第17回吃音親子サマーキャンプ~吃音親子サマーキャンプ基礎講座~

 第17回吃音親子サマーキャンプを特集した号の巻頭言を紹介した翌日から、今年の吃音親子サマーキャンプに突入し、その報告をしていて、続きの紹介までにかなりの時間が過ぎてしまいました。
 「スタタリング・ナウ」2006.9.20 NO.145 では、サマーキャンプ2日目の午前、作文教室と平行して行われるサマーキャンプの基礎講座に焦点を当てて、報告しています。今年のサマーキャンプでもこのプログラムはありました。サマキャン卒業生スタッフにとっては、サマーキャンプの裏側を知る貴重な機会にもなっています。

第17回吃音親子サマーキャンプ
 今年も多くのドラマを生んで、17回目のサマーキャンプの夏が終わった。
 申し込みの時点で今年はキャンプ史上初の参加者150人の大台にのるかと思われたが、結局は例年並の143名が、遠くは、九州地方の大分・福岡、関東地方の埼玉・千葉などから、滋賀県立荒神山少年自然の家に集まった。初参加者が例年より多かったこと、昨年のキャンプを卒業した子たちが若手スタッフとして参加したことで、新鮮な雰囲気の中、キャンプがスタートした。
 今回は、2日目の午前中のプログラム・作文教室と並行しているプログラム「新スタッフとの懇談会」に焦点を絞って、キャンプを振り返る。この90分は、初参加のスタッフのキャンプに対する疑問や質問にこたえながら、キャンプがこれまで大切にしてきたことを確認していく時間となる。昨年卒業したばかりの新スタッフにとっては、キャンプの裏側を初めて知ることにもなる貴重な時間となった。
 キャンプは高校生までしか参加できない。従って、その子どもと親以外はすべてスタッフとなる。昨年卒業した高校生が大学生となった。試験と面接に合格した(?)人がスタッフ見習いとして迎えられる。今回はその5人に、セルフラーニングの平井雷太所長とことばの教室の教師3名、言語聴覚士の専門学校の学生、久しぶりに参加の言語聴覚士がこの話し合いに加わった。

伊藤 キャンプが大切にしていることを初めて参加のスタッフに知ってもらおうと、この時間にこんな話し合いをしています。キャンプの大きな特徴は、どもる人がスタッフで半分近くいるということ。これは、とても大事なことです。
 まず、去年、卒業して今年スタッフとして参加した人に、感想を聞いてみよう。

浜津 中学校まではずっと参加していて、クラブのために高校からは参加できなかったので、少し自分が楽しんでいるところもあるんです。でも、スタッフになって、観察すると、こんな感じやったんや、こういう気分でやるねんなあとかが分かるようになってきた。

小川 参加者と違って疲れます。すごく忙しくて。

小野 一番変わったのは、参加者だったら、周りの大人が見てくれてたけど、今は逆に面倒を見ないといけない。劇を教えたことがないので、大変です。裏で人が動いてるというのが分かった。

保坂 全然違いますね。参加者のときは、話し合いが終わった後も、みんなと話してたけど、今回は、次の仕事があったりして。スタッフはこんなにがんばってたんだと初めて知りました。

長尾 参加者としてが長いから、参加者気分の方がだいぶんありますね。

参加者もスタッフも対等
伊藤 このキャンプが大切にしていることは、参加者は対等であるということ。参加者意識が抜けないのはとてもいいことなんです。私は世話する側だから、何かしなきゃならんなんてあまり思う必要はない。今のそれでいいと思う。

平井 参加者と対等って言ったけれど、絶対対等じゃないと思う。伊藤さんがそう言っても、こっちが伊藤さんと対等とは思えない。対等の中身についてもう少し詳しく話して下さい。

伊藤 経験者としての浅い・深いの違いや、僕はこのキャンプの責任者であるという役割はある。だけど人間としての対等性を常に意識している。そうでないと、僕が大切にしていることが崩れてしまう気がする。子どもや親は助けられたり、指導されたりの弱い存在ではなく、何かのきっかけで「変わる力」をもっていると信じているからです。指導する側とされる側、教える側と教えられる側の一方通行ではなく、一緒に学び合っていきたいからです。

平井 指導者意識はないと言ってしまうのは簡単だけれど、どうすると、なくなるのか。

伊藤 指導する側に常にいるという意識を捨てることでしょうね。自分は一参加者なんだと思っているというか。なんとかしてあげようとか、世話をしてあげようという意識を捨てる。

平井 だからといって、何もしないわけじゃないよね。

伊藤 もちろん、スタッフとしては、いろいろとやってるんだけど、それは「してあげている」が消えて、僕たちも勝手に楽しんでいる。一緒にキャンプを楽しむとしか言いようがないなあ。

話し合いの意味
楠 私は、ことばの教室を担当しています。通級している子どもたちは、みんなそれぞれ悩みや課題があるゆえに、同じ年齢の子たちよりも洞察力が深いという気がしているんです。昨日の4年生の話し合いでも、自分のことをとてもよく見ている。自分の辛かったこととか、周囲がどういうふうに働きかけてきたか、ということをひとりひとりが話せるのがすばらしい。自分のことを話せる力があるということを改めて実感しました。

伊藤 中学生が、高校生が自分を語る姿を見て、自分を語るときにこう表現をすればみんなに分かるのかと学び、自分も語ってみようと思う。自分を表現する練習のようなことができる。キャンプに参加して、モデルを見ながら少しずつ歩んでいるのでしょうね。

劇の意味
伊藤 劇の稽古と上演は大切なプログラムだけれど、基本的に、うまく上演することには全く関心がない。声がなかなか出ない子や、いつまでも台本に向かってぼそぼそ話している子に、セリフを覚えて、アクションを使って相手に向かって話せということは言いますが、セリフを覚えてちゃんと上演することが必要なのではない。実際に上演されたものが、はちゃめちゃであったとしても、それは別にどうってことはない。
 キャンプの大きな柱として考えているのは、子どもたちの吃音と向き合う力、それをことばで表現する力、自分の気持ちや考え方をことばで表現する力が育ってほしいことです。病気や障害のある子どもなどの療育キャンプで、これだけ長い時間集中して話し合ったり、作文を書いたり、自分と向き合う時間を持っているキャンプはまずないと思う。
 僕たちが17年前からずっと大事にしてきたのは、結局親も教師も基本的には何もできないという所に立って、子どもたちが自分の力で困難に向き合い、そして「困難を自分で解決する力」を少しでも持ってほしいということ。どもる子どもにとって困難な場面で、できたら避けたい、逃げたい場面は、朗読や人前での話、そして劇だろう。僕たちも主役はやらせてもらえなかったし、道具係だったりした。どもりそうなことばがせりふにいっぱいあるのに、そこに挑戦して、実際に舞台ではどもってどもって、それでも最後まで言い切る、そういう困難な場面に直面して、そしてそこから自分もやれるんだということを実感してほしい。
 キャンプを始めた最初のころ、言語聴覚士の専門のスタッフと意見が対立しました。それでなくても吃音に悩み、ストレスを受けているどもる子どもに、こんな辛いことをさせるのはかわいそうだと言われた。決められたせりふではなく、子どもたちに全部シナリオを作らせて、楽器を使ったりして楽しくすべきだと、激しい議論をしていました。(「スタタリング・ナウ」134号一面「楽しさと喜び」参照)
 今のスタイルになってだいぶ経ちます。お芝居も、学校の学芸会のようなものではなく、本格的なもので難しいです。竹内敏晴さんが毎年書き下ろして作って下さいます。
 このような本格的な芝居に取り組む意義は、子どもたちに提供するひとつの課題であったとしても、良質のものにしたいという思いがあります。キャンプの運営の事前準備はほとんどやってないけれども、お芝居に関しては、1泊2日の合宿で、かなり時間をかけて竹内さんの演出指導をスタッフが受けて、直前にも練習しています。
 困難な場面にぶつかったとき、避けたり逃げたりしないで、それに向き合って、そして自分の力でなんとか解決できるぞという解決能力をつかんでほしいという思いなんです。これが演劇の目的です。さらに声も大きく豊かにしたいし、表現力も豊かにしたい。
 吃音にもいろいろなタイプがあって、普段友だちと話す時はいいが、発表や朗読がダメだとか、その反対の子もいる。今まではしゃいでしゃべっていた子が、劇では急にどもり始めて、自分と向き合わざるを得なくなる。それが酷だと言われた。

平井 伊藤さんはそういう姿を見て、どう思う?

伊藤 僕はどんなにどもっている子どもを見ても、平気ですよ。でも、30年くらい前はそうではなかった。やっぱり人がひどくどもっているのを見ると、自分のことのように嫌だなあという思いはありました。でも、30年ほど前からはどんなにひどくどもっても、かわいそうとも思わないし、まあいいか、今日はようどもってるなあと思うくらいですね。そのあたりが、専門家と当事者との違いがあったんじゃないでしょうか。

平井 演劇を嫌だという子はいなかったんですか。

東野 いました。無理強いはしないで、「じゃ、みんなのを見ておいて」と言うと、最後の方になったら、「なんかさせて」と言って出てくる。

平井 そういうような確信、ほんとはやりたいのだろうなというのはあった?

伊藤 何も押さなかったら、そういうことはしないかもしれない。ちょっと押せば、本人にはやる力があるとの確信はありました。
 キャンプでの演劇の原点は、僕の体験です。僕がどもりで悩み始めた小学2年生のとき、主役をしたいし、しゃべりたいのに、先生が教育的配慮でセリフのある役を外した。僕と同じように、子どもたちは表現したい、しゃべりたい、演じたい、という持っているんだろう、それは確信のようなものを持っていました。17年間やってきて、嫌がる子は最初いたけど、また最初はばーっと見てせりふの少ない役を選んだ子もいた。ところが、年々経るうちに主役になってくるんだよね。

平井 昨年卒業した皆さんは、初めて参加したとき、お芝居をしてどうだった。

小川 高校生だったので、ちょっと嫌でした。でも、何回か来ているうちに、主役やりたいとか。

平井 主役やりたい、みたいになっちゃう。吃音が気にならなくなっちゃう?

小川 どもっても、もう盛り上がったらいいや、みたいな。

平井 すごい効果があるよ。みんなの聞きたいな。

小野 小学校のときは、本読みを、段落の途中で先生に止められて、「ああ、もういいよ、そこで」と言われた。なんでやねん、とずっと思っていて、キャンプに来て、最初はちょっとどうしようかと思ったけど、中学生くらいになったら、若手芸人並の、前へ前へ出ていく精神で、台本を読んで、おいしいとこはこことここやから、これやると言って、おいしいとこだけを持っていった。このキャンプは、普通のキャンプとはちょっと違う。
 小学校のときは、劇なんかしなかった。最初来たのは小6で、そのときは世界に、こういう喋り方をする人はオレしかおれへんと思っていたけど、ここへ来たら、みんな同じようにどもってしゃべってて、オレだけやないんやなあと思って、そこで心の壁がバーンと外れた。それが、劇で、受けそうな、おいしいとこ、持ってこか、に変わった。

長尾 小学4年で初めて参加したときは、プログラムの中にあったから、キャンプでは劇をやるんだと思ってた。中学のときはだいぶ恥ずかしくてやりたくないと思ったこともあった。前に立つことが恥ずかしいんじゃなくて、子ども向けの役柄自体が恥ずかしかった。かっこつけたい時期やったから、あんまりこういうことしたくないなと。
 高校生に入ったくらいからは、ちょっと落ち着いてきて、そんなに抵抗はなかった。高校2年では、結構、主役系をしてみたいというのがあった。目立ちたかった。日頃は、どもるから、確かにしやべることからはひいているところがある。でも、ここやったらそういう要素がなくなるので、目立つところをと思う。もともと、主役をしたい、目立ちたいという気持ちはあったと思う。でも、日常ではできないから、ここでやってた。

平井 晴れの舞台や。ここなら、主役。

浜津 僕は、最初来たのが小6で、小6でも恥ずかしかった。確か、オオカミ役で「ガオーッ」とかいって。一番恥ずかしい時期やったから。でも、みんなの前で劇ができるというのは、そう機会がないから、どうせするなら名演技をしたいと思った。どもらんとかっこよく言ってやりたいとか、そういう気持ちはあるんですけど、やっぱりどもってしまって、でも、それでもええやん、とだんだんなってきた。一生懸命するのが大事と思うようになった。どうせするんやったら、僕より下の子が、「おっ、あんなのいいやん」「いいなあ」と思えるくらいのものができたらええかなと思ってます。

伊藤 今年はスタッフとして事前の合宿にも参加したね。参加者として劇をしていたときと、スタッフとしてみんなの前で演じたときと、どう?

浜津 参加者でするよりかは楽だった。キャンプに来ているのは、みんなどもる子ばっかりで、僕もどもる子やし、僕が参加者のときにスタッフが劇をやってるのを見たときに、いいなあと思ったんです。かっこいいというか、恥ずかしがらずにどもりながらやってるし、なんかおもしろかったし。僕もそうなりたいなあと中学校のときから思っていました。スタッフになってやりたいとずっと思ってたから、恥ずかしいというのはなかったですね。

保坂 学校の演劇だと、ほんとはいっぱい話す役をしたいけど、みんなの前でどもるのが嫌だから、なるべく話しやすい役を選んでるけど、ここだと全然そういうことも考えない。一番最初は、なるべく話さない役にしようとしたら、周りの人が「やりなよ」と言ってくれて、押してくれたりすると、ここだからできるというのもある。主役の役もできて、すごくよかったなあと思います。

谷沢 劇自体、小学校以来全然やってなかったんです。久しぶりだったので、最初は気がひいてしまい、消極的になっていた。竹内さんの事前のレッスンのときから、難しそうだなと思ってた。実際やってみると、結構楽しくて、声も自然と大きくなった。どもることも心配だったんですけど、実際劇だとそれもなんか大丈夫だった。多分、これが普通の学校の劇だったら、また違った結果になってたかもしれない。楽しかったです。

伊藤 よかったね。一所懸命がんばってたものね。さきほどの対等性ということと関係するけれども、僕たちスタッフが前で演じるよね。さっき、一所懸命大人たちがやっている姿を見て、オレもやらないかんと思ったと言ってくれたけど、やっぱり真剣さというか、真面目さといっていいのか、手を抜かないというのか、僕ら大人がお芝居を楽しんで一所懸命やっている、それがある意味対等性かな。模範演技をするので、お前ら見とれ、というものではない。すごくどもるスタッフを、子どもたちがクスクスと笑ったりもしてるけど、あんなにどもりながらでも人前でやるんだと、あれは初めすごくびっくりしたんじゃない?

保坂 本当にびっくりしましたね。大人があんなにどもりながら劇をするのかと思いました。

伊藤 したやろね。それは大事で、大人が真剣にやってるというのを見せたい。どもっても最後まで言い切る、その姿を見てもらいたい。だから、よくどもる人を選んでいるわけでもなくて、偶然だけど、それを見て、かわいそうだな、あんなにどもるんなら出なかったらいいのにと思う人もいるかもしれない。でも、一方では、すごいな、がんばってるなあと思う子や親もいるだろうし。それは、人の思いは様々ですからね。

平井 最終日の上演に、子どもは全員出るの?

伊藤 全員出ます。どもる子のきょうだいも。高校生で初めて参加した子が、小さな子が一所懸命にやっているのを見て、私もがんばらなきゃと思ったという声があったり、あんな高校生が恥ずかしがらずにやってるんだから、私もがんばらないといかんと思ったとか、年齢が幼稚園から高校生までいるというのが、すごい大きな意味をもつ。

平井 親たちはやらないの?

親たちの表現活動
伊藤 親たちもやりますよ。親のパフォーマンスも結構おもろい。最初、びっくりしなかった?

長尾 なかなかえぐいことしますね。おかん…よくやるわと思った。もっとすごいことしますよ。

浜津 子どもとしてはあれ。恥ずかしい。

伊藤 毎年、変えるんだけど、一番最初にやったのは、「祭り」で、グループに分かれて練習して、みんなの前で、祭りだ祭りだ、わっしょいわっしょいとやった。今年は工藤直子の「のはらうた」というシリーズをやる。僕たちのキャンプは、付き添いで来ているという親はいない。全員参加だから、お父さんもお母さんも話し合いや学習会に参加し、出し物の練習をする。最初、なんで私、こんなことしないといかんのと思うでしょうが、そのうち楽しくなる。お父さんお母さんがグループに分かれて、一所懸命こうしよう、ああしようと、嬉々としてやっている姿をみて、2年ほど前は涙が出ました。子どもたちが上演する前にやるんだけど、親たちは恥ずかしさを越えて、からだで詩を表現する。

長尾 よくやるわ。もっと恥ずかしいと思う。

浜津 見たとき、わーっと思いました。

小野 何やってんねんと。

伊藤 最初親がやったとき、みんなおーっと歓声が上がりました。それから、毎年必ず子どもたちの演劇と親たちのと両方やることになった。それもいい効果ですよね。ことばの教室では、もっともっと声に関していっぱいしなければいけないことがある。ところが、吃音の話し合いが大事だというと、それに流れて、大事な表現のことがちょっと忘れられたりする。だから、詩を読んだり、お芝居をしたり、楠さんが親子でしている、谷川俊太郎さんの「きりなしうた」は、アサーティブ・トレーニングにもつながっておもしろい。
 どもる子どもたちに味わってもらいたいのは、声を出す楽しさ、声を出す喜び。日本語って豊かなんだな、声を出すということは心地よいし、そのことが相手に伝わり、そしてまた相手を動かしていく力になるんだなという、ことばに対する信頼というか、尊敬というかを味わってもらいたい。
 どんどんことばがないがしろにされていき、芸能レポーターとかアナウンサーの発音を聞いていても、ほんとに発音が悪くなっている。どんどん母音が抜け落ちていって、早口でぱーっとしゃべってしまう。そんな中で、どもる僕たちが、どもる人間としての言語というのを確立していくことが大事。一音一音丁寧に発音する、早口でしゃべらず、ゆっくりしゃべる、自分の話し方のスピードを身につけていくと、今の話し方や日本語に対するあり方に一石を投じることになるのではないか。べらべらしゃべることだけが、意味のあることじゃないということは、やっぱり僕たちが伝えられることじゃないかな。そうなると、ことばの教室の実践は、声や呼吸にももっと目を向けてもらいたいなあと思う。
 吃音親子サマーキャンプのプログラムは、10年以上全く変わっていない。変えようがない。ちょっとハードだが削れないし、加えることもできない。変更の余地がないと思えるほど、完成度が高まってきましたね。8年ほど前に親のパフォーマンスが入ったことで、完成しましたね。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/29

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