ユーモアセンス 2
昨日のつづきです。ユーモアと笑いは、奥が深いテーマだと改めて思います。「吃音とともに豊かに生きる」僕たちにとって、ユーモアと笑いは、大きくて強い味方になります。
ユーモアセンス 2
ヨシトミヤスオ(漫画家・京都精華大学)
ユーモアの受け手と発信地
ユーモアの受け手と発信地、ユーモアを作る側と感じて下さる側、このように2つに分けますと、私は発信側に立つわけです。発信元は自分では笑わない。漫画家や落語家さんもそうですね。いつも斜めに物をとらえている。
一例を上げますと、私は、古典落語が大好きなんです。落語の枕にこんな話があります。「お暑いことで、お元気ですか」「ちょっとそこまで」「よろしいなあ、いっといでやす」これで別れてしまうのですが、相手の状態も判らず『よろしいな』と言ってしまう。
それがこうじて来ると、米朝氏の落語の枕に、京都人をかなり椰楡した話で”京茶漬け”があります。京都人のいやらしさとおもしろさを判っているつもりですが、これは、どこに自分が住んでいるのか、住所も言わず道も教えず電話番号も言わず、それなのに相手を自分の家に誘って、「約束でっせ」「よっしゃ、必ず」と言って別れるんです。こういうネタを落語家さんは探している。漫画家も同じようにジョークばかり探している。
仁鶴さんが庶民的な話をする。みんなはロールスロイスで来ている仁鶴さんを知っている。何が畳の波打った家や、立派な家に住んでいて、と思うが、その中でもへりくだってしゃべっているうちに話に引き込まれていく。
これを漫画に置き換えてみます。昔から漫画は奇麗な紙に刷ったらいかんと言われてました。汚いトイレで使うような紙に印刷する。そういう物で読者を引きつける。例えばゴーギャンやピカソの画集は絶対そのような紙では刷らない。なぜか、あれは芸術作品です。芸術作品とは寝転がって読んでもらっては困る。机の上に広げて読んでもらうものです。ところが、漫画は、どうぞ寝転んで楽な姿勢で読んで下さいと、そういう紙に刷っているんだそうです。
とにかく笑いをばらまく文化は、非常に安手な出方をしないといけない。これが日本の伝統的なユーモアの送り手の原則になっています。ですから、どんなにお金があっても、大学出の人もへりくだって作品を出すのです。
ユーモアとは、お互いの幸せにつながるもの
笑いの哲学を研究している人は少ないです。ベルグソンという人がいますが、この人は、「笑いとは残酷なものである。優越感を持つことが笑いを生じる一つである」と言いました。これが講じると、大変怖いことになります。いつでも優越的な立場にいる人が笑えて、真剣なものが笑われる立場になる、これは間違いのユーモアだろうと思います。たとえば、どつき漫才。あれは、ぼけ役が頭をたたかれると見ている人が笑います。そういうユーモアは、まだまだ文化的でないユーモアだと思います。
現代の世の中すべてがジョークか、駄洒落もジョークか、笑うことが全部ユーモアか、というと私はそうでないと思います。
ユーモアとは、人間同士が対等の立場で、お互いつき合っていく上で、両方の幸せにつながるものだと思うんです。そういうものが笑いでなかったらいかん、そんな気がするんです。
吃音とユーモア
映画監督の羽仁進さんがテレビに出ているのを見ていて、いつも女房と言ってるんですが、羽仁さんがどもるたびに、あの人良い人だなあと思うんです。ああいうふうに、堂々とどもって言われるとなぜだか親しみを感じます。
私も22~3年前に、突然声が全く出なくなりました。特に、講義をするとき、黒板の前に立ちますと「ウッ」となってしまって、声が出ない。みんな待っていると、よけいに出ない。
家におりましても、女房としゃべっているときに、電話がかかってくる。電話をとったら声が出ない。もちろん、いろんな病院へ行きました。京都大学病院の脳外科に回され、全部診察をしましたが、それでも分かりません。先生は「少し危険だが、やってみるか。朝からアルコールを飲みなさい」と言いました。私も嫌いな方ではないので、一週間朝からビールを飲みました。効果が出ませんでしたが、「とにかく病院に続けて来なさい」と言われ、「続けて来ます」と言っているうちに、だんだんしゃべれるようになりました。アルコールを飲めと言われるだけの病院に続けて行くのが、あほくさくなり、続けて行くぐらいならしゃべろうと思ったのかもしれません。でも今だに、話し始めは、かなり自分でもおかしいと思います。
ユーモアのある人は聞き上手
しゃべり上手、聞き上手と言いますけれど、本当にジョークの上手な人は、しゃべり上手な人じゃないんです。例えばアナウンサーですが、彼らがスピーチをするとジョークの下手なこと。話し方は非常にきれいですけどね。
本当のユーモアのある人は、聞き上手の人に多いので、皆さん方には、聞き上手になっていただきたいと思います。まず笑顔で話を聞くことです。私は中学時代、0点ばかりとっていたでしょう。先生に好かれようと悲しいまでの努力をしたんですね。家庭科の先生で授業が面白くない人がいました。教室がザワザワします。すると、先生は誰か一人を探しているんです。この人は話を聞いてくれるという人を。授業の初めに私が大きくうなずいたら、毎回私に向かって授業をするようになりました。私は居眠りできなくなりました。しゃべるってそんなもので、全体の人に聞いてもらおうと思えば、まず一人にしゃべれと、よく言います。
ユーモアとは
なかなか難しいのですが、しいて言うと、人生の中で、人間と人間が作り出す遊びじゃないかという気がします。遊び心というものがユーモア。ユーモア感覚とは、遊び心をもつゆとりじゃないかと思います。どうすればユーモア感覚が身につくか、簡単に言うと、ひとりひとりの努力に待つしかないということになるのですが、日常生活の中で、どんなことがあってもゆとりを持って生きていくということが何よりも大事です。経済的にゆとりがなくても、気持ちの上でのゆとりを、ユーモアに置き換えることができます。
これまでユーモアと全く縁がなかった人はどうすればいいかという質問がありましたが、私はこれ自体ユーモアだと思います。つまり、ユーモアと全く縁がなかったと自分で思われる方ほどユーモラスな人生をきっと送っていらっしゃるだろうと思うのです。ユーモアというものは、特別なものではなく、もっと日常的なものだと思うんです。
今の桂文枝師匠が、こんなことをおっしゃっていました。あるとき、京都で、一週間、独演会があった。そのときに、京都ほど嫌な所はないと思った、というのです。毎回、たくさんの人が来てくれた。初日、会場でお客さんがわいわいと笑ってくれている中で、一番前の一番真ん中にひとり座っている人が最後まで笑わない。やりにくいなあと弟子に言っていた。明くる日、また同じとこにその人が座っていて、周りがわーわー笑っているのに、その人だけ笑ってない。3日目になっても、同じ。4日目も5日目も、ずっと同じ位置でにこっともせずにいた。いよいよ最後7日目になって、頭にきて、弟子に、帰りかけているその人を呼びに行かせた。そして、こう尋ねた。「お客さん、7日間来て下さってありがとうございました。お客さん、なんですか、私になんぞ恨みがあるのですか」その人は「師匠、なんちゅうことを言うんです。師匠の芸が好きで好きで来てますんや。何をおいてもと思って、仕事を放っておいて来てます」「しかし、あんたを拝見してたら、7日間、一番前につめて、こわーい顔をしてこっちをにらんでいた」「えっ、そうか、師匠、そんな思って見てたんか。そう言われると、よう女房に言われる。あんたは顔で笑ったことがないなあ」という話です。腹の中で笑う人が京都には多いという話です。アハハと笑う人もいれば、ウフフと笑う人もいる。イヒヒと笑う人もいれば、笑わないという人もいる。世の中はこれでいいわけです。ユーモアやジョークを聞いて、心がなごむということが大事です。
ユーモアのトレーニング
生活の中でユーモアは、簡単にトレーニングできると思います。
講演で、いろんな所へいきますが、一回ひどい目にあったことがありました。朝10時からの講演で、後ろの方がお母さんたち、真ん中に若い人がいて、一番手前に平均年齢78歳くらいのおじいさんが15,6人並んでいた。この人たちは、お互いに意識してますから、笑わない。日本人は、特に、階層が一緒だと笑いがすぐ起こるんですけど、年齢層が明らかに違うとか、職業が全く違うとかになると、笑わない。5分くらいおきに、ジョークを入れながら話しました。よし、一発目。あかん、シーン。2発目。あかん、シーン。よし、とっておき。これやったら笑うやろ。しかし、また、シーン。もう帰ろかなと思うけど、帰るわけにいかん。30分くらいたったら、前からいびきが聞こえ出しました。ひとりが寝だしたら、連鎖反応で、隣の人も、その隣の人も、そのうちに将棋の駒倒しみたいに、パタンパタンと、ちょうど9割方くらいが寝た。もうどうしようもなくなり、やめました。黙りました。そのとき、はっと気がついたんです。おじいさんたちには、僕の話が子守歌だったんだと。私がぴたっとやめたものだから、おじいさんたちは起きました。私と目が合って、それからみんなどーっと笑いました。笑わそうと思ってユーモアをと思っても笑いません。
やっぱり人に笑ってもらうことに快感を覚えるというのが、ユーモアのトレーニングだと思います。子どもでも、奥さんでも、いいです。女房なんて笑わしてもしゃあないなあと思わないで、やってみることです。笑わせたら大成功です。大体、嫁さんて笑いませんよ。「あほ」と思ってこっちを見てる人が笑ってくれたら、大成功のギャグやと思って、やってもらったらいい。子どもでも笑いません。親父が「笑え」と言っても笑ってくれません。それでもこりずに日常的に、いろいろ発信していったらいいと思います。
話のプロでもお客さんがのってこないと、しらけてしまう。上手な聞き手が、上手な話し手を作るということはあると思います。聞き手が上手やったら、なんぼでもしゃべれるもんです。
これで必ず笑いがとれると思って言ったら、逆に絶対笑いがとれないということがある。そういうときは、後で、反省したらいい。そして、その反省は長くしないですぐやめることです。それを習慣にしたらいい。あほなことを言って、誰も笑わなかった。しまった、ばかにされたかなと思ったら、すぐそこでやめる。でも、また、次やってみる。それをやっていたら、だんだんうまくなってくる、多分ね。言う前にあまり深刻にこんなことを言ってはどうかしらなんて思っていると、誰でも言えなくなります。
テレビなどの舞台裏を見ることがあるのですが、とにかくひどくて、ジョークまで全部洗いざらい、リハーサルでやるでしょ。あれをやると、もうだめです。誰も笑わない。そういうジョークのしたてかたをするから、かたい感じのする番組になってしまう。ジョークというのは、言う人の人柄が出ますからね。
僕の名刺には、漫画家・京都精華大学教授と書いてある。その名刺を見る人は、漫画家で大学教授、ほうおもしろいですな、と言う。何がおもしろいねん、と思います。日本画家・京都精華大学教授やったら何もおかしくない。漫画家と大学の教授やから、おもしろい。大学というものは、世間から見るとステイタスが高い。漫画家は低い。その落差がおもしろいのでしょう。分かるけど、面と向かってそれを言われたら、むかっとくるだけで、私は何もおもしろくない。
世界のユーモア
世界で一番ユーモアのセンスのある国は、イギリスです。イギリスは、圧倒的なユーモア大国です。チャールズ皇太子が演説のときにジョークを言います。ジョークを言わなかったら名演説だと言われないくらいですから、とにかくジョークというのは、ものすごく洗練されています。
ユーモアに関していえば、イギリスの漫画は非常に品がよくて、笑いの質が高いです。イギリスに、今年の3月に廃刊になったんですけど、「パンチ」という週刊誌がありました。パンチテーブルという楕円形のテーブルがあって、立派な椅子がある。1841年から毎週金曜日にワインとかいろんなものを用意して、そこへいろんな名士がやってきて、その週の「パンチ」の漫画を批評し合うんです。そして、帰りに、自分のイニシャルを木に彫って帰る。チャールズ皇太子、アン王子、サッチャー首相など、いろんな人がびっしり彫ってあります。それを見ているだけでも、イギリスがユーモアを長い間温めてきているのだなということが分かります。
風刺漫画というのがあります。風刺というのは、本来ごんべんの「諷刺」を書くのですが、ことばの風、今流に言うと、風で刺す、つまり針で刺すよりももっと穏やかで、風でふわっと刺すように、遠回しに娩曲に何かを言って、それを権力者に当てるということです。これが風刺につながるわけです。風刺漫画の笑いというのは、対等の人間のつき合いの上での社交術というのではなくて、自分よりうんとはるかに権力をもった人に対して、弱い人間がユーモアでやっつけるといいますか、射るというか、そういうことだと思います。風刺漫画が一番好きな国民は、フランスです。フランスは風刺の国、イギリスはユーモアの国と言われます。アメリカは雑居です。
気楽にユーモアをおつくりになったり、ユーモアを好きになっていただくのが一番いいかなと思います。
イギリスの漫画に、こんなのがあります。はげ頭のおじいさんがいて、はげた頭の上にハエがとまっている。そのハエをじっと見て、キリをもって、ハエを突こうとしているのです。口で言うとおもしろくないけれど、漫画でみると非常におもしろいです。次に何が起こるかとみんな思っている。まあそんなことばっかり漫画家というのは考えているわけです。多弁の必要は全くない。もちろん、短いことばで何かを言われた時、非常にそれがおもしろいということはあります。みんなが互いに、優越感を持つということでなくて、お互いに笑えるような世の中をつくっていかなきゃいけないなあと思います。笑いが出ないような、殺伐とした世の中だけは作りたくないなあと思っています。漫画を見て、笑ってもらえる読者を作っていかなければ、商売にならないのです。ゆとりのある人たちが増えていくことを期待しています。(「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128)
日本吃音臨床研究会の伊藤伸二 2024/05/25