の輪郭をかたちづけていくのだと考えています。
大野 その流れの中で、絵本の読み聞かせも出てきたということなんでしょうか。その絵本を、ことばを大切にという授業の中で選ばれたというのは、何か理由がおありなんですか。
原田 「自分が小さい頃にすごく大事にしていたものを持ってきてほしい」という授業を、次の時間にするのが目標でした。その導入として、まず僕が持ってきて、「こういう絵本を大切にしていたんだよ」と紹介した上で、次の授業で、みんなが持ってきたものを交流しようと考えていました。
大野 なるほど、そうすると、ことばの大切さだとかことばの意味だとかを一緒に考えていこうという出だしの所なんですね。そうすると、ちょっと私の頭の中でも混乱が起きているかもしれないですが、もともとは吃音があって、そこからことばを大切にしたいということを伝えたい授業なわけですね。その意味で考えると、スムーズに読むということはまあ大事なこととしてあるとは思うんですけれど、だけど、そこでどもってしまうということ自体は、今、出発点として自分が大切にしていた絵本を持ってきて、みんなに語りかけるとか、ことばの意味を大切にということを伝えるとかということと、そこでことばがつまるという事態は、原田さんが先生として生徒さんたちに伝えようとされたことと直接的には関係していないようにも思うんですが、そのあたりはどうでしょう。
原田 はい、直接的には関係していない面もあると思います。しかし、大きな行為を達成する上でのひとつの行為ではあったのかなあと思います。
大野 大きな目標を達成するための行為は、説明していただくと、どういうことになりますか。
原田 結果的に、次の授業では、みんなが自分の大切なものを持ってきてくれました。その意味では、大きな目標としては、おそらく問題はなかったと思うのです。でも、みんなが持ってきてくれたからオーケー、という気持ちにはなれない自分がいます。つまり、ことばがつっかかって落ち込んでしまう自分が、やはりそこにいるのです。
大野 どういう理由でオーケーになれないのか、説明できますか。つまり、ことばがつまってしまったという事実はあるにしても、それが、授業の進め方とか子どもたちにどういうふうに影響したと考えられますか。マイナス面です。
原田 マイナス面ですか…。
大野 なぜご質問しているかというと、お話を伺っていて、吃音の自分を否定するところで、非常に気持ちが動かれたけれど、今のお話では、そこでことばがつまったことで、原田さんがしようとされていたことにあまりマイナスなことが出てないように感じたんですね。何をそんなにマイナスだと感じられたのかなと思ったんですけども。
原田 僕自身も、そこに矛盾を感じている面があります。「大きな目標は達成できているじゃないか」、「それはそれでいいじゃないか」、「何を気にしているんだ」という自分の声も、一方では聞こえています。実際、授業ではそういうふうに自分に何度も言い聞かせてやっています。でも、一方では、つっかかりが5回6回と続き、それが何度も何度も続くと、僕にとっては吃音を否定する気持ちがすごく大きくなり、それがいよいよ蓄積してきたときには、心身ともにしんどくなります。
大野 マイナスというか、こんなふうじゃなかったのにということとして、私がお話を聞いてる中で感じたのは、授業を、まじめなものだけでなくて、リラックスするようなものも取り入れて、といろいろ工夫をされているのですが、ここの部分はリラックスする場面なんですよね、多分。ところが、ご自分が意図したこととは別に、少なくともご自分はリラックスしないで緊張してしまったというところがあるのでしょうかね。そこが、結構大きかったのかなと思うんですよね。
原田 それは感じます。ここは、少し、笑いも含め、アットホームな感じでいきたいところなのに、逆に、吃音を突きつけてしまったことで、また深刻な空気に教室が変わってしまった。僕としては、一旦ここは肩の力を抜いてほしいところなのに、僕の方から緊張を強いてしまったという面があるので、また自分を否定したくなるという気持ちがカーッと出てきます。
大野 そこが大きいみたいですね。そのとき、生徒さんたちはどんな反応をしたんですか。どんどん深刻になっていく感じだったのか、普通に淡々と授業を受けていたのか、逆にリラックスしたのか、生徒さんたちの反応は、どうでしたか。
原田 教室には生徒が40人ほどいます。ぱぱっと顔を見たときに、真剣にじっと僕を見ている子もいれば、目をそむけていた子もいました。そむける理由は、僕には分かりません。吃音を突きつけられたことで目をそむけたのか、絵本そのものに興味がなかったかもしれません。いろいろな顔がぱっと見えます。僕に気を遣って冗談にしようとして、この状況を笑ってくれる子もいました。
大野 みんながどう反応しているかなと、それをチェックしようするような心の動きというか、からだの動きというのも、原田さんの中に出てるわけですね、多分。
原田 出てしまいますね。
大野 そうすると、ことばがつまったというだけではなくて、もしかすると、その直後の心やからだの動きのために、ますますそのときの状況が真剣になっていってしまうということもありますか。つまり、みんなはどう思ったかなってあなたが考えてしまうので、その場の雰囲気がもっと真剣になってしまうみたいなことはありますか。
原田 あるかもしれません。
大野 ことばがつまったということから、逆に真剣な方向に話がいっているように思うんですね。心の中で堂々巡りが起きてきて、授業が終わった後も、やっぱりうまくいかなかったという気持ちが残るでしょう。おそらくリラックスさせたいというもくろみから外れてしまったとき、ご自分がうまくそこを修正できなかった。それが悲しかったり腹立たしかったりという気持ちをますます強めているような感じがすると思うんですね。ただ、確かに事実としてうまくいかなかったというところはあるんだけど、だけど、一方で、それは授業の組み立て方の問題で、本当に先生として伝えたかったことと必ずしも一致してないですよね。
原田 そうですね。
大野 ことばの大切さを伝えるのに、もう少し別のやり方もあり得たかなと思うんです。これも、私の想像で、こんなことができるかどうか分からないんだけれども、そこで、みんなに予定通りに「次の授業のとき大事にしていたものを持ってきて下さい」と言うのもひとつですし、一方で、吃音をテーマにすることもできると思うんですね。今おっしゃったように、自分がなぜことばを大切にしたいと思っているかということについて、生徒さんに伝えたり、自分が吃音であることで、ことばの大切さをすごく感じて、それで現代文を選んで、こういう授業をしているというのを教える機会にできれば、授業に幅が、幅というより奥行きが、出てくるような感じがするんですけど。そうすると、途中でことばにつまられたということ事態は、事態はというよりそれを、今度は材料にできるような気もするんですけれど、そのへんの使い方というか可能性というのはどうなんですか。
原田 はい。確かに、「吃音そのものについて考える」という授業は、まだ教室でやっていません。子どもたちに自分の経験を書いてもらうよう問いかけるときには、僕自身の経験を子どもたちに伝えるようにしています。
大野 その体験を伝えるときに、例えばこういうとき、せっかく伝えようとしたときにうまく伝わらなかったとか、自分が計画したのとは別の状況が起きてきてしまったけどやっぱりこういうことを伝えたかったんだとかを後で説明するということはできそうな気がするんですけど。
原田 そうですね。
大野 ところが、逆にうまくいかなかったという気持ちが出てきたために、みんながどう反応しているかに目がいったり、自分がうまくいかなかったということに目がいったために、せっかく伝えようとしている所から脇道にそれてしまったような印象を、私は受けるんですね。そうすると、やっぱりできなかったという感覚が残るので、悲しかったり腹立たしかったりしたのだろうなという気がするんです。でも、おそらくこの場面で生徒さんたちはいろいろ感じたと思うので、必ずしも計画どおりにはいかなかったけれども、伝えたいことが伝えられた可能性や、実際そこで伝わっている可能性があるように思います。先生がつまってしまった、一体これはどういう意味なんだろうと考えた生徒さんもいるし、さっきおっしゃったみたいに冗談にしようとした生徒さんもいます。生徒さんの中で、ことばに対する情報の処理というか、対応というのが出てきてるので、その意味では必ずしもマイナスだけのようには思えないんですけれども、そのあたりはどうですかね。
原田 はい、マイナスだけではないだろうと思います。
大野 今は、授業の進め方を間違えた、教師としての職業を間違えたところにいっているようですが、そこで、そのときに、それを今度どう授業に活かしていくか、と考えられると、何か予想外のことが起きたときに、これも何か活かせないだろうかと考えられると、教師を選んだもともとの考えを確認できたり、対応や気持ちが違ってきたりするのではないかなあと思うんです。何かそれについて考えられることってありますか。
原田 う~ん…。
大野 そんなこと言っても無理だ、とか(笑)。それとか、こうすればいいのかなとかいうのでもいいですよ。プラス・マイナス共にありますね。
原田 …そうですね。僕の中には多分、絵本ぐらいすらすら読めて当然だと思っている面が確かにあったと、今、気づきました。実は、絵本はきっとすごく奥が深いものであるはずなのに、「絵本ぐらい」と「幼稚なもの」とか「簡単なもの」と思っていた。その、「絵本ぐらい」にある「ぐらい」ということばの中に、できて当然という僕の気持ちが入っていたと思うのです。今、僕が思いつくところでは、そこかな、と思います。
大野 そうですね。ですから、代わりの考えとしては、これくらいできて当然だと思っていたんだけれど、必ずしもそうではないかもしれないとか、自分が伝えたいことはもっと別の形でも伝えられたかもしれないとか、それなりにこの場面が生徒たちに役に立っただろうとか、いろんな可能性が考えられると思うんですね。今のお話を伺っていると、私は、アメリカに行ってたときを思い出しました。それなりに英語の勉強をして行ったんですが、行ってみると、ことばが全然分からない。すごいショックを受けて、やっぱり勉強しなければいけない、英語に触れないといけないと思って、テレビの子ども番組を見たんです。子ども番組だとボキャブラリーが少ないし、分かるんじゃないかと思ったんですが、実はそれは全く逆で、子ども向けの変な発音をするわけです(笑)。ますます分からなくて、すごく落ち込んだんです。それを思い出しました。思っていることと全く別だったことってありますね。確かに絵本は、あれだけ短いことばと絵の中にいろんな情報が入っているから、逆にすごく難しいかもしれないですね。そこにはもっといろんな情報が含まれているのでしょう。思いこみや見込みと違った部分が起こったときに、ご自分が考えてしようとしてらっしゃる所につなげていくか、ちょっと視点を変えられると、事態は変わってくるのかなと思うんですね。
もうひとつは、さきほどから吃音は変わらないとおっしゃってますけれど、つまるのが1回2回で済むときもあれば、5回6回になるときもあるわけですね。おそらく、波があるんだろうと思うんですね。つまるにしても少ないときと多いときがあると思うので、それが一体どういうときなんだろうということをこれから見ていかれると、それもまた、ご自分の吃音をどういうふうに受け入れていくか、コントロールしていくかというところで、役に立ってくるかなと思ったんです。見込み違いのようなものに結構動揺されているみたいなので、ご自分が何を伝えたいのかをひとつきちんと押さえていらっしゃると、感じ方が違ってくるかなと思います。教材の選び方とか、伝え方とか、とてもいい授業をされていると私は思いました。私は、こんなふうに思ったんですけど、今の話の流れの中で、もう少し追加することとか、考えられることってありますか。
原田 …はい。僕が教室で子どもたちに伝えたかったのは、「自分自身が向き合わなければならないことばについて考える」という、姿勢や態度を伝えることにありました。これは、僕自身も普段から意識して心がけていることでもあります。これからも、吃音のために辛いことや悲しいことがあるかもしれません。ですが、この大きな目標だけは忘れずに、続けて挑戦していきたいです。
大野 どうもありがとうございました。よくがんばっていただいたと思います。
原田 感情的になりやすい私の思いをきちんと受けとめてくださり、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/12