「これはどもっている人の特権だと私は思う」 ~第33回吃音親子サマーキャンプに参加して
第33回吃音親子サマーキャンプの3日間を、ダイジェスト版で報告してきました。今日は、大学院生時代からこのキャンプに参加し、竹内敏晴さんが亡くなってからは、演劇の担当として、スタッフ向けの事前レッスンからかかわってくれている渡辺貴裕・東京学芸大学教職大学院准教授のnoteから、渡辺さんの許可を得て、紹介します。
2024年8月19日 15:40
8月16日(金)から18日(日)の3日間、彦根市の荒神山自然の家で開かれた吃音親子サマーキャンプに参加してきた。
「吃音と上手につきあう」ことを掲げる日本吃音臨床研究会(代表:伊藤伸二)による、今年で第33回となる催しだ。
参加者は、どもる子どもと親を中心に、さらに、どもる大人、ことばの教室の教師、言語聴覚士、どもる子どものきょうだいなども加わる。計90名近く。
誰かが何かを「してあげる」場ではなく、一緒に、どもることについて話し合い、作文を書き、劇の練習をして上演し…の3日間だ。
私は、まだ自分が大学院生だった頃から連続で、もう20数回参加している。ネットがつながらず生活上の制約も多い自然の家での3日間は、(普段快適環境ぐらしに甘えている私には)疲れるもの。けれどもそれでも私がここに来続けるのは、ここに来ると、子どもってすごいな、子を思う親の気持ちもすごいな、てんでばらばらな人たちが吃音というその一点でつながって普段とは違う関係性をもてるこの場ってすごいなと、毎回鮮烈に感じられるからだ。
どもる子どもたちが、いくらどもろうが気にせずおしゃべりや人前での表現ができる。からかわれたり真似されたりの苦労や将来への不安を共有して一緒に考えることができる。この場の貴重さ。
(なお、どもる程度は人さまざまで、言い換えでかなり回避してしまう子から、随伴運動や難発の程度が強くいったんつまるとなかなか声が出てこなくなる子までいろいろ。そして、どもる程度と悩みの度合いが必ずしも一致するわけではないのも、吃音というものに関して大事なところ。)
中学生のどもる子をもつ、あるお母さんが話していた。
今回、ちょうど学区のお祭りが重なっちゃって。学校の友達がみんな行くということで、あの子も楽しみにしてたはずなんですけど、迷わず「こっち(=キャンプ)」って言って。
この場が子どもたちからいかに大事に思われているかを感じる。
去年、さんざん途中で「帰る」「帰る」と言っていた(実際リュックサック背負って抜け出そうとしていた)小学生の男の子。
今回、兄も一緒に参加していた(「どもる子のきょうだい」として)。弟から話を聞いて、「自分も参加して劇やりたい!」と思ったらしい。
あの弟から何を聞けば「自分も参加したい!」になるねんと私は心の中でツッコんだが、弟、なんだかんだで去年楽しかったらしく、今年は自ら進んで参加したらしい。去年の劇「森は生きている」の「おばさん」役のセリフ「役立たず! 死んじまえ」をいたく気に入ったそうだ。今回は、「帰る」の一言もなく、初日から目一杯楽しんでいた(兄も)。
人は変わる。
コロナ禍での2020&21年の休止により、リピート参加の断絶がかなり出てしまったが、再開後からのリピーター組が新たなつながりを生み出している。
小学校高学年の子たち、初回の話し合いにてスタッフが「吃音について話し合いたいんだけれど、どんなことを話したい?」と尋ねたときに、
「もう部屋でも話し合いしました」
と言ってきて驚いた。初日の夕食後の話し合いで、それまで自由になる時間なんてそれほどないのに!
吃音とじっくり向き合うということが文化として定着している。
私にとっては、キャンプは、普段とは違う角度から、学校のこと、教師のことを考える機会でもある。
ある小学生の男の子が憤っていた。
自分の吃音のこと、担任の先生に言ってあったのに、音読テストのときに、「もっと練習してきてください」と言われた。先生は、真剣に取ってないから忘れてるんじゃないか。
それに対して別の男の子はこう話す(なお、さっきの子もこっちの子も、どもる程度という点では、かなりはっきりと「どもるな」と分かる子だ)。
自分は吃音のことで先生(学級担任)から何も言われたことない。けれども多分それは、その先生は自分(この男の子)が考えすぎないようにと考えて、何も言ってこないんじゃないか。自分としても、先生にはそこまで深く考えてもらわないでいい。
普段私自身なかなか知る機会のない、子どもたちのこうした思いとたくましさ。
なお、この後者の子、先生はだいたい1年で変わっていくからよいけれど、家族(きょうだい)には自分の吃音のことを理解しておいてほしい、とも話していた。
私は、何年か前から、作文の時間に、子どもたちが書いてきたのをその場で読んでやりとりする(時にはもう少し書き足してもらう)役割を務めているが、彼らが自分の吃音と向き合いながら生きている様子、それを綴る言葉に、何度も何度も圧倒される。
一つだけ紹介しておく。
「言えない時はメモをとって相手に見せることで自分が伝えたいことを伝えるようにしている」という、高校生の女の子。
その子がこう書く。
ただ、自分の言葉で相手に伝えたいと思ったことはどもってでも、自分自身の言葉で伝えるようにしている。
伝えることができ、相手に理解されたときの喜びは、どもりながら言わないとわからないものだなと思った。
これはどもっている人の特権だと私は思う。
どもってでも伝えたときの喜び。それを「どもっている人の特権」と言える感覚。
彼らには本当にかなわない。
それを思い知るために、私は毎年参加している。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/27