本日ただいま誕生 

 47年前にお聞きした小沢道雄さんの話は、インパクトのあるタイトル、「本日ただいま誕生」ということばと共に、心に深く残っています。今、読み返してみても、涙がにじんできます。
「スタタリング・ナウ」2006.6.20 NO.142 を紹介します。

 先日、岐阜に住んでいる仲間と食事をしながらゆっくりとした時間を過ごしました。二人とは、もう30年以上前からのつきあいで、教育の世界の人だから、自然と子どもの将来の話になりました。今の日本は、平和が、教育が、人間がどんどん壊されていく。久しぶりの楽しい語らいのはずが、三人の気持ちはどんどんと暗くなり、何とかしなければならないと思いつつ、絶望感も広がっていきました。その時、三人の記憶に残り続けるひとりの人物の話に移っていった。その人物とは、30年ほど前に出会い、今はお亡くなりになっている、達磨禅師と呼ばれていた小沢道雄さんです。戦争で捕虜になり、日本に帰ってくる途中、凍傷にかかり、両足を切断されることになった彼を救ったのは、その苦しみ、悲しみの中から生まれたひとつの悟りに似たひらめきでした。
 苦しみは、比べることにある。27年前に両足があって生まれたときと比べるからつらくなる。今、両足がないまま生まれたことにするのだ。そう思ったとき、「本日ただいま誕生」が生まれました。柔和なお顔、静かな語り口、染みいるように聞こえてくる歌声、そして、お話の中に流れている大切なもの。何一つ色あせず、私の心に生き続けています。

  本日ただいま誕生

絶望集団
 1945年8月15日、第二次世界大戦の敗戦を私は北朝鮮で迎え、捕虜としてシベリアへ連れて行かれ強制労働に従事させられました。その労働は筆舌に尽くしがたい苛酷なもので、病人やけが人が続出し、私も右肩を負傷しました。
 1945年11月17日からの4日間は、この世に生き残るか、あの世に往ってしまうかの境目にいました。私たち負傷兵は、満州の牡丹江にある病院で治療を受けるために護送されることになったのです。総勢500名。病気になったり怪我をして、強制労働には使いものにならなくなった、日本兵です。そこにはまだ日本軍の陸軍病院が残っていて、手当をうけることになったのですが、そのころの私たちはまさに絶望集団でした。
 五体満足の者は健康が回復すれば、シベリアに送り返されて強制労働に従事させられる。その心配のないのは足を一本切断し松葉杖で歩いている負傷兵ですが、彼らとていつ日本に帰れるか分からない。誰もが帰ることをあきらめていました。
 11月とはいってもシベリアは零下30度から40度。終戦当時の夏服のまま、暖房のない貨車に詰めこまれた私たちは、寒いなどという状態ではなく、貨車ごと冷凍室に入れられたような状態だったのです。牡丹江までの4日間、まさに眠ることは死ぬことで、眠気と空腹との闘いの、まさに生死の境をさまよう旅でした。
 「死んでいるのは後にしろ、息のある奴から先に運べ」という声を耳にし、私はもうろうとした意識の中から自分をとりもどしました。牡丹江に着いたのです。「助かったのだ!」なんともいえない安堵がわき上がってきました。
 シベリアから牡丹江までの間に半数が死に、残りは全員凍症です。私も両足に凍症を負い、病院で治療を受けました。しかし、日毎に悪化していき、足の色が変わっていきました。

両足切断の宣告
 その年も暮れようとしていた頃、足の切断手術を受ける者が現われ始めました。「手術中に死んだ者もいる」と聞かされた私は、全身に寒けを感じました。「俺も足を切られるのだろうか」「いや、俺に限って」。日毎に悪くなる足を見ながら、私は絶望的な思いをめぐらせました。
 翌年の1月10日、軍医は「13日に両足の切断をしようと」とおもむろに言いました。そのことばに、「なるべく同じ長さに揃えて下さい」と案外冷静に言ったものの、病室に戻ってから、両足を切られた、足のない自分の姿が目に浮かび、重苦しい絶望感が私の中に広がっていきました。
 まぶたに浮かんでくるのは幼い頃の思い出です。両足でかけ回る無邪気な私の姿でした。そして、やさしい母親の顔が…。
 私はせつなくやるせない思いにかられ、「足を切るなんていやだ」と心の中で叫びました。人手もない、薬もない、麻酔もなく、まともな手術を受けられるはずもありません。手術決行までの3日間、私の心は様々な思いに動かされました。そして、思いの果てに行きついたのは、「どんなに痛くても、音を上げないぞ」というひとつの悲壮な決意でした。

のこぎりで骨を切る手術
 1月13日、私は不思議と落ち着いていました。どうあがいても切られるものは切られる。そんな心境でした。軍医の表情は厳しく、力強さにあふれています。彼は私の足に目を注ぎ、そして静かに目を閉じました。
 次の瞬間、メスが私の脛の肉を切り裂き、私はこの世のものとは思えぬ激痛に全身を硬直させました。そのまま呼吸ができず、ただあえぐように息をはくばかりです。ひとえぐりずつ肉が切りはずされ、ノコギリが骨を切っていきます。異常な痛みに刺し貫かれながら、私はその医者と一緒になって足を切り落としていくような気持ちを味わっていきました。
 2時間以上かかって、手術は終わりました。しかし、後の処置は骨の見える断面に太い血管だけをしばり、そこにガーゼをあてて包帯を巻いただけというひどいものでした。ぐるぐる巻きに巻いた包帯がたちまち血に染まっていきました。
 手術は終わりましたが、痛みは全くやわらぎません。全身は相変わらず硬直したまま、呼吸もできず、凄まじい激痛はその後1ヵ月もとぎれることなく続きました。一瞬一瞬が、痛みに耐える努力の連続でした。
 しかし、どんなに激しい痛みでも、あまりに長く続くと、痛いのがあたりまえのように思えてくるから不思議です。痛みに耐えようとするぎりぎりの努力を、あたりまえのこととして受け入れられた時、私の心の中にほと走り出る叫びがありました。「どんなにがまんしても痛いものは痛いのだ。痛さは痛さにまかせてしまえ!」

この身体、母親にはみせたくない
 とぎれなく続く激痛にようやく慣れた頃、今度は別の苦痛にさいなまれ始めました。痛みをこらえる努力から解き放たれ、逆に足のない自分の今後について思うようになっていたからです。
 俺は廃兵になってしまうのだ。こんな身体でどうして生きていけるだろうか。片足があればまだ松葉杖を使って歩けるだろうが、俺はそれさえもできない。義足があると軍医は言うが、義足がどれほど役立つというのか。ヨチヨチ歩きが関の山だろう。結局は膝をついて這い回るしかないのか。
 後から後から絶望的な思いがこみあげ、「ああ、俺はもうだめだ」。最後には自分自身のこのことばが重く心にのしかかってくるのでした。
 こんなとき、心に浮かぶのは、母親の温かいふところで抱かれて甘えている自分の姿でした。一方、こんな姿を母親に見せたくないという気持ちも働きました。こんな姿を見たら、母親はどんなに嘆くだろう。そう思うと悲しくてやり切れなくなりました。「日本には帰るまい」「この病院で死のう」行きつくのは、この悲痛な思いでした。
 やがて、病院に発疹チフスがはやり始めました。1日に百人、ひどい時には二百人もの死者が出ました。私もついにやられてしまい、高熱が2週間ほど続きました。仲間は次々と死んでいきます。生死の境をさまよいながら私は生きのびました。またもや生きのびてしまった、という気持ちでした。なぜ、チフスで死ななかったのか、と後悔の気持ちもありましたが、自殺しようという気持ちはもうなくなっていました。

望郷の歌
 日本は負けました。日本の都会もひどい空襲で焼け野原だとききます。しかし、私たちはその日本へも帰れません。補虜の中でも、一番みじめな病人とけが人なのです。毎日毎日、希望もなく、前途に一点のあかりもない生活が続きました。
 目を閉じると生まれた家のたたずまいが浮かんできます。小川の流れが浮かんできます。母の姿、親せきや近所の人たちの姿、緑の松の日本の景色。ひげ面の男たちが目を閉じてそんなことを思うのです。

  ―河岸の柳のゆきずりに
        ふと見合わせる顔と顔―

 ひとりが歌い出すと、3人、4人、やがて全員の合唱になります。みんな目を閉じて歌いました。まさにこれは望郷の歌でした。またしばらくすると、誰からともなく別の歌が始まります。

  ―月の砂漢をはるばると
      旅のラクダが行きました
         金と銀との鞍おいて―

 みんな、万感の思いをこめて静かに歌いました。しかし誰一人歌いながら泣く者はありません。泣くことすらも、とうに諦め切っていたのです。

担架にかつがれて、日本へ
 8月になると、突然使いものにならない重症患者は、日本に送り返されることになりました。その中には当然、私のように両足を切断した者も含まれており、私たちは担架で運ばれることになりました。ひとつの担架に健康な人間が4人ついて運んでいくのです。担架がかつぎ上げられ、いよいよ出発です。私は心中こみあげてくるものがせつなく、固く目をとじていました。
見ず知らずの4人の日本兵にかつがれて、故国目本へ帰れるのだ。この4人のおかげで日本へ帰れるのだ。ありがたいことだ。申し訳ないことだ。しかし、考えてみれば、この4人は私をかつぐことによって、シベリアの強制労働に逆もどりすることを免がれ、故郷へ帰れるわけです。
 ハルビンから一日南下した時、列車が荒野のまん中で突然停車しました。なんでも戦闘のため、線路が破壊されたのだそうです。しかたなく歩いて新京まで歩いていくことになりました。線路に沿って長い行列が続きます。
 牡丹江を出発して10日目、50あった担架がすでに40を割っています。担送患者が息を引きとれば、もうかついでいく必要はありません。すでに身軽になった連中を見て、私の担架をかついでいる4人がうらやましそうな顔をしているのに気づき、私はがくぜんとしました。みんな秘かにそうなることを望んでいるのだ。今となっては私たち担架患者は厄介者以外の何でもないのだ。
 歩き始めて3日目の朝、夢うつつの耳にかすかな人の声が聞こえました。そして大勢の人の気配。「ほら、あそこにも兵隊さんが担架の上で死んでるよ」。私は、はっと自分を取りもどしました。あたりを見回すと、一緒にいた連中は誰もいない。さては取り残されたと気づき、とっさに左手を上げ、ありったけの声で「オーイ、まだ生きてるぞ」と叫びました。
 ちょうど開拓団の人たちの行列の最後の人が、今にも通りすぎようとしているところでした。道から25メートル位の所、夏草の茂る中に私の手が見えたのは、まさに奇跡だったかもしれません。私の叫びも声にならない小さなもので、私の思いが通じたのだと考えるしかありません。
 当時、人一人の命など全然問題になりませんでした。私をおいてきぼりにした4人にしても、そこまで運んでくるのが精一杯だったのでしょう。ことばで相談しなくてよかった。目と目でうなずいて「死んだことにしよう」。
 もし、私がかつぐ立場だったとしたら、同じことをしたかも知れません。ですから、私は今でもその4人を恨むことはありません。

氷川丸で故国へ
 開拓団の一行に運ばれ、新京を経て奉天に着きました。そして、その年の10月、私たちは奉天を出発し、胡慮島に向かいました。その頃には「この身体を親たちに見せたくない」という気持ちは消え、一刻も早く日本へ帰りたいという願いにただ衝き動かされるばかりでした。
 胡慮島には、日本の病院船氷川丸がその巨体を港に浮かべて私たちを待っていました。この船に乗れば、もう日本だ。故国日本へ帰れるのだ。
 乗船の時の光景は、鮮かに私の目にやきついて離れることがありません。私たちの担架がタラップを登っていくと、デッキの入口に詰めかけた看護婦さんたちが、手に手に日の丸の小旗をそれこそちぎれんばかりに振っています。
 特別船室に運ばれた私に、看護婦さんが、「ずい分つらかったでしょうね。よう帰ってこれましたね。大変でしたね」と言ってくれました。見ると看護婦さんの顔が、目がうるんでいます。そして涙が一滴、ポツンと私の顔に落ちました。もうたまりません。忘れていた涙が、その一滴の涙によって、もうとめどなくあふれてきました。忘れていたのは涙ばかりではありませんでした。人間としての心、今にも枯れ果てんとしていた人間としての心、看護婦さんのやさしい声、ことばによって人間としての私の心が、涙と一緒によみがえってきたのです。この時の感激は、まだほんとうに胸にやきついています。

体重38キロ、身長140センチ
 11月19日、氷川丸は博多に着きました。いよいよ故国日本に上陸です。しかし、上陸といっても足を切った私に上陸第一歩などありませんでした。荷物と同じ。ジーッ、ガラガラ、ドスンと担架が着地したというわけです。
その夜遅く私は小倉の病院に運ばれました。着ていたものをすべて脱がされました。それから1年半ぶりに風呂に入れてもらいました。きれいな若い看護婦さんが「落ちるわ、落ちるわ」とはしゃぎながら、私の垢を落としてくれるのです。
 垢を全部落として目方を測ると、骨と皮だけの38キロ。身長は足を切った分だけ短くなって、1メートル40。年令は26才と6ヵ月でした。

「よう帰ってきた」母との再会
 あくる朝、外科部長の診断がありました。私の足を見るなり「ひどいとはきいていたが、これほどとは。すぐ手術だ」ということになりました。
 手術が終わってから2週間後、私の人生にとっていちばんつらいできごとが待っていました。母との再会でした。
 看護婦さんの案内で、母と弟が病室に入ってきました。まず弟が、そしてその後に隠れるように母の姿が現われました。弟はベッドのそばにきて「どうなったの」と聞きました。「シベリアでなあ、凍傷になって両足とも切ってしまった。死のうと思ったけど、帰ってきた」。やっとの思いでそれだけ言うと、母が小さな声で「傷は」とききました。
 私は勇気をふるい起こし、足を見せるために毛布をまくりました。両手を震わせながら、母は包帯の足にさわりました。固く目を閉じたまま、そっと足をなでています。泣くまいと思ってじっとこらえていた私の耳もとに、母の「よう帰ってきた」ということばがきこえてきました。ただそれだけのことばでした。私と弟だけに聞こえるような小さな声でした。しかし私の胸にじーんと深く迫ってきました。このひと言に私の胸はつまり、ただうつむいて唇をかむばかりでした。
 帰りぎわに弟が、兄の戦死を知らせてくれました。長兄の戦死。次男坊の私の無惨な姿。母の心痛、悲しみは想像を絶するものだったでしょう。それをおくびにも出さず、ただ「よう帰ってきた」とつぶやいた母の心情がいたく思いやられて、胸をかきむしられる思いでした。

一人にしておいてくれ
 病院を変わり、親せきや知人が見舞に来てくれるようになりました。「元気を出せ」「しっかりするんだ」、みんなこう言って励ましてくれました。私もそれにうなずいて応えてはいました。しかし、うなずくだけで、元気の出しようがありません。
 当時は、戦後の混乱期で、誰でも自分の家族が食べていくことだけで精一杯でした。まして、両足を切り落とした私には、どんな道があるというのでしょう。私は面会には来てほしくない、やさしいことばもかけてほしくないと思いました。「どうか一人にしてくれんか」、「しばらく一人にしておいてくれよ」。私は次第に肉親や親せき、知人の面会を避けるようになりました。
(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/09

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