我の世界と我々の世界 2
吃音講習会の時の梶田叡一さんのお話を紹介してきました。
僕が梶田さんを講師として講習会に来ていただきたいと仲間に提案したとき、当時、京都ノートルダム女子大学学長でしたが、忙しい学長職の人に断られるに決まっているという人がほとんどでした。島根県松江市での開催なので、合宿の形式にした40名ほどの参加者の講習会です。僕は、梶田さんの本はたくさん読んでいました。そのことを強みにして、梶田さんの出身が松江市だということを手がかりに、心を込めてお願いの手紙を書きました。すると、「小さな集まりが好きなので行きますよ」と快諾してくださいました。その言葉通り、たくさん話をし、質問に答えて、また話していただくという、とても贅沢な時間を過ごしました。お酒が好きで、夜遅くまで話につき合っていただきました。本棚にあるたくさんの梶田さんの本を眺めては、懐かしく思い出しています。
我の世界と我々の世界を行ったり来たりしながら自由自在に生きること、僕自身は、かなりそうできているのではないかと思います。21歳からは、自分の納得のいく人生を歩いてきました。
今回で、梶田さんのお話は終わりです。(「スタタリング・ナウ」2005.9.18 NO.133)
第4回臨床家のための吃音講習会・島根 2004.8.7
我の世界と我々の世界
梶田叡一(現・兵鰍育大学学長)特別講演
自由自在に生きる
自由自在に生きるということは、自分のいろんな条件が完備することではありません。事実は変わらないのです。不完全で不満足な条件を、パーフェクトではないものを与えられて、私の命が機能しているわけです。だったら、自分に与えられたものは存分に楽しんだらいいし、ないものねだりをしてもしょうがないと思うのです。ないものねだりが一番いけないです。どこへ行っても私は私のペースで私なりに生きていく。だからといって、世の中のネットワークから自分だけ逃がす必要はない。世の中のネットワークは大事にする。そして、仮の主語として、我の世界は、とっても大事。しかし、世の中のことも、自分自身のことも、どちらも、どこかで、「まあいいか」と思えること。一所懸命になりすぎるのがいけない。できれば死ぬときに、ああ、いい一生だったなあと思って死ねるかどうかです。
今、お話したことは、私の本『意識としての自己』(金子書房)の中に書いております。また、見て下さい。
私はどういう者だとか、私は自信があるとかいう自己概念は、結局自分の意識の中のあるひとつのあり方でしかなくて、事実の問題じゃない。意識の中での、主語述語の組み立て方の問題です。若いときからあまり死ぬことにとらわれたらいけないですが、ときどき、自分が自分だけの固有の命を生きていることを思い出すときには、死ぬんだよなあということを思えばいい。勲章をもらっても意味ないし、私も伊藤さんも本をたくさん書いているけれど死んでしまったら、ほぼナンセンスな話です。どういう所に住んで、家族は何人いたなんて、どうってことないことです。まして、吃音があったかどうかなんて、死ぬということと比べたら別にどうってことない話です。
ひとつは世の中での価値、我々の世界での価値観があるけれど、これを一度全部ちゃらにしてしまう。もうひとつの我の世界の価値、たとえば私は石川さゆりがいいとか、私の中での価値観ができている。最後はそれもちゃらですよ。一度全部ちゃらにして、物を考えるためにはメメントモリという死ぬということを考えたらいい。自分が死んでしまうのではなく、頭の中での考えた死です。生きている間は死ということにこだわって、とらわれて、つかまえられて、意味づけとして、死という事実があると考えたらいい。私は人生をこう意味づけると考える。そして、くれぐれも言いますが、死ぬことだって、私に責任がある話じゃない。もっと言えば、今、生きていることだって、ほんとは私に責任ないです。そう思ったら楽でしょ。これが自由自在に生きるということです。
位置づけのアイデンティティ
心理学の本を見ますと、アイデンティティということは、たとえば自分は男だとか女だとか、自分は学校の教師だとか、そういう我々の世界での位置づけのことを言っています。
年齢も全部我々の世界の符丁です。性別も、役割も、自分は長男だ、何人子どもがいる、親と一緒に住んでるとかが、普通アイデンティティです。それが自己概念なんですが、自己概念の中で一番自分中心的面、たとえば私にとって一番中心的面は、学校の教師であれば、それがアイデンティティになる。これが〈位置づけのアイデンティティ〉です。
我々の世界のネットワークの中で、世の中から与えられた、いわば符丁、シンボル、サイン。こういうものの中で、私をどう規定していくかです。吃音も、世の中で、そういうカテゴリーを与えられて、そういうものかと思っている。ダウン症だって、引きこもりだって、登校拒否だってそうです。世の中で生きていく上で、全部ちゃらにする必要ない。事実として知っておけばいいが、これにこだわらなくするにはどうしたらいいかがひとつの大問題だと思うんです。事実であっても、それにこだわると、ちょっと窮屈なところがある。上手に世の中からはみださない形で、どうやってそれにこだわらないようにするかです。
私は親だけれども、自分のアイデンティティを親にすると、窮屈になります。親でもあるけれどなあ、ということです。私は教師だとなると、日本ではなんとなくいい子をしていないといけない感じになる。自分の全存在が位置づけの間にからめとられたら、こんなつまらないことはありません。これが、最初の罠です。
宣言としてのアイデンティティ
この罠から抜けるためには、〈宣言としてのアイデンティティ〉が必要です。
「教師でもあるけれど、なんとかでもある」という何かを出していく。便利な宣言としてのアイデンティティとして、私は男だ、女だ、何歳だ、「教師だと言われるけれど、私は人間だ」と言います。「私は人間だ」というのは、位置づけとして相対化するには一番いいでしょう。それでなくて、人には分からないけれども、こういうものだという宣言を自分の中で、もったらいい。教師だとか女性だとか、あるいは親だとかなんとかだという前に、「私はこういうことが私にとって、自分のコアになるんだ」というものです。一番簡単なのは、「人間だ」ということです。
位置づけのアイデンティティで、他の人がどう自分を呼ぶかを知っておいた方がいい。だけども、それを乗り越えて、がんじがらめにされない。私というものを意識化する。一番自由自在に生きるとしたら、「私はカモである」とか、「空気である」と言ってしまえばいいが、あんまりそれをやると、「熱、あるんじゃない?」と言われてしまう。上手にTPOを見て言わないといけない。人には言わないで、自分でもっていたらいい。「私は水でありたい」とか、「風でありたい」とか。そういう宣言としてのアイデンティティを自分なりに作っていけるかどうかは、とても大事です。宣言としての自己意識、自己概念です。自分が自分とっきあって、自分と対話して、私ってこうなんだから、という土台になるような自己概念です。
宗教教育、宗教的なこだわり宗教ということばを使うと、戦後は、みんな、疎ましく思うようでほとんど勉強することはない。だけど、私はあえて言うけれども、特に障害のある子にかかわるとか、命の問題を考える時、宗教をぜひ勉強してみて下さい。これが、一番関連の深い文化です。
お釈迦さんだって、なぜ出家したかと言うと、自分が死ぬということ、病気の人がいるということ、などからでしょう。しっかり勉強して、資格をとって、肩書きもできて、大きな家にも住むという右肩上がりの単純化した人生を考えていくと、命の問題は分からない。障害をどう意味づけるかは分からない。人間の一生は、右上がりじゃないと言っているのが宗教です。この宗教でないといけないという宗教心は嫌いです。でも、大きな宗教思想家はいい。
そういう人のものはぜひ皆さん、読んでみて下さい。
道元や親鶯です。親鷺はぜひ『歎異抄』を、読み返して読み返して下さい。易しい例と易しいことばで、あんなに深いものはないと思います。『歎異抄』を読んでいくと、道元も分かってきます。道元は難しい難しい本ですが、読んでいくと、聖書の中に出てくるイエスのことばが分かるようになります。
なぜ、幼子の如くならないといけないのか、なぜ野の花を見よというのか、です。いろいろなことで思い煩っているけれど、この花は、誰がどうしたわけでもなく、本人が美しく咲こうとか思ってるわけじゃないのに、こんなに素晴らしい花を咲かせているじゃないか。命の自己展開です。命は自己展開するんです。ユダヤ民族をもった伝説的なソロモン王朝のときの栄耀栄華のときよりも、この花は、はるかに美しいじゃないか、というわけです。
道元を読み、親鷺を読み、あるいは聖書を読んで下さい。ほかにもすばらしいものがいっぱいあると思いますが、ぜひお読みいただきますと、結局は、この意味づけ、こだわりというのを深く考えていくということが自分の中でできるようになるんじゃないかなと思います。ですから、私は、宗教教育をこれから本当にやらないといけないと主張しているんです。
何宗の教育でなく、宗教をひとつは文化の問題としてとらえたいのです。教育改革の論議のなかでもずいぶん言いました。そしたら、宗教教育は結構だけれど、宗派でない宗教をだれが教えるのかと言われる。確かに道元や親鷺、イエスなどの宗教的な天才のような思想家のことを、自分でこだわって、勉強して、小学校、中学校、高校で、大学で、宗派的でなく、教えることができる人が日本でどれくらいいるか、と言われました。でも、私はあえて言いますけれど、そういうこだわりを、いろんな意味での、広い意味での教育に関係する人が、宗教的なこだわりを持ってほしいなと思います。
質問 位置づけのアイデンティティは、よく分かりました。宣言としてのアイデンティティみたいなものは持っているような気がするんですが、それを自己中心的なものと勘違いしてしまう危険性はあると思うんです。それを越えて、第3段階の目覚めという本当の本質、本源的なもの、そういうものを持つコツのようなものがあるんでしょうか。
梶田 コツは多分ないだろうけれど、そういうものがあるんだろうなあということを自分の頭の中のどこかで前提にしておけば、自然にそういう方向に近づくと思うんです。
頓悟と漸悟ということばがあります。頓悟というのはある瞬間に、たとえば石がぱちっという音がしただけで、それに気がついた、悟りを開いた、というものです。まあそれは、そういう人たちに任せておいて、私たちは、漸悟です。漸悟とは、少しずつ少しずつ、ものが見えてくるということです。自分がまず我々の世界に目覚めてからです。世の中というのがあって、自分勝手はいけないよねというのが分かってくる。しかし、自分が生きなきゃしょうがないよね、となる。結局両方をどうやって生かすかという工夫をしないといけない。工夫していくけれど、我々の世界に生きるとか、我の世界に生きるとか、私が生きるみたいな、そこも乗り越えないと、どこかしんどいよねという筋道が見えていれば、私は徐々にそういうふうになっていくと思うんです。
だから、私は宗教的な神話として、いろんな、ある瞬間に悟ったという、目が見えるようになったという頓悟の話があるけれど、私はそういうことにこだわる必要は全くないと思います。
梶田叡一さんの紹介
1941年島根県松江市に生まれる。京都大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業。大阪大学人間科学部教授、京都大学教授、京都ノートルダム女子大学学長を経て、現在兵庫教育大学学長。
主要図書『自己意識の心理学(第2版)』(東京大学出版会)『生き方の心理学』(有斐閣)『内面性の心理学』(大日本図書)『生き方の人間教育を』(金子書房)など多数。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/18