新たな役割

 新たな役割とのタイトルで「スタタリング・ナウ」NO.141の巻頭言を書いたのは、2006年5月だったのかと、少し寂しい思いで読み返しました。この巻頭言の中で、吃音の臨床家の役割として4つの基本姿勢を挙げていますが、先日終わった「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」でも、僕は同じようなことを言っていたなあと、寂しくなったのです。同時に、18年経った今、やはり、種を蒔き続けなければいけないなという思いを強くしました。

新たな役割
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
 「アメリカには、日本とは比較にならないほど多くのスピーチセラピスト(言語聴覚士)が、大学院などで養成され、数多い臨床実習を経て、臨床家になっていく。しかし、その96%が、吃音の臨床に苦手意識をもっている」
 アメリカの大学院に留学し、現在アメリカでスピーチセラピストとして活躍している川合紀宗さんが、第3回臨床家のための吃音講習会(岐阜)で、アメリカの吃音臨床事情を話して下さった。
 アメリカでは、吃音を治すためには、どもらずに話す技術を身につけなければならないとして、どもらずに話すための治療が長く続いた。それに対して、アイオワ学派の人々は、それは吃音の問題の解決にはならないと、どもってもいいからより楽に、軽くどもることを提唱した。どもらずに話す技術と共に楽にどもる技術も指導方法も提示され、臨床が続けられ、50年ほどが経とうとしている。
 吃音に悩む人の多くは、必ずしも完全にどもらずに話すことだけを求めているのではない。今よりも少しでも楽に軽くどもれるようになればそれでいいという現実的な望みも持っている。
 だから、「楽にどもる」ことの指導をスピーチセラピストから受け、実際にそれができるようになれば、本人もスピーチセラピストもそれなりに満足するはずである。吃音に苦手意識をもつことはないし、吃音の指導は楽しくて得意だと考えるセラピストがいてもいい。しかし、苦手意識を持つセラピストが多いということは、「楽にどもる」指導が難しいということか、それとも臨床家としての姿勢が根本的に違うのか、それとも、どもる人本人や社会の吃音観の違いなのだろうか。
 いずれにしても、そろそろアメリカから卒業し、日本の吃音臨床をつくる時期にきているのではないか、と私はその講習会で呼びかけたのだった。
 アメリカの吃音臨床は、臨床家が自分の「無力さ」を認めたくないことが根底にあるのだと私には思えてならない。私は、「完全に治る」は論外としても、「楽にどもる」ことも、臨床家が指導しきれないとの立場に立つ。私を含め、どもる子どもやどもる人本人が以前より楽にどもるようになっているのは、言語指導を受けたからではなく、「どもっていても大丈夫」と、どもりながら自分らしく豊かに生きようとした中で、自然と変わってきたのだ。その人に内在している自己変化力と言えるものだろう。
 どもる人の自己変化力を信じ、それを耕し、育てることが吃音の臨床家の役割だと思う。その基本姿勢を、ことば足らずで誤解を受けることを覚悟しつつ、項目だけを挙げたい。

1 否定から肯定へ
 「どもっていても大丈夫」と吃音を肯定的にとらえる。吃音を治す、改善すべきものと考えない。
2 臨床家として「無力さ」の自覚
 吃音を治したり、軽くどもる指導に対して無力であることを自覚する。しかし、本人の自己変化力を耕し、豊かな声や表現力を育てようとする。
3 人としての共通性と対等性
 誰もが悩む存在であり、誰もがテーマをもっているという、人としての共通性に気づいている。その上で、一緒に、対等の立場でどもることからくる困難に対策を考える伴走者であろうとする。
4 新たな役割を見いだす
 どもる状態を変化させるのが臨床家の役割ではなく、吃音と共に生きるその人のテーマに、臨床家としてかかわることを新たな役割と考える。

 吃音指導は苦手ではなく、楽しいという14人の、吃音と向き合い、吃音を学び、子どもの豊かな表現力を育てる実践集が、2005年度の日本吃音臨床研究会の年刊吃音臨床研究誌『吃音と向き合う、吃る子どもへの支援』として発刊された。
 私たちの活動に深く共感して下さる石隈利紀・筑波大学教授の「一人ひとりの子どもを生かし、援助者が生きるサポートとは~みんなが資源、みんなで支援~」と共に1冊にまとめられた。
 同時発行の4冊の年刊吃音臨床研究誌が日本の吃音臨床の幕開けとなることを願っている。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/03

Follow me!