どもる子どもたちによる劇づくり~第17回吃音親子サマーキャンプより~
「スタタリング・ナウ」2007.1.20 NO.149 に、今は、東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さんが『演劇と教育』に書かれた文章を転載しています。《どもる子どもたちによる劇づくり》とのタイトルで、吃音親子サマーキャンプで大切にしている演劇での子どもたちの様子が詳しく書かれています。
どもる子どもたちによる劇づくり~第17回吃音親子サマーキャンプより~ 渡辺貴裕 岐阜経済大学講師(教育方法学)
「ぼぼぼぼぼくにも見せろよ!」
「そおおおおれから?」
演じている子どもが、次から次に、どもる。時には言葉が出ず、しばらくの時間が過ぎることもある。しかし、それを笑う観客はいない。子どもも大人も、じっと次の言葉を待っている。
2006年夏、8月25日から27日にかけて、滋賀県立荒神山少年自然の家にて、第17回吃音親子サマーキャンプが開かれた。参加したのは、どもる子どもとその親、そしてスタッフをつとめる成人吃音者・ことばの教室の教師・大学生ら計143名。劇づくりは、キャンプの活動の柱の一つ。冒頭に掲げたのは、最終日における劇の上演中の一コマである。
どもる子どもたちが一箇所に集まり、三日間という限られた期間のなかで劇をつくって上演する。こうした取り組みは、国内はおろか、世界的にも類を見ないものである。6年前、私は演出家竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」を介してこのキヤンプに出会った。以来毎年スタッフとして参加している。
以下では、このキャンプの劇づくりの活動について報告しよう。このキャンプは、吃音という「障害」との付き合い方において興味深いだけでなく、演劇教育全般に対しても、ある問題を提起してくれている。まず、キャンプの概要から紹介していこう。
吃音親子サマーキャンプとは
「どもっているのは私だけではないということが分かった」
「みんなどもっていたから話しやすかった」
「高校生もどもっていたね。ぼくもどもってもいいの?」…。
キャンプに参加した子どもたちから出される声である。
キャンプを主催する日本吃音臨床研究会では、吃音を「治す」という考え方をとらない。そうではなく、「吃音と上手につきあう」という考え方をとる。とりわけ、子どもの頃に吃音へのマイナスイメージを定着させてしまわないことを重視している。
幼児のときには自分の吃音を気にしていなかった子どもでも、学校に入って、自己紹介や本読みのときにつっかえて同級生に笑われたり、しゃべり方を真似されたり、「『あいうえお』って言ってみて」などとからかわれたりして、吃音について悩み始める子どもは多い。また、親や教師に自分のしゃべり方について尋ねても話をはぐらかされ、吃音をタブー視するようになったり、あるいは、「吃音は本人の努力で治る」という俗説を聞いて、一向に治らない自分を責めるようになる子どももいる。多くの場合、子どもは、どもるのは世界で自分だけだと思い込み、一人で悩んでいる。
キャンプは、そんな子どもたちにとって、仲間と出会い、どもることを恐れずに人と話し、どもりについての経験や考えを交流して、どもる自分を見つめなおす場となる。
16年前に計50名程度の参加で始まったこのキャンプは、近年では計140名前後を数えるまでになった。
参加する子どもの学年は小学校から高校まで。吃音の程度はさまざまである。大阪を中心とした近畿圏からの参加が多いが、千葉、島根、山口、九州など遠方からの参加もある。親子での参加が原則であり、親向けにも話し合いや学習会などのプログラムが組まれている。続けて参加している親子が多く、今年は3分の2が2回目以上の参加であった。
子どもにとってキャンプの活動の柱は四つ。グループに分かれてどもりをテーマに行う「話し合い」、自分のどもりと向き合う「作文教室」、荒神山を登る「野外活動」、そして最後に、「劇の練習」および「上演」である。
キャンプでは、第1回から劇づくりの活動がプログラムに組まれていた。なぜ、どもる子どもたちのキャンプで劇づくりなのか。
キャンプの発起人である伊藤伸二さん(日本吃音臨床研究会会長)は、その理由として、自身が小学2年生だったときのエピソードをあげる。秋の学芸会の劇で、伊藤さんは、担任の先生の「配慮」により一方的に、一人でセリフを言う役を外された。これは、伊藤さんにとって、吃音に劣等感を感じ、無口で消極的な子どもになっていくきっかけとなった出来事だったという。
しかし、伊藤さんのこの”怨念”のみによって劇づくりの活動が17回も続けられてきたわけではないだろう。毎年、子どもたちが、この劇づくりで何かを経験し、得ているのである。キャンプにとって劇づくりの活動を不可欠なものにしているこの「何か」とはいったい何なのだろうか。
サマーキャンプでの劇づくり
上演する劇は、通して演じた場合に40分程度になるもの。例年脚本を竹内敏晴さんが書き下ろしてくださっている。
劇は、4~5つの場面に分けられている。子どもたちは同数のグループに分かれ、グループごとに一つの場面を演じる。上演といっても、「学習室」という広めのカーペット敷きの部屋で行うもの。舞台や幕もなければ照明装置もない。音響も、鈴やたいこを鳴らす程度である。また、本番でも台本を持ったまま演じてかまわない。
とはいえ、劇の練習時間は、2時間が3回。新たに出会う異年齢の仲間と劇づくりを行うには、あまりにも限られた時間である。
これを助けているのが、一日目の夜に行われる、スタッフによる劇の上演である。竹内敏晴さんから一泊二日の「事前レッスン」を受けたスタッフが、子どもたちが最終日に上演する劇を、一度演じてみせるのである。演劇には素人同然のスタッフによる上演であり、その完成度は決して高くない。しかし、子どもたちは、一度劇を目にすることで、おおまかなストーリーを頭に入れておくことができる。さらに、大人がどもりながら行う上演を見ることで、「自分たちにもできそうだ」という励みも得ているのかもしれない。
各グループの劇の練習は、事前レッスンを受けたスタッフが中心となってリードする。同じレッスンを受けているので、子どもに教える際の考え方はある程度共通しているであろうが、特に統一された指導手順があるわけではない。各グループのスタッフがそれぞれのやり方で練習に取り組む。私が属していたBグループの活動を中心に、キャンプでの劇づくりの様子を見ていくことにしよう。
「コニマーラのロバ」
今年上演した劇は、「コニマーラのロバ」(原作エリナー・ファージョン、脚本竹内敏晴)である。
ダニーという7歳の男の子が、父親が聞かせてくれた、フィニガンという架空の白いロバの話を信じ込む。ダニーは学校でフィニガンの自慢をするが、他の子どもたちからは嘘つきだと馬鹿にされ、さらにフィニガンがいるはずがないことをいじめっ子によって突きつけられてしまう。ショックを受けたダニーは病気になって寝込む。ダニーの父親と同郷のデイリ先生が、田舎に帰っているとき、懇意になった船乗りの助けを借りて白いロバの写真を撮り、ダニーに送る。受け取ったダニーは徐々に回復して登校し、みなに写真を見せ、いじめっ子の鼻を明かす。このようなあらすじである。
Bグループが担当するのは、5つに分かれた場面の2つめ。ダニーが父親からロバの話を初めて聞き、ロバに入れ込んでいく部分。ダニーと家族とのやりとりが続く展開である。
この場面の担当に決まったとき、私は正直なところ、「やりにくいな」と思った。登場人物がダニー、父親、母親、ナレーターの4名しかいないうえに大きな動きがない。ダニーと級友たちが言い争う場面であれば、集団のぶつかりあいやはやし言葉のやりとりで、劇の楽しさを子どもたちに経験させやすいだろうに。さてどうしたものか。
グループの子どもは12名、スタッフは7名(うち、事前レッスン参加者が私を含めて3名)。練習場所は、12畳強の広さの畳敷きの部屋である。練習は、このグループのなかではスタッフ経験年数が長かった私が中心になってリードした。
私は、演劇の考え方の多くを、竹内敏晴さんに学んでいる。また、子どもへの実際の指導に関しては、元小学校教師の福田三津夫さんに学んでいる。このキャンプでは、どもる子どもたちを相手にする。しかし、私は、特に吃音を意識した特別な指導方法をとっているわけではない。
1回目の練習(2日目・13時から15時)
仮の配役を決めるまでに30分近くかかった。12名の子どもを割りふるため、場面を3つに区切り、区切りごとに役を交代するようにしている(さらに、一つめの区切りのダニーと父親はダブルキャストである)。子どもたちに配役の希望を尋ねると、ほとんどの子どもが母親役とナレーター役に集中した。どちらもセリフが少ない役。セリフをたくさん言うのが嫌なのだ。年長の子どもに、「どうしてもイヤだったら後でまた替わったらいいから」と言って、別の役にまわってもらう。
まず体を動かしてみんなの緊張をほぐしたい。椅子無しフルーツバスケットのような「ヤドカリゲーム」、二人組で移動する鬼ごっこ「ガッチャン」をする。予想以上にみんな乗る。本気で走りまわり、笑いが起きてくる。
続いて、円形に座ったままでの読み合わせ。意識してほしいこととして一つだけ、「セリフを言うときに、誰に向かって言ってるかに気をつけて、その人に向けて言ってね」と伝えておく。
まだ誰がどの役なのかも分かっていない段階だ。
まさひろ(ダニー) 「父ちゃん、コニマーラにゃ、何がある?」
渡辺 「ん?父ちゃんってどの人?」
一つずつ確認しながら進めていく。
読み合わせを終えて一つ心配したことがあった。2つめの区切りのダニー役のりんたろう(小3)がかなりどもる。文頭で難発(音が出てこない)になる。セリフは9か所。ちょっとしんどいのではないか。役の交代を考えるか。
休憩時問、役を替わりたい人は申し出るようにと伝えるが、誰も言ってこない。これでいくしかない。
休憩後はさっそく立ち稽古。今度は、「台本を見ながらでいいから、セリフを言うときには顔を上げよう」と指示する。
一つめの区切りの母親役のさき。小学2年。伸発(音をひきのばす)の吃音になる。時々声がかすれ、聞きとりにくい。
さきの最初のセリフは、ほら話をやめない父に対する「おまえさん!いいかげんにしなさいよ…」というもの。しかし、低学年のさきには台本が難しいのか、自分の番がきても気付かない。ダブルキャストで待機中のゆういち(高1)が繰り返し助ける。
話の流れもあまり分かっていない様子。父の話がうそであること、母はそれに怒っていることを確認する。
「さきちゃん、さっき話し合いのとき、ゆきちゃんに、『筆箱いじってたらあかん』って注意してたやろ。それと同じ。」
「おまえさん!」の時に父を手でたたいてみたら?という案が出る。さきは「どこたたいたらいい?」と尋ねる。私は「さきちゃんの好きなところ」と答える。さきはちょっと首をかしげていたが、自分が座っていた座布団をたたきながら「おまえさん!」。案とは違うが、雰囲気が出ていてみな納得。
この立ち稽古は、おおまかな動きを確認していくだけで終わった。言葉のやりとりをきちんと行っていくのはまだ先だ。次の練習時間は、夕食の後。
2回目の練習(2日目・19時から21時)
冒頭、スタッフの長尾政毅くん(キャンプの「卒業生」である)がドレミファゲームというのをやってくれる。2チームに分かれて、相手チームに指示された「ドレミのうた」の1フレーズを歌い合う。メロディーがめちゃくちゃになったチームが負け。「ミはみかんのミ~」などの間違いも飛びだして盛りあがる。歌や、他人と一緒のときのほうがしゃべりやすいという吃音の子どもは多い。よい声出しになった。
練習は、3つの区切りごとに子どもとスタッフが分かれて行うことにした。1時間後に再び集まることにする。
みんな戻ってきたら、一度通してみる。そして、子どもたちに、「見ていてよかったところ、なおしたほうがよいところ」を出し合ってもらう。
感想の出し合いでは、キャンプへの参加が共に7回以上になる中2のなつみと中1のたいきがみなを引っぱってくれた。「相手のほうを見れるようになってきた」「ふたりの会話がなんか平行って感じ。……ちゃんと受け止められてない」。鋭い指摘に、スタッフは感嘆し、他の子どもたちも触発されて感想を出すようになる。やはり、同じ仲間から出てきた意見の方が子どもに響くのだろう。練習の雰囲気がよくなる。自分たちで劇を作っていこうとするムードが出てくる。
出てきた感想をもとに、立ち稽古を繰り返していく。
まさとの変化が面白かった。
まさとは、おとなしい感じの中学1年生。吃音は、時折連発(音を繰り返す)になる程度で、きつくはない。しかし、恥ずかしさが出てくる年頃か、劇に乗り気でなさそう。一つめの区切り、ダニーにほら話を聞かせる父の役である。からだがうつむき加減になり、セリフも棒読み。
まさと(父) 「コニマーラにゃな、北地方で一番青々とした丘があってな、一番真っ黒な石炭がとれてな、……」
渡辺 「ん?これってほんまのこと?」
まさと 「違う」
渡辺 「なんか今のやったら、『新潟では米がたくさんとれて…』みたいに解説してるふうに聞こえるで」
周囲が笑う。こんなやりとりを繰り返す。
まさひろ(ダニー) 「ロバだって?」
まさと(父) 「うん、ナシの花のように真っ白なのがな」
渡辺 「ん?ちょっと待って。ロバってほんとは何色?」
まさと 「茶色」(※本当は灰色である)
渡辺 「そやんな。白いのなんておるわけないよな。父ちゃんはウソをつくのが楽しくて仕方ないんやな。今また新しいウソを思いついたんやから、その喜びがなきゃ!」
理解力があるのだろう。言葉で「分かった」と答えるわけではないし、派手に演じてみせるわけでもないが、少しずつ、着実に声が変わっていく。案外心の中では楽しんでいるのかもしれない。「いいね!」とほめると、はにかんで笑う。
時間いっぱいまで練習が続いた。「できたら明日までに台本を読み返しといでね」。そう伝えるが、子どもたちは部屋に戻ったら学年が近い友達とのおしゃべりがあるだろう。多くを期待はできない。
3回目の練習(3日目・8時半から10時半)
上演前の最後の練習。途中、本番で使う学習室に移動しての「リハーサル」(一グループあたり20分)がある。
まずはウォーミングアップ。手首をプラプラ振ったり、体を上下にバウンドさせたりするのを真似してもらいながら、体をほぐす。さらに、体をバウンドさせた状態から「ヤッ」「ワッ」などと掛け声をかけてポーズをとるのを、後についてやってもらう。それから、声出し。のどを開けるために、あくびの真似をしてもらう。渡辺「ふわーあ」、子どもたち「ふわーあ」。……あまりうまくいかない。次に、窓の外に見える荒神山に向かって、「父ちゃーん」と呼びかける。渡辺「父ちゃーん」、子どもたち「父ちゃーん」。「それじゃあ父ちゃん聞こえないで、もう一度!」「父ちゃん山の頂上まで行った。昨日登ったところ。そこまで声を届けて!」。そうやってけしかけると、グッグッと声が出るようになっていく。
リハーサルまで時間がないので、区切りごとにグループに分かれてそれぞれでおさらい。学習室に移動して、リハーサル。時間が限られているのであわただしい。部屋に戻って感想を出し合い、それをもとにもう一度最初から稽古。
時々言葉が出てこなくなるのが気がかりだったりんたろう。2つめの区切りの、ロバの話をもっと聞きたくて、仕事に戻る父についていくダニーを演じている。しかし、どもって間が空くことを恐れるのか、次のセリフ次のセリフへと急いでしまう。
りんたろう(ダニー) 「………お、おれ、それに乗れる?」
たいき(父) 「乗れねえでどうする。」
りんたろう(ダニー) 「か………けるの、早い?」
父のセリフの時にはもう目が台本に向いている。しかし、考えてみれば、ここはいくら間が空いてもよいのだ。ダニーの頭のなかがロバについての想像でいっぱいになって、父にもっと話を聞きたくなる。関心の焦点がロバに向いてさえいれば、間の長さはまったく問題にならない。
私自身これに気付いていなかった。直接りんたろうに説明しようかと思ったが、やめた。「いくらどもってもいい」と言うよりも、やりとりを体験してもらうほうが得策だろう。ひとまず、「ダニーは父ちゃんの答えを知りたいんだから、もっと聞いてね。台本は後で見たらいいから」と伝える。ダニーと父とのやりとりのなかで、電車通りの手前で父と別れたダニーが、通りを渡っていく父に「父ちゃーん、父ちゃーん」と呼びかける箇所がある。舞台上ではダニーと父の距離はほんの数メートルしか離れていない。
渡辺 「これ、舞台ではこんだけしか離れてないけど、ほんまにそうなん?」
りんたろうは首を横に振る。
渡辺 「じゃあ、あのへん(窓の外の茂みを指さす)に父ちゃんがいると思って呼びかけてみよう」
りんたろう(ダニー) 「と、とうちゃーん、……とうちゃーん」
父役のたいきに、今ので振り返れそうか尋ねる。
たいきは首をかしげる。もう一度挑戦。
りんたろう(ダニー) 「と………とうちゃーん、……とうちゃーん」
驚いた。すごい迫力だ。練習を重ねるうちに、たいきのほうが押され気味になる。私は、りんたろうにはこの役は厳しいのではないかと思っていたことを恥じた。自分のほうこそこの場面の勘所を理解していなかった。
一部分を取りあげて濃密な稽古を繰り返していると、出番がない小2のさきとかえでの集中が途切れてきた。他人の稽古を見ずにふたりで遊びだしてしまう。
仕方がないので、全体での練習はここで打ち切り。残りの30分ほどは、「自主稽古」してもらうことにした。いつも間違える箇所の練習をしたり、どうやったらロバに入れ込むダニーになれるか友達と相談したり、ブリッジしたまま歩いて(!)遊んだり、寝転がって休んだり、いろいろだ。あとは本番を迎えるのみ。
上演本番(3日目・10時半から12時)
子どもたちによる劇の上演に先立って、親による出し物が行われる。数グループに分かれた親が、集団で動きながら、全身を使って、詩を表現する。今年は、工藤直子の『のはらうた』シリーズより。普段見ない親の姿に子どもたちが沸く。最初のほうは親にもまだ恥じらいがあるようだ。しかし、子どもたちも劇の練習をがんばっているという意識と、他のグループのウケる様子が、親たちをふっきれさせるのだろう。出番待ちの親から、「これ、思いっきりやったほうがええみたいやで」というつぶやきが聞こえてきた。
そして「コニマーラのロバ」の上演。まずはAグループからだ。
毎年感じることだが、本当に観客があたたかい。子どもたちはもちろん、親も、自分の子どもであるか否かにかかわらず、演じている子どものちょっとしたやりとりや仕草に笑う。
Aグループの場面が終わる。いよいよBグループの出番。
まさひろ(ダニー)とまさと(父)のやりとりから始まる。父に「(コニマーラには)ロバがいる」と聞かされたときのダニーの「ロバだって?」の驚きようがいい。ふたりのやりとりが続いた後、無関心そうにちょんと座っていたさき(母)の「おまえさん!いいかげんにしなさいよ」というセリフが入る。観客は意表を突かれて、笑みがこぼれる。
りんたろう(ダニー)とたいき(父)のシーンへ。りんたろうが「父ちゃーん、父ちゃーん」と呼びかける箇所。2回目の「父ちゃーん」の出だしで詰まり、声が出てこない。りんたろうの体がこわばって震える。数秒の静寂が流れる。
「……、……、と、父ちゃーん」
出た!それを受けとめたたいきが振り返る。ゾッとするほどのリアリティーだ。集中を切らさず待っていたのが、さすがだ。劇の全体から見れば、ここは地味な部分である。しかし、私にとっては、とても印象的な瞬間だった。
Bグループの上演は、なつみが、実在しないロバに夢中になってしまったダニーを見事に演じきって、幕となった。部屋は大きな拍手で包まれた。
キャンプを通して見る演劇教育の意義
今年の上演も、各グループの子どもたちがそれぞれの魅力を存分に発揮していた。最初はセリフが多い役を嫌がったりしていた子どもたちである。それが短い間に、全員ではないにせよ、演じることを楽しむようになる(Bグループでセリフの多い役へ移ってもらった数名も、上演後尋ねると、「(この役で)よかった」と言っていたらしい)。なかには、福岡までの帰りの新幹線でずっと台本を読んでいたという子どもや、家に帰ってからも友達と台本で遊んでほとんどのセリフを覚えてしまったという子どももいる。そこまでいかなくても、劇をするのが嫌ではなくなる子どもが大半である。
それでは、彼らにとって、劇づくりの活動の魅力は何なのだろうか。劇づくりの活動は、どもる子どもたちにいったい何をもたらしているのだろうか。
それは一つには、自分にも人前でしゃべる力があるんだという自信である。かつて小学4年生の女の子が作文にこう書いた。
「いやなことでは、本読みのときです。本当は、じょうずに読めるのに、どもって読めません。…ふしぎなことに、一人で本読みなどしていると、どもりません。どもるときとどもらないときがあって、自分がちゃんとしたいときにどもり、そこがすこしいやでたまりません。」
言い換えができない言葉をしゃべらなければならない場面に苦手意識を持っている吃音の子どもは多い。単にどもるだけでなく、そうした場面を避けるべく、授業中発言しなくなったり、あるいは、「どもったらどうしよう」と意識することによってかえって、より苦しいどもり方をするようになっていったりする。そうした子どもにとって、セリフがある役を人前で演じきって観客や仲間に認められることは、「どもるからといって何もできなくなるわけではない」ことを実感し、「できない自分」という意識を変えるきっかけとなり得る。しかし、劇づくりの活動がもたらすものはこれだけにはとどまらない。
どもる子どもは、しばしば、特に年齢が上がると、話している相手よりも自分のしゃべり方に、つまり、自分がどもらずしゃべることができているかにもっぱら意識を向けてしまう。話している相手に、「なんでそんなしゃべり方なん?」「それ治らへんの?」と繰り返し言われてきた経験がそうさせるのだろう。また、吃音は、自分がしゃべりさえしなければ、隠すことができてしまう「障害」である。そのため、吃音に対して否定的な捉え方をもっている子どもは、時に、しゃべることを避け、人とかかわることを避けるようにもなっていく。
こうした子どもたちにとって、劇づくりの活動は、相手の言葉をしっかりと受けとめ、自分も相手に確かに働きかけることを試み、その喜びを経験する場となり得る。キャンプの劇では、どもっても笑われないし、せかされないし、「見栄えのよさ」も求められない。ただ純粋に、劇の世界のなかで、人とまっすぐにかかわることを追求することができるのである。
このことは、演劇教育の本質を考えるうえでも、示唆に富む。
残念なことに、今でも、演劇といえば教師によって決められた話し方や動作を「上手に」(多くの場合、それはオーバーで不自然な演技であるのだが)行うものであるという考えが、教師の間にも子どもの間にも根強く存在する。そうした「決められた話し方や動作」の基準から見れば、どもる子どもは多くの場合、「上手に」はできない。
しかし、キャンプの劇づくりの活動が示しているように、どもる子どもにも劇を楽しむことができるし、観客の心を打つ劇をつくりあげることもできる。この事実は、演劇教育の本質が、単一の外形的な尺度に基づいた上手さの達成にあるのではなく、人とまっすぐにかかわるという行為の経験そのものにあることを示している。
考えてみれば、どもらない子ども(および大人)の場合であっても、演劇活動のなかで、相手の言葉を受けとめ、相手に働きかけることが必ずしもできているわけではない。ただ、外形的な上手さの追求が比較的容易にできてしまうため、それに気付かずにいるだけなのだ。このキャンプの劇づくりでは、そうしたごまかしが通用しない。ただひたむきに、人にからだと言葉で働きかけること、他人からの働きかけを受けとめることを追求する。それは決してラクな作業ではないが、それこそが、からだの芯からの喜びと上演時の強烈な魅力とを生みだすことになるのである。
演劇教育は、うまく話せる子どもをもっと見栄えよく話せるようにするためのものではない。このことに、吃音親子サマーキャンプの取り組みはあらためて気付かせてくれる。
※キャンプ参加についての問い合わせは、日本吃音臨床研究会事務局まで。
電話 072-820-8244
日本演劇教育連盟と晩成書房の許可を得て、転載します。
(日本演劇教育連盟編『演劇と教育』晩成書房、第590号、2006年12月、36-45頁)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/09