吃音を生きる~第9回ことば文学賞 僕の帰る場所~

 NPO法人大阪スタタリングプロジェクト主催のことば文学賞は、2006年に、9回目を迎えていました。ことばを通して、吃音について、人間関係について、生きるということについて、書き記していこうというこの試みは、僕たちの活動の大切なひとつになっています。
 寄せられた11の作品ひとつひとつに、その人の人生が刻み込まれています。力作ぞろいの中から、2作品を紹介しましょう。(「スタタリング・ナウ」2006.12.18 NO.148)

【最優秀賞】 僕の帰る場所
                       堤野瑛一(27歳、パートタイマー)

 19歳の時、僕は初めて大阪の吃音教室を訪れた。どもる人達のためのセルフヘルプグループだ。その時僕は、勉強したい一心で進学した大学を、吃音に悩まされて休学中だった。
 僕は高校2年生の頃からどもり出した。それ以前は、言葉を発するのに苦労した経験など、一度もなかったのに。それでもまだ、高校にいる間は、誰にも吃音を悟られる事なく、何とか騙し騙し、上手くごまかしながらやって来れた。大学に進学した当初は、どもりがある自分が、これからまったく新しい環境で学生生活を送っていく事に対して、多少の不安はあったものの、まあ何とかなるだろうと楽観視していた部分もあった。しかし実際は、何とかならなかった。
 ある授業に出席した時、初回という事で順番に自己紹介を求められた。初対面の人ばかりに囲まれている緊張もあったのだろう、そこで僕は、初めて人前で激しくどもった。必死で自分の名前を言おうとするが、何秒経っても、最初の音がなかなか出てこない。何とか出そうと力んで引きつった僕の顔を、みんなが見ている。ある人は不思議そうに僕をうかがい、ある人は驚いた様子で、ある人はヒソヒソ、クスクスと何かを言って笑っている。ただ自分の名前を言うだけなのに、そんなにどもるなんて普通ではないし、それは可笑しいだろう。恐れていた事が遂に起こってしまった。僕は絶対に他人には見せてはならない恥部を、この時初めて、さらけ出してしまった。何とも言えない恥辱、屈辱感だけが僕の頭の中を駆け巡り、その後の授業など、身に入るはずもなかった。
 それ以来僕は、いつでもどもる恐怖に駆られ、不本意に人を避け、同じ学科内で友達も作る事が出来ず、喋る事が必要な授業には出なくなった。しかしそんな事を続けていては、単位を取得出来ずに卒業も出来ない。このままでは駄目だ。何としてでもどもりを治さなければ、自分に将来なんてない。一年間休学して、吃音の治療に専念しよう。そう決心した僕は、学校に休学届けを出し、まず病院でスピーチセラピストの先生からカウンセリングを受け始めた。その先生の勧めで一度、大阪吃音教室を訪れる事となった。
 僕はそこで、初めて自分以外に、どもる人達をたくさん見た。吃症状の差こそあるが、多かれ少なかれ、みんな自分と同じようにどもっていた。僕はそのたくさんのどもる人達を見て、益々惨めな気持ちになった。格好悪い。不欄だ。自分も端から見たら、ああいう姿なのか。思わず目をつぶり、耳をふさぎたい気持ちだった。
 教室でまず初めに得た情報としては、吃音は治らない、治す事は諦めた方が良い、という事だった。そこの教室では、決してどもりを治そうとはしない。どもりは治そうと思って治せるものではないと、自分は吃音者である事実を認めて、しかしどもりながらでも、いかに自分らしく豊かに生きていくかを提唱していた。事実、かなりどもりながらでも、その人なりに豊かな人生を生きている人は、たくさんいるのだという。
 しかも予想外な事に、ここの教室は、来る前に僕が想像していた、暗くて地味で、慰め合いのような雰囲気とは大きく違い、終始みんなが楽しそうで、笑いも多く、どもっているにも関わらず活き活きとしているように見えた。僕にはそれが異様に思えて、同じ吃音者同士の輪の中にいるのに、疎外感をもった。
 何が一体そんなに楽しいのだろうか、みんな吃音者なのに。どもりながらでも豊かに楽しく生きられるなんて、とんだ綺麗事だ。やせ我慢だ。それに多くの吃音者は、物心ついた幼い時分からどもっていた、いわば先天的などもりなのだろうけど、自分はついこの間まで“普通”だったんだ。喋る事に苦労など一度もする事なく、これまでやって来たんだ。自分の吃音は後天的なんだ。今、一時的に病んでいるだけなんだ。先天性の吃音は治らないのかも知れないが、自分は何とかすれば、きっと治るに違いない。必ず元に戻れる。自分は、この人達の仲間になんか入りたくない。
 頑なにそう思った僕は、ここにはもう二度と足を踏み入れる事はないだろうと、一度参加したきりで、教室をあとにした。
 “何としてでも吃音を治さなければ、お先真っ暗だ。自分に人生なんてない、絶望だ”“吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬしかない、そのどちらかだ”そう考えていた僕は、どもりを治す事だけに、毎日必死になった。病院に通い、精神安定剤らしき薬も処方してもらったが、どうもこんなものでは何も効果がない。薬や医者だけに頼っていては駄目だ、自分で思いつく限りの努力をしなければと、毎日、発声練習もした。ただ声を出すだけでは駄目だと試行錯誤し、鏡に映る自分を相手に見立てて喋ったり、緊張を強いるために録音をしてみたり、自分がどもりやすいシチュエーションを出来るだけリアルに想像して故意にどもる状態を作り、そこから出来るだけ瞬時に口内の硬直をコントロールして吃状態から抜け出す技術を身につけようと頑張ってみたり、家族と喋る時には敢えてどもりやすい言葉を選んで喋ってみたり、自分なりに工夫を重ね、色々やってみた。しかし、いざ外へ出て話す機会に遭うと、一切の努力は報われる事なく、相変わらずどもり、思い通りには話せなかった。むしろ、吃音を意識し過ぎる余り、今まで以上に話す事が怖くなった気さえした。
 ある時、催眠術を試してみてはどうかと思い立った。これはひょっとしたら効くかも知れないと、収入のなかった僕は、決して安くはない料金を親に支払わせ、決して快い意思は示さない親の態度に苦い思いをしながらも、治るかも知れないという期待を膨らませ、催眠療法に通い始めた。しかしいくら通っても、吃音には一向に変化がない。期待は呆気なく打ち砕かれた。高額である事もあり、ある時点で見切りをつけ、催眠療法に通うのはやめた。多額のお金を捨てに行っただけ、という虚しさだけが残った。
 結局、どもりには何の変化もないままに、復学の時は刻々と近づいてくる。焦りに焦って、もう大学は辞めてしまおうか、自分の人生はこれでお終いなのかと、頭を抱えた。しかし、スピーチセラピストの先生が親身に復学する事を推してくださり、何とか励まされ、勇気を振り絞って復学の時を迎えた。しかし結局僕は、しばらく大学生活を送っていく中で、吃音の苦悩に押しつぶされ、一年も通学しない内に、不本意ながらも退学してしまった。何とも言えない虚脱、無力感、どもりでさえなければという悔しさでいっぱいで、僕は途方に暮れた。
 以後数年間、何をするわけでもなく、無気力な生活が続いた。それでも、何とか吃音を治したい、治さなければ生きてはいけないという思いは強く、吃音が治るかも知れないと聞けば、鍼やお灸にも通い、気功による整体もしばらく続けた。行く先々に対してどうしても“今度こそ”という期待をもってしまい、しかしその期待は裏切られるばかりなので、結局はどこに行っても、かえって心の傷を深くしてしまうだけだった。
 そして、いつしか僕は、もう自分の吃音を頑なに拒絶し続けるのに、疲れ果てていた。これだけの事をしても治らない吃音を、何とか治そうとエネルギーを遣うのにも、かなり消耗していた。気がつけば、吃音に対する激しい反発心や、人生に対する抜け道のない絶望感さえも徐々に衰え、以前に比べれば気持ちに落ち着きが出て来て、もう充分に頑張ったのでないか、治す事は諦めた方が楽になれるのではないかと、大袈裟な表現かも知れないが、そんなある意味“悟り”のような、穏やかな心境になりつつあった。
 そして更に気がつけば、あれだけ他人に知られる事を恥や恐れとしていた吃音の事を、「僕はどもります」「僕は吃音者です」と、自分から他人に話すようになっていた。以前ならどもりそうになると、他のどもらない言葉に言い換えたり、話すのをやめたりしていたけど、どもりをさらしながら話をする事も多くなっていった。そして冷静に見てみると、僕の事を吃音者だからといって拒んだり、嘲笑するような人は、そう多くはいないという事も実感した。
 以前の僕は、“吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬか”の二者択一だったけれど、新たにそこに、“どもりながら生きてみようか”という、第三の選択肢が生まれた。
 「僕は吃音者だ」
 そんな風に思えるようになった頃、ふと、以前にたった一度だけ参加した大阪吃音教室の事を思い出した。あそこには、自分と同じくどもる人達がたくさんいる。また参加してみたいと思い立ち、あれから数年を経て、僕は再び、教室に足を踏み入れる事となった。
 教室に入ると、相変わらずどもる人がたくさんいた。以前はあれだけ、仲間になんか絶対になりたくないと拒絶し、見るのも嫌だった吃音者。しかし今回は不思議と、たくさんの吃音者を見て、ホッとした。今までひとりで背負い込んでいた重たい荷物を、ようやく降ろす事が出来たような、軽快な気持ちになれた。
 自分ひとりではない、仲間がたくさんいる。そんな風に思えて嬉しくなり、元気をもらった。そして以前のように疎外感をもつ事もなく、終始、楽しく充実した時間を過ごす事が出来た。
 吃音をもちながらでも豊かに生きられる。今はその事を、むしろ現実的と感じ、素直に受け止められる。ここにいる人の多くが、時には不便な思いをしながらも、その人なりに何とかやっている。
 大阪吃音教室に通い続けて、かれこれもう四年を過ぎた。すっかり馴染みの顔になってしまった。毎週教室に来ると、思わず「ふう」と溜め息が漏れ、出掛けると言うよりも、今週もここに帰って来れた、という気持ちになる。今では僕にとって吃音教室は、もうひとつの家、僕の帰る場所だ。

〈作品に寄せて〉
 どもる事実を認めることができず吃音を治そうと懸命になった日々。大阪吃音教室に出会っても、ここは自分の来るところではないと拒否し、治そうともがき続けた日々。一人のどもる人間の心の歴史が淡々と、丁寧に綴られている。寄り道をし、回り道をして、再びめぐり合った大阪吃音教室が、帰る場所であったというしめくくりは、吃音教室参加者の共感を呼ぶだろう。人には出会うべくして出会う時期というものがあるのかもしれない。作者とのこれからのつながりが見えてくるようである。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/05

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