吃音であること(=できないを自覚できること)の幸せ
第17回吃音親子サマーキャンプの特集をしている「スタタリング・ナウ」を紹介してきました。そのキャンプに、平井雷太さんが参加していました。
平井さんは、小学2年生のとき、担任からせりふのある役を外された経験を、不当な差別だと思っていた僕に、「やさしさ暴力」ということばで配慮の暴力に気づかせてくれた「いじめられっ子のひとりごと」という詩を書いた人です。
平井さんという、どもる人だけれども、ある意味、部外者の目から見た、吃音親子サマーキャンプの描写は、新鮮でした。「スタタリング・ナウ」2006.10.21 NO.146 から紹介します。
吃音であること(=できないを自覚できること)の幸せ
セルフラーニング研究所 所長 平井雷太
私がキャンプに参加したのは
カンボジアに行く直前なのに、吃音親子サマーキャンプに参加した理由は簡単です。TBSの『報道の魂』という番組を観ていたからです。このキャンプで何が行われているのか、ものすごく気になっていました。どうして子どもたちがあんなに活き活きと自分の吃音体験を、マイクの前で語れるのか、私には信じられない光景でした。こんな子どもたちと会ってみたい。どうしても実際にキャンプに参加してみなければと思ったのです。
キャンプに申し込んでから、カンボジア行きの日程が入りました。大学の先生が、カンボジアに学生を数名連れていって、中学校に入学する直前の子どもたちに日本語の授業をするようになって、今年で3年目。そのプログラムで、私が作ったらくだ教材を子どもたちに提供できる機会を持てるのです。日程は私の自由にはなりません。それでも、8月27日に日本を発つので、26日の昼までならキャンプに参加できると思い、最初の予定通り、キャンプに行くことにしたのでした。
私は一応スタッフとしての参加だったのですが、スタッフも全員参加費を払っての参加で、キャンプでの役割は本人の事前の同意なしにほとんど決められているのです。キャンプ当日まで、一切ミーティングはしていません。日本吃音臨床研究会代表の伊藤伸二さんと事務局の溝口稚佳子さんが決めているのです。それでいて文句を言う人は誰もいません。これ自体すごいことだと思いました。
そんなスタッフの総数約40名のなかにはスタッフ見習いの大学生が6名。参加者全体では、スタッフも合わせて、150名弱。小中学生は家族参加が原則ですから、約40家族の参加です。
キャンプでは、学年別の話し合いが2回、劇の上演が2回(初日のスタッフの見本と、最終の子どもの上演)、作文、劇の練習2回、山歩き、ふりかえりと、やることは目白押しで、その間にスタッフのミーティングに食事に入浴があるのですが、追い立てられる感じはほとんどしませんでした。
私の役割として、中学生8名の話を聞くというのがあったのですが、時間に集まっている場所に行くと、2回とも全員がそろっていました。それはスタッフのミーティングでも同じでした。吃音の人はかなりセンサーが敏感で、一般人と比べて、人の気持ちがわかる人が多いことが関係して、「時間を守る」傾向があると言えるのでしょうか。
中学生の話し合い
吃音の中学生8名と一緒に話す機会なんて、ここにこなければ、これからも一生なかったと思うのですが、貴重な体験をしました。一番驚いたのは、このなかに放送委員に立候補した人が二人いたことです。それでも一人は「なるべく聞く人が少ない放課後の放送を希望した」と言っていましたが、それでも吃音の私からしてみれば信じられないこと。また、音楽会の司会に立候補したという人もいました。できないことにチャレンジするためには、できないこと、苦手なことがないとできないわけですから、この子たちは極めて恵まれているのかもしれません。もしかすると、新時代を切り開くミュータント(突然変異体)なのかもしれないと、話を聞きながら思ってしまいました。
新しいスタッフのための学習会の場で、キャンプに何度も参加し、演劇を何度も体験するなかで、「最初はできるだけ少ないセリフの役を選んでいたけど、人前でどもってもいいんだと思えるようになってから、できるだけ目立つ役をやりたくなった」とか、「自分から希望して主役をはった」という話を大学生の新スタッフから聞いた話とも重なって、この中学生たちの延長に彼らがいるのかと、そのつながりが見えるようでもありました。
私の吃音は決まったときに、決まったタイミングで、決まったセリフを言うのが苦手な吃音ですから、演劇なんて、いつも逃げてきたのですが、子どもたちのなかには、それを吃音克服の手立てに使っている子が何人もいましたから、これも新鮮な驚きでした。私にとっては、音痴の私が習った歌を人前で披露する以上の体験です。
8人の中学生と話し合っているときに、「どもりとは、~です」という文章を作ろうという話になって、私は「どもりは病気です」と書いたのですが、その場にいた中学生8人と大人3人に小学生1人の計12名は次のように書いていました。
・どもりは、プラスマイナス1です。(大人)
・どもりは、うまくしゃべれない症状です。
・どもりは、クセです。
・どもりは、個性です。
・どもりは、人生です。(大人)
・どもりは、100人のうち1人につくクセです。
・どもりは、生き方を問うものです。
・どもりは、松葉杖です。(小学生)
・どもりは、人生の別れ道です。
・どもりは、個性です。
・どもりは、時と場合によって変わるクセです。
また、「吃音だと将来の可能性が狭まる」という中学生がいたので、「20年後の自分は何をやっているか、書いてみよう」と提案しました。私は、「確実な基礎学力をつける『らくだメソッド』を世界の隅々に届ける人たちを送り出す仕事をしている」と書いたのですが、子どもたちはこう書きました。
・自分の子どもと吃音サマーキャンプに来ている。
・学者(物理)
・自衛官、F1関係、水泳関係
・吃音の研究者か臨床家
・サッカー選手になって、ヒーローインタビューを受けている。
・手話ニュースのキャスター
・サラリーマン、教師の類、フリーター、ニート
親子で参加の意味
今回来てみて、思ったのは、親子で参加することの意味です。子どもが吃音であるおかげで、親の問題意識と関心が広がるとしたら、そこからどんな世界が展開していくかわからないのですから、本当にすごいキャンプだと思ったのでした。
このようなキャンプが小学生のときにあっても当時の私なら多分参加していません。吃音親子サマーキャンプという文字を見ただけで、抵抗を示し、そこに行くだけで、自分の吃音を認めることになるからです。小学生のときに私あてに、「ことばの相談室」の案内が送られてきたのを見て、内心「なんでこんなのが私にところに来るんだ。先生が告げ口したに違いない。私はこんなところに行く人間じゃないんだ」と思い、屈辱的な気分で、この葉書を破ったことを鮮明に覚えています。
そんなふうに思っていたにもかかわらず、通学路の電柱に張られた「どもり・赤面対人恐怖」という貼り紙を見ると、自分のことを言われているような気がして、伏し目がちにその前を通っている私がいました。自分のなかでは、私はどもり・赤面対人恐怖だとの自覚がありながら、人から言われると、「そうじゃない」と否定したい自分がいたのでしょう。だから、どもりを治そうとするより、どもりであることがバレないようにと、そっちの方にエネルギーを使っていたように思います。
ですから、自分が吃音であることを認め、親子でこのようなキャンプに参加するなんて、私には信じられないことでした。私が小学生のとき、母には一度だけ、自分がどもりであることで、学校でどれだけ苦しい思いをしているかを泣きながら話したことがあるのですが、ただ黙って聞いてくれただけでした。何もしてくれません。人に話しても、無駄だと思いました。このときの母の対応は、同情するでもなく、一緒に困るでもなく、いまにして思えば、あれが一番よかったのかなとは思うのですが、当時の私にしてみれば、私の苦しみは私にしかわからないと思い、「話さなければよかった」と後悔しました。ですから、それ以来一度も誰にも、私が吃音で悩んでいることを打ち明けたことはありません。
私と吃音との新たなつきあい
ところが私が吃音のことを47歳のときにチラッと文章に書いたことで、伊藤伸二さんと知り合い、吃音をテーマにして、人前で話すことになってしまったのです。それは50歳のころだったと記憶していますから、約40年間は、自分の吃音について人に話すことはなかったのです。
伊藤さんと吃音について人前で話したのですが、自分にとって恥ずかしいと思っていたことを人に話しても、意外と平気だったというより、むしろ、心地よかったことで、次には私から自分が躁欝(そううつ)病であることを講演会で話すようになりました。自分の抱えている問題を人に話すことで楽になれることを体感できたことで、それをすることに意味を感じるようになったからでしょう。
私が体験してきた教育の世界のなかでも、同様のことがあって、「できることよりもできない現実にこそ、意味があり、できない現実を受け入れることで人は育つ」という思いが確信に近いものになっていきました。
ひるがえって、いまの子どもの最大の問題は、できそうなことしかやらないこと。自分のできない現実がはっきりしていても、ちょっと面倒だとやらない。できそうなこと、○になることばかりやる。自分で自分に×をつけることは大嫌い。しかし、私が作った「らくだメソッド」で学ぶと、必ず一人ひとりの学習者ができない課題にぶつかるようになっているのです。らくだ教材には、1枚1枚のプリントに目安時間が記されていますから、その時間台でできて、ミスが3個以内であれば合格で、次のプリントにすすめるのですが、いままで2・3回の繰り返しですすんできても、自分の苦手な箇所(多くの場合、÷2ケタの割り算・約分)にぶつかると、同じプリントを20回やっても、30回やっても、合格しなくなる人もいます。そうなると、嫌になり、投げ出したくもなります。自分はダメ、算数は苦手、向いていないと、やらない理由を探してサボりはじめるのですが、こんなふうになるからこそ、「らくだメソッド」をやっている意味があるのです。できないことを自覚できれば、やればいいだけの話ですから、なかなかできないプリントにぶつかった子どもは、本当は幸せです。集中力、根気、ねばり強さ、あきらめない力、壁を超える力は、すべてできないところで育つからです。
そんなふうに考えていましたから、吃音であることは最初から、できない状態があるわけで、自覚せざるをえないのです。否応なく、この現実と向き合うことを強いられるわけですから、なんと幸せなことなのかと思いました。それは、今回のキャンプでも感じたことです。中学生たちとの話し合いのグループに入ったことで、自分から放送委員に立候補したり、音楽祭で司会に立候補したりと、苦手に向かっていくような中学生が何人もいることを知りましたが、それは、自分が吃音であることを認め、それを受け入れていると起きる当然の現象なのかと思いました。
人みしりの私
しかし、今回のキャンプで私が認めたくなかったことを認めるしかない一つの体験がありました。私は集団でいることが苦手で、世間話ができないのです。聞かれれば話すのですが、自分からすすんで話題を提供し、話の輪のなかに自分から入っていくことができません。ですから、今回のキャンプでも疎外感を感じ、それは、自分が吃音だからと思っていたのですが、どうもそうではないようです。その疎外感を吃音のせいにすることをやめたら、今回のキャンプにはじめて参加して、自分と同じように集団のなかに溶け込めないでいるお父さんたちの姿が見えてきました。だからといって、そのお父さんたちに話しかける気力もなく、疎外感を感じたままの自分でいいと思っていたとき、話しかけてくれたのが、伊藤照良さんでした。伊藤伸二さんが大阪教育大学で教えていたときの教え子で、「吃音者宣言」を持って全国巡回吃音相談会にも同行したと聞いて、そんな現場に立ち合った方がこのキャンプに参加され、いまでも一緒に活動されているのかとうれしくなりました。人との出会いは話してみなければわからないことだらけですが、もし、事前の資料のなかに来ている人の自己紹介のようなものがあったら、人みしりの私でも人に対してもうちょっと積極的になれたかなと思った今回のキャンプでした。
らくだ教材
ちなみに、らくだ教材は私が一言の説明をしなくても、子どもの力だけで解くことができる教材として作りました。つまり、生徒が聾者であっても学ぶことができる教材ですから、カンボジアの子どもたちであっても、解くことに支障はないだろうという確信はありました。確実な基礎学力を保障できると思っての試みだったのですが、わずか4日で予想通りの成果を上げることができました。今度、中学生になる210名の子どもたちに大人3名でかかわったのですが、来年も訪問することになっています。
以前、私は授業中心の塾をやっていたときもあるのですが、それだと、授業の質が私がそう状態かうつ状態であるかとか、話し方の善し悪しに左右されてしまいます。それがらくだ教材だと、授業をする必要がないのですから、なんの影響も受けません。そんな教材ができたのも、私が吃音であったことが影響しているように思います。その結果、教師中心ではない、子ども中心の教育が私のなかに生まれたのですから、何が幸いするかわかりません。また、それは、結果として、どんなにうつで落ち込んでいるときであっても、子どもとかかわる上で、それが何の支障にならない教材になっていたのでした。
平井雷太
『セルフラーニングどの子どもにも学力がつく』(新曜社)
『らくだ学習法』(実業之日本社)他著書多数。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/01