認知療法・公開面接

 大野裕さんを講師に迎え、認知療法・認知行動療法をテーマに吃音ショートコースという2泊3日の合宿をしたのは、2006年秋でした。このとき、大野さんによる公開面接で面接を受けたのが原田大介さんでした。僕が初めて原田さんと会ったのは、毎年恒例となっていた北九州市立障害福祉センターでの、2005年の吃音相談会でした。それ以来の長いおつきあいをさせていただいています。原田さんが専門とされているのは国語教育ですが、教科の中で吃音と関係が深いのも国語教育で、「国語教育と吃音」をテーマに何かできないだろうかという思いをずっと持ち続けています。
 「スタタリング・ナウ」2007.3.18 NO.151 に掲載されている大野さんと原田さんの公開面接を紹介します。『ストレスや苦手とつきあうための 認知療法・認知行動療法~吃音とのつきあいを通して~』(金子書房)に詳しく載っています。

認知療法・公開面接
                大野 裕・慶應大学教授(保健管理センター)
                原田大介・広島大学大学院 教育研究科 学習開発専攻

原田 僕はこれまで、自分の吃音からずっとずっと逃げ続けてきましたが、日本吃音臨床研究会と出会えた2005年を境に、僕は真剣に吃音と向き合うようになりました。研究会の行事にもいろいろ参加した結果、吃音は障害のひとつで、治るものではないことがわかりました。今では、吃音を治すのではなく、吃音とつき合うことが大切だとの発想に変わりつつあります。
 しかし僕は、今でも吃音を受け入れることができたわけではありません。ときには激しく吃音を否定したくなる。僕は今、大学院生ですが、週2日だけ、広島市内にある男子高校の非常勤講師もしています。その授業の中でことばが出なくなり、授業が止まることが、よくあります。一回や二回なら、冗談とか黒板に書いたりしてどうにか解消するのですが、最近吃音が重くなってきたのか、50分の授業中、ことばが出なくなることが、5回、6回と続くことがある。こうなると、しんどくなって、本当に泣きたくなる瞬間があります。

大野 最近になって、吃音が強くなってきたというか、気になるようになってきたということですが、それは何か理由はおありなんですか。気づいていらっしゃることはありますか。

原田 1、2回だったのが5回6回になってきた理由は、僕には分からないのです。

大野 そうですか。じゃ、昨日「認知療法」の学習で練習したようなことを少し考えてみましょう。最近、特にそれを強く感じた、非常にことばが出てこなかったという場面はありますか。

原田 高校の授業で、『おばけのてんぷら』(作者・せなけいこ、ポプラ社)という絵本の読み聞かせをしたときです。とってもかわいく、ユニークな作品で、ところどころに笑える場面もあります。相手は男子高校生なので、「読んでくれる人?」と聞いても、みんなは遠慮がちです。「じゃ、僕が読もう」となりました。この場面はきっと笑うだろう、ここはリズムよくいきたいところがあるのですが、ことばがつっかかるためか、生徒も笑うタイミングがつかめません。何でもない場面で、どもり続けて次のページをめくれないとき、何とかことばが出ない自分を笑ってみせたりもしますが、授業が終わった後で、「今僕がやっていることは何なんだろう」、「今後もこういうことが続くのか」と思うと、とてもしんどく、悲しくなります。

大野 「誰か、読みませんか」と言ったけど、読みたい人がいなかったので、先生が読み聞かせたという場面だったんですね。どもるときっていうのは、笑えるところの少し手前くらいなんですかね。

原田 笑う場面のもっと前の段階です。「うさこ」という主人公が勘違いでおばけをてんぷらにしてしまう、という話の部分におもしろさがある絵本ですが、そこに行き着くまでの過程で、教室の空気、楽しい雰囲気が停止してしまうのです。
 たとえば絵本の中で、みそ汁を「おみおつけ」というのですが、「お」がどうしても出ない。そこは、止まるべきところであってほしくないのに、止まってしまって、子どもたちもすごく僕に気を遣ってくれて、笑ってくれる面もあるのですが、僕としてはなんか納得できない自分がいて、そこはスムーズにいきたい自分がどうしてもいます。

大野 状況は、絵本の読み聞かせをしていて、ことばが出なくなったということですね。そのときはどんな気持ちになられましたか。感情というか、気持ちはどうでしょう。

原田 一瞬カーッとなり、恥ずかしいやら、悲しいやら、泣きたくなるやらで、落ち込みます。しかし、給料を受け取る教師として、授業を成立させる責任があります。ことばがつっかかったときは、ただことばを出すことだけに必死です。むしろ、授業が終わってからの方が、しんどいですね。

大野 では、授業の後で、落ちこんでいる場面。そのときはどんな気持ちなんでしょう。

原田 自分自身に対する「悲しみ」と「怒り」でしょうか。

大野 では、もしも点数をつけるとすれば、どれくらいでしょう。全く感じないが0で、今まで感じた一番強い感情が100とすると、どれくらい。

原田 少なくともこの瞬間に関しては、「悲しみ100」と「怒り100」です。

大野 ずいぶんつらかったんですね。こんな気持ちが出てきたときには、どんなことを頭の中で考えていらっしゃいましたか。

原田 いろいろな思いがめまぐるしく立ち上がります。まず、絵本の読み聞かせがうまくできなくて、生徒に申し訳ない。その後に、自分の吃音を、強烈に否定したくなる。しかし、吃音を否定することは、他の吃音の方々を否定することにもなる。吃音ショートコースに参加するなど、多くの吃音の方々と出会ってきた自分としては、吃音を否定することだけは、極力考えたくない。でも、吃音や、どもる自分という存在を強烈に否定したくもなる。いろんな考えが頭の中でぐちゃぐちゃになって、とにかく、自分に対する悲しみと怒りが立ち上がります。その悲しみと怒りがなくなるのを、時間をかけて、ゆっくりと待つしかありません。

大野 子どもたちに申し訳ないというのが最初に出てくるわけですね。その後に、ご自分に対してはうまくできなかった、吃音のためにうまくできなかったというのが出てくる、ということですか。

原田 はい。子どもたちへの申し訳なさと、自分に対する否定的な気持ちが、限りなく同時に出てきます。さらに、他の吃音の方々だけは否定してはいけない、との考えも浮かびます。絵本の読み聞かせができなかったことが、自分が吃音者であるという、生々しい現実を突きつけてくるのです。

大野 今のお話を伺っていると、いろんな考えが浮かんできて、それでまた混乱されているような感じがするんです。頭の中で考えている混乱が、また混乱を呼ぶみたいなので、まとまらなくていいから、書き出してみるといいと思うんですね。子どもたちに申し訳ないということ、もうひとつは、そんなところで失敗した自分はだめだ、となるんでしょうか。黒板に書いていただけますか。

原田 (原田さんが黒板に順を追って書く)

① 20年以上、自分の吃音と向き合うことなく、逃げ続けてきた。
② 2005年の正月に吃音と向き合う覚悟を決め、以来、たくさんの吃音の研究会に参加してきた。吃音をもつ方々と出会い、語り合えたことで、「吃音をもつ自分」を少しずつ認めることができるようになった。
③ 現在(2006年)の自分は、男子高校の現代文の教師をしている。自分の吃音についても、最初の自己紹介のときに、必ず生徒に伝えるようにしている。生徒も理解してくれている。
④ しかし、それでもどもる自分を否定したくなる衝動に駆られる。特に、授業中に1、2回だけでなく、5、6回とことばが出ず、授業そのものが進行できなくなったときは、強烈に吃音を憎みたくなる気持ちが自分の中に生まれてしまう。
⑤ しかし、自分のこととは言え、吃音を否定することは、他の吃音をもつ方々を間接的に否定してしまうことにもなる。それだけはしたくない。しかし一方で、吃音を否定したくなる自分を抑えられない瞬間がある。
⑥ 教師という職業を選択したこと自体に問題があったのだろうか? しかし、そんなふうに自分は考えたくない。
⑦ 考えれば考えるほど混乱し、自分の気持ちを受けとめることができない。

大野 書いていただいたら、ずいぶんうまく整理ができた感じで、話の流れ、考えの流れが見えてきます。この、自分を否定する気持ちが生まれたという所ですが、これはどんな考えですか。どういうふうに否定されたんですか。

原田 どもってことばが出なくて、時間が停止する事態を生み出す自分を否定したくなります。1回2回ならまだいいけど、5回6回と続くと、そんな自分はどうなんだろう?と感じてしまう。

大野 どうなんだろうというのは、教師としてだめだとか、きちんと教えられていないとか、もっときちんと読めればよかったのにとかですか。

原田 自分の中でかっこつけているのかもしれないのですが、しかし、5回6回とつっかかる自分でもいいや、という気分にはどうしてもなれない。そんな感じですね。

大野 そこで、自分はだめだ、と自分を否定するような感じになるんですね。そうすると、自分はだめだし、教師としてもだめだという気持ちや考えが出てきて、悲しくなる。不甲斐ない自分に怒りが出てくる。そういうふうな状況でしょうかね。

原田 はい、そうです。

大野 一番強く心が動くところはどこでしょう。今の話だと、否定する気持ち、自分はダメだというところで、とてもつらくなったという感じが、私にはするんですけれども、どうですか。

原田 そうですね。

大野 だけど、否定したくない、自分が知っている吃音の方たちも否定したくないという気持ちがあるから、揺り戻しみたいになって、うまく収拾ができなくなるということですね。そのとき、自分はだめだ、教師としてもだめだというのは、その時点では何パーセントくらいの確信ですか。

原田 瞬間的には100だと思うのです。そのときじっと待って遠くを眺めたり、僕は映画が好きなので映画を見て気分をちょっと変えたり、マンガも好きなのでマンガを読んだりして、時間が経つにつれ100からだんだん下げていく感じです。

大野 気分を変えられるものがあるのはいいことですね。うまくしゃべれなかった状況で、自分はだめだということですから、ここで根拠としては、きちんとしゃべれなかった、ことばがつまってしまった、ということですね。それに対して生徒さんたちの反応はどうだったんですか。

原田 生徒たちには、4月の初めに、自分の吃音について伝えました。よくどもるので、よく聞こえなかったり、言っていることが分からなかったら遠慮なく聞いてほしいと伝えてあります。先生が冗談でやっているとは、生徒たちは感じていません。それなのに、自分で自分を否定したくなったときに、もう何が何だか混乱してしまう。

大野 その場合の自分を否定するというのは、もう少し説明するとどんな感じですか。どういうふうに否定されているんでしょう。

原田 自分で自分という存在を認めることができない。どう言ったらいいんでしょう。吃音は多分、今後も治らないだろうとは、これまでの20年以上の実感として持っています。「治す」という発想は、今ではあまりありません。ただ、吃音の自分を受けとめることができない自分を、さらにまた否定してしまう、そんな感じです。

大野 その反面では、極端に言えば、吃音がなければいいとか、吃音がある自分はだめだとか、そういう感じになってしまうということですか。

原田 そうですね。そういう否定の感情が生まれると同時に、そう考えてしまっては他の吃音の方々を否定するからダメだ、というような感じです。

大野 そこはつらいところですよね。 (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/11

Follow me!