ことばをごまかす
どもりそうなときも、決して言い換えをせず、激しくどもりながら話す、これが、僕たちの言う「どもりながら生きる」ことだと思い込んでいる人の話を聞くことがあります。「言い換えをしてしまう自分が許せない」と言う人もいます。直接出会った人なら、僕は、「言い換え?僕もしていますよ。罪悪感をもつ必要はないですよ」と伝えます。どもる人の言い換えは、ごまかしではなく、どもりながら生きていくためのサバイバルです。どもりカルタにも、「言い換えは、言葉の魔術師 得意技」という読み札があります。『人間とコミュニケーション』(日本放送出版協会)のスペンサー・F・ブラウンのことばも、柔軟で、僕は大好きです。
「スタタリング・ナウ」2006.1.24 NO.143の巻頭言、「ことばをごまかす」を紹介します。
ことばをごまかす
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「私はどもるのが嫌だから、言いやすいことばに言い換えてしまう。だから相手に自分の本当に言いたかったことが伝わらない。ことばをごまかした自分を責めたり、落ち込んだりする。皆さんはどもりそうなときどうしているのか」
先だっての大阪吃音教室で、初めて参加した人が私たちに質問した。そこで、30人ほどの参加者ひとりひとりが自分の体験を語った。
最初に浮かんだことばをどんなにどもっても言うという人もいたが、多くはことばを言い換えたり言いにくいことばの前に間をおいたり、形容詞や副詞をつけるなどしていた。大阪吃音教室の人たちは、気楽に言い換えて、それに罪悪感をもたない。そして、言い換えられないときは、どもってでも言うという人が多かった。
ことばを言い換えて、自分自身が不全感をもったり、相手に誤解を与えると発言した人には、具体的にどのように言い換えたのかを尋ねたが、思い出そうとしても思い出せなかった。今度そのようなことがあれば、そのことばをメモして、一緒に考えようとその場で約束した。
私は人前で講演や講義をすることが多い。その場合、言いにくいことばを、瞬間瞬間にかなり言い換えている。しかし、罪悪感もむなしさもまったく感じたことがない。自動的にことばの言い換えをしていて自分自身でも気づかないことも多い。
1975年に私たちが翻訳出版した本『人間とコミュニケーション』(日本放送出版協会)は、アメリカの言語病理学者からどもる人へのメッセージを集めたものだが、スペンサー・F・ブラウンの「気楽に生きよう」のメッセージが私は好きだ。
長くなるが一部分を紹介しよう。
…一部の専門家や、どもる人からも批難されるかもしれないが、言いやすいことばに言い換えることは、ほとんどのどもる人にとって日常茶飯事だ。言い換えはよくないと、今までずいぶん言われ、どもる人自身も、やめようと努力はしてきたが、実際には言い換えないで話すことは難しく、実行できない自分を責めた。
ことばの言い換えを、無理をしてやめなくてもいい。ときには遠慮なく使ってみよう。私はひどくどもって困ったときには、つまったことばを言いやすいことばに言い換えてもいっこうに差し支えないと思う。どもりそうだと恐れることばを言い換えていると、ますます話すことを恐れるようになるという理論がある。正面から立ち向かわないかぎり、どもることへの恐怖はだんだん大きくなる。そして、その人の性格にまでも影響し、悩みをさらに深くし、吃音の問題の解決を長引かせるという。理論はともかくとして、何日も何ヵ月もの間、いつも言い換えせずに話すことなどできないだろう。私の知り合いで、自身も吃音の専門家が、言い換えをしている。私たちも、そんなことにこだわらず、気楽に生きよう。言い換えることが習慣のようになってしまって、言いたい内容よりも、、なめらかに話せることを優先することになってはいけないが、言い換えをしたからといって、悪いことをしたと気に病む必要はない。…
「ごまかしてしまう」という言い方はやめたい。自分の中でことばを言い換えたり探ったり、あのときこう言いたかったのかなど、どもらない人であればすっと通り過ぎてしまうことをあれこれ考えるのは、素敵なことで、自分のことばや表現を豊かにしていく契機ともなる。ことばの言い換えは、どもる人がサバイバルしていくひとつの技術であり、知恵であり、工夫であり、それも含めてどもる人の表現なのだ。自分のことばとして大切にしたい。
私たちはことばの力を信じている。その一方で鴻上尚史さんの名言「ことばは常に思いに足りない」ことも知っておくことが、吃音とことばの呪縛から解放されていく道なのだろう。
大阪で始まった「ことば文学賞」は、世界へと広がった。私たちはことばにこだわって考え続けたい。〈吃音とつきあう〉に不可欠なことだから。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/11