吃音を生きる~第9回ことば文学賞 どもりとメガネのおかげで~

 第9回ことば文学賞を受賞した作品の紹介の続きです。これを読むと、どもっていれば、全員が悩んでいるはずだというのは、思い込みでしかないということを教えられます。コンプレックスと上手につきあう生き方を選択することで、吃音とも上手につきあえるようになったという作者ですが、僕も、吃音と上手につきあう生き方から、その他のさまざまな困難、生きづらさともつきあえるようになりました。僕はどもり以外の劣等感は全くなかったので、どもりによけいに深く悩んだのかもしれません。

  どもりとメガネのおかげで
                          鈴木直也

 大阪吃音教室に集まった人たちの多くは、「どもってはいけない、というメッセージを受け続けて育った体験」、「どもりを隠そうとした体験」、「人前でどもることに怯え、話すことを避けた体験」、「どもりに悩み、もがき苦しんだ体験」、「どもりを治そうとした体験」、「どもりを治すことができなかった体験」などを経て、大阪吃音教室にたどり着いたという。
 しかし、実は、私にはそのような体験はまったくない。その点で、私は吃音教室の中では珍しいタイプかもしれない。どもる人が、皆、吃音に苦しむとは限らない。吃音教室の背後には、吃音にそれほど悩まずに生きている多くの見えない人がいるはずだ。私の吃音そのものへのとらわれも小さかった。なぜ、私は、吃音にそれほどとらわれずに生きてこれたのか。それは、私が生まれもっての視覚障害者であったことと関係するかもしれない。
 幼い頃から、私は、周囲の人たちにとって、「どもり」である前に、「メガネ」だった。子どもの頃、私がかけていた眼鏡のレンズは、虫めがねのように分厚く、かけると目がものすごく大きく見えた。このドギツイ眼鏡と、レンズを通して映った大きな目の与える強烈なインパクトのために、私の第一印象はどこへ行ってもすぐに決まってしまった。
 私はよくどもったが、最初に言われることはきまって、「きっついメガネやな~」、「視力いくらぐらいなん?」、「そのメガネかけさせて」だった。初対面でも、ずうずうしい態度でからんでくる連中は、どこへ行っても、ひとりやふたりは必ずいた。彼らのなれなれしく軽薄な口調からは、「こいつだったらなめてかかっても大丈夫だろう」という優越感が透けて見えるようで、プライドの高かった私には、それが屈辱でならなかった。
 だから私は、視力のことや、眼鏡のことをネタにされることを激しく嫌った。なかでも、「メガネザル」は、当時の私にとっては最大の侮辱で、そのように言われたものなら、その瞬間に相手に殴りかかっていた。殴りかかった後にはきまって涙が溢れてきた。「喧嘩は泣いた方が負け」という暗黙のルールがあったのに、必死に涙をこらえようとしても止まらなかった。
 私は自分の眼鏡が大嫌いだった。誰がすき好んでこんなかっこ悪い眼鏡をかけるものか。生まれもっての障害という、自分にはどうしようもない運命に強制されたものなのだ。この先、視力はよくなる見込みもないし、コンタクトも医者から止められているので、これからも、生きている限りずっと、自分はこんな眼鏡をかけ続けるしかない。私にとって、眼鏡をからかわれることは、生まれ・現在・将来すべてを笑いものにされたに等しかった。こらえようとしても溢れてくる涙は、このような悔しさと絶望からだった。
 しかし、私は変わることができた。まず、「からかわれても相手にしない」という対処の術を身につけた。私は、数多くの意に沿わぬあだ名をつけられることがあったが、そういう時の一番の対処法は、決して返事をしたり、怒ったりしないことだった。反応すれば、そのあだ名が自分だと認めたことになる。「一体誰のことだか分からない。まあ、自分のことではないだろう」、そういう顔で知らんぷりをしていたら、そのうち、誰も私を、私の呼ばれたくないあだ名では呼ばなくなった。
 やがて、最初はからかいをやめさせるための手段として我慢して怒りを抑えて相手にしないようにしていたのが、ほんとに腹が立たなくなってきた。あれほど腹が立った「メガネザル」という言葉も、悠然と聞き流して、「俺の方がおとなだなあ」と、逆に自分の方が密かな優越感に浸るほどの心の余裕ができた。「きっっい眼鏡やな~」と言われても、「うん、俺、目悪いから」とふつうに返せるようになった。
 いつの間にか、私はいろんなことを受け入れられるようになっていた。私は、障害やメガネ以外にも、背が低いことや、惨めなまでの短足であることなどのコンプレックスも抱えていた。思春期のおとずれが早かった私は、そのことでも、障害やメガネと同じぐらい悩んだ。しかし、いつの間にか、「身長や足の長さを恋人の条件にする女の子なんてこっちからお断りだ」と気にしないようになっていた。身長も足の長さも、障害もメガネも、私が悪くてそうなったわけではないし、変えようがない。以前なら、「だからこそ悔しい」とやりきれない気持ちになっていたのが、「だからこそ、そんなことで私を判断する人間など、所詮たいした人間ではないのだから、そんなやつらから何を言われ、どう思われようがかまわない」と思えるようになった。小学校4年生頃のことである。
 その頃には、どもりも、もう気にならなくなっていた。私は、よくどもったが、おしゃべりで、明るい子どもに成長していた。
 私が、どもりを隠そうなどと一度も考えたことがなく、どもりながらでも明るく生きれたのは、こうしたバックグラウンドがあったからこそである。メガネとその他の多くのコンプレックスを受け入れることは、どもりを受け入れることにそのままつながっていた。私はどもりであるうえに、メガネで、チビで、短足で、小太りで、運動音痴で、喘息もちで、不器用で、どんくさく、ぐずでのろまだった。みんながふつうにできることで、自分だけができないことが多すぎた。しかし、だからこそ、私は、まわりの男の子と同じようにかっこつけることを早くに諦め、自分を活かす別の道を考えることができたのである。私は、「いじられキャラ」(※)として、クラスメイトや先生から、それなりに可愛がられた。どもりは、「いじられキャラ」の私には、うってつけだったに違いない。
 「かっこよさ」には、「ほんもの」と、差別や偏見にもとづいたものや、非合理的で上っ面だけの「にせもの」が混在する。子どもの世界は特にそうだ。しかし、私は、まわりの男の子と同じようにかっこつけることができなかったおかげで、まわりに流されず、「ほんもの」と「にせもの」を峻別する力を身につけることができた。「どもりはかっこ悪いことだ」という偏見は、どこからともなく入ってきた。しかし、「ほんもの」と「にせもの」の峻別ができていたから、私は、「そんなことは、にせもののかっこよさにとらわれた人たちの言うことだ」と聞き流し、惑わなかったのだと思う。
 「ほんもの」と「にせもの」を峻別する力は、思春期に数多くのコンプレックスと向き合う中で鍛えられ、私の「根」や「芯」となり、私のすべてを支えている。もし、私のコンプレックスがどもりだけだったら、思春期にはやはり、どもりを「かっこ悪いこと」と否定し、必死に隠したり、治すことばかり考えていたかもしれない。その意味で、数多くのコンプレックスを背負っていた私は、コンプレックスがどもりしかなかった人より、きっと幸運だったのだ。
 私のまわりには、在日朝鮮人であることや、部落の出身であることや、精神科に通院していることを隠し続けている人たちがいた。背が低いことや、アトピー性皮膚炎による顔の湿疹や、にきびや、くせ毛や、怪我による傷で頭の一部に毛が生えなくなってしまったことにずっと悩み続けている人たちがいた。そして、吃音教室で、どもりを隠し続けてきた人たちの辛い体験をたくさん聴いた。彼らの背負ってきた辛さを、他人の私が推し量ることはできない。しかし、そういう人たちに出会うと、私はいつも悲しい気持ちになる。もし、私が彼らの立場だったら、おそらく、隠さない生き方、受け入れて上手に付き合う生き方を選択しただろうと思う。
 私は、どもりとメガネと、その他、多くのコンプレックスが重なったおかげで、わりと早くに、隠さない生き方、受け入れて上手に付き合う生き方ができるようになった。私は、そういう生き方を選択した自分自身に、どもりながら生きる道を選択した大阪吃音教室の人たちに、隠さない生き方を選択したすべての人たちに、あたたかいエールをおくりたい。
 ※「いじられキャラ」とは、他人が「ツッコミ」をいれたり、好意的にからかうことによって、ちょっとズレた言動やユニークなリアクションなど、その人独特の面白さや持ち味が発揮される人のことです。

〈作品に寄せて〉
 タイトルの、おかげで、という視点が新鮮でおもしろい。作者は、どもりで、メガネで、チビで、短足で、小太りで、運動音痴で、喘息もちで、不器用で、どんくさく、ぐずでのろまでと、まるで楽しむかのように、コンプレックスを挙げている。「だからこそ、私は、まわりの男の子と同じようにかっこつけることを早くに諦め、自分を活かす別の道を考えることができた」との体験は、確かに説得力をもつ。コンプレックスが自分を成長させ、コンプレックスがたくさんあることが却って幸運だったと言い切るところが清々しい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/06

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