吃音親子サマーキャンプの劇の意味
第33回吃音親子サマーキャンプが終わって約3週間、ようやくほんの少し、朝晩はしのぎやすくなってきたように思います。今、キャンプの感想がぽつぽつと返ってきています。改めて、夏の大きなイベントだったなあと思います。
さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2007.1.20 NO.149 より紹介します。巻頭言のタイトルは、「キャンプでの劇の意味」です。サマーキャンプの大きな柱である演劇に絞って、その意義を整理しています。
キャンプの劇の意味
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
私の吃音への苦しいこだわりは、小学校2年生の秋の学芸会『浦島太郎』で、セリフのある役をはずされたことから始まる。「伊藤はどもるからセリフのある役はできないんだ」と友だちから言われ、吃音に強い劣等感をもった。稽古が始まって、学芸会当日までの間に、私はそれまでの明るく元気な子どもから無気力で暗い消極的な子どもへと変わってしまった。吃音に対するマイナスの意識を持ったまま、学童期・思春期を生きた。
吃音親子サマーキャンプを始めた時、「吃音についての話し合い」と「表現活動としての演劇」は、どうしても入れたかった。私の『浦島太郎』体験が影響しているが、演劇の取り組みは《吃音と向き合い》《吃音とつき合う》上で大きな意味をもつ。
今回、吃音とは縁もゆかりもなかった渡辺貴裕さんが『演劇と教育』で私たちの吃音親子サマーキャンプの取り組みを紹介して下さった。直接の当事者ではなく、ある意味部外者の渡辺さんが、どんな思いで私たちのキャンプにかかわって下さっていたか、表現活動に取り組んで下さっていたかがよく分かった。それが、多くの人に読まれることは大変ありがたいことだ。
吃音親子サマーキャンプの意義について、私はこれまでたくさん書いてきたが、「演劇活動」にしぼって今一渡整理しておきたい。
《吃音と向き合う》
キャンプの大きな柱のひとつである「吃音について話し合う」ことだけが、《吃音と向き合う》ことではない。演劇に取り組むことは、自分がどもる存在であるという事実と向き合うことに他ならない。会話でよくどもる、朗読でよくどもるなど、どもる場面やどもる状態は子どもによってずいぶん違う。
友達と楽しく遊び、話し合いでも積極的に発言する子が、シナリオ通りに読んで演じていく劇の稽古になるとひどくどもる場合がある。遊びや話し合いではあんなに元気だった子どもが、どもっている状態を周りの子どもに知られ、一時元気がなくなることがある。3日間の劇に取り組む中で、これまでと違った形でどもる事実に向き合う。
《声を耕し、ことばを育てる》
吃音そのものを治したり、改善することを私たちは目指さないが、声、ことばについては、真剣に向き合い、耕そうとしている。どもっても、その場にふさわしい大きさの声を、表現豊かな声を、耕したい。目を伏せて、うつむき加減に話す子どもに、目の前の人に向かって話しかけようと励ます。演劇は、人と人とが向き合い、響き合うための、格好の教材だと思う。しかも、竹内敏晴さん脚本の劇は、演じていてとても楽しい。
《困難な場面に向き合う》
ナレーター役を名乗り出た子どもが、最初のことばが出ない。何度も何度も挑戦するが出てこない。周りからの激励やアドバイスにその子どもは怒り出した。そして投げ出した。その子どもに関わり、特訓をしたことがある。「次の日…」の「つ」が言えない。「つ」を言おうとするな、母音をしゃべれと提案し、「ういおい…」。しばらく練習をして、彼はグループに戻っていった。上演での彼のナレーターは見事だった。あまりどもらずにできたことに意味があるのではない。自分が苦手とすること、困難なことに挑戦し、工夫する。サバイバルしていく力を身につけて欲しいのだ。
《自分で自分を支える》
練習の時はそれなりにできていた子どもでも、140名もの人の前で演じるとなると緊張する。自分以外にも舞台には人が立っているとはいえ、セリフを言うときは、観客の目は一斉にその子どもに注がれる。逃げ出したくなる自分をひとりで支えなければならない。キャンプの場だけでなく、日常生活の中の困難な場でも自分で自分を支えなければならない。どもりながらも演じきるところに何か新しい「力」が生まれるのだ。17年間の中で、最終の上演から逃げ出した子どもはいない。
まだまだこの他にもあるだろうと思う。今後スタッフや子どもたちと「キャンプの演劇」の意味について語り、確認していこうと思う。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/07