私の聞き手の研究 2

 2002年8月に開催した第2回臨床家のための吃音講習会での水町俊郎さんのお話の紹介を続けます。一昨日紹介した、〈はじめに〉のところで、水町さんの背景が分かります。
 僕は、学会や研修会など、いろいろな実践発表を見聞きしますが、書いた本人がどういう人なのか、どんなことを考え、何を大切にして生きてきたのか、人柄というか背景というか、それらを知った上で、その実践を読ませてもらうのが好きです。講演もそうです。だから僕も、どんな人間なのか、まず自己紹介をして、話を始めるようにしています。
 水町さんの話の本題に入ります。ウェンデル・ジョンソンの背景である、一般意味論、言語関係図から始まります。言語関係図がわかりやすく説明されています。

  私の聞き手の研究 2
                          水町俊郎(愛媛大学教授)

一般意味論

 ウェンデル・ジョンソンの背景の、キーワードは一般意味論です。『国語教育カウンセリングと一般意味論』(明治図書)の中に、一般意味論の定義として二つの事例が紹介されています。
 ある若い娘さんはインテリアデザイナーと結婚したいが、「インテリアデザイナーみたいなニヤけた職業のやつと結婚することは許せない」と両親が強く反対して許さない。そのことをその若い娘さんはこういうふうに言っている。
 「デザイナーと聞いただけで何か浮ついた職業のように思う。それじゃ彼が可愛そうです。早く両親に死なれ苦労して学校を出た人で、本当に真面目なんです。父たちはどうして会ったこともない彼をダメな人間と決めこむことができるのでしょう。一度でいいから彼に会ってくれればと思う」
 子どものことで相談にきた母親がカウンセラーに、「うちの太郎はとてもわがままで困ります。親の言うことなどてんで聞きません」と言う。そして、カウンセラーが何を聞いても答えの最後には必ず「うちの子はわがままだから」と付け加える。
  うちの子=太郎=わがまま
  デザイナー=浮ついた職業
 このように、周囲が決めつける固定観念、あるいはレッテル貼りが、両者に共通しています。また、レッテルを貼る心理経過も共通している。「どちらも事実を十分に見極めようとせず、確認しないで、言葉に反応してレッテルを貼っている」ということです。
 論理療法で問題にするようなことを言っています。言葉に反応して、レッテルを貼る。そのレッテルはその人がたまたま見たり聞いたり経験したりした幾つかの例を過度に一般化して得られた産物です。このようにレッテル貼りをするということは、それにある言葉を与えるということです。
 1回レッテル貼ってそれに言葉を与えると、その言葉が一人歩きをして、その後の人間の行動に影響を与えます。言葉はそういう力を持っているのです。そういうことを背景にしながら、一般意味論を次のように定義づけています。
 「一般意味論は人々がいかに言葉を用いるか、また、その言葉がそれを使用する人々にいかに影響を及ぼすかについての科学である」
 一般意味論とは論理療法の基本的な考え方と全く同じなんです。一般意味論の基本的な背景を、私なりに整理をいたしました。

吃音の問題の箱

 ウェンデル・ジョンソンは、吃音の問題の箱について次のように言います。
 吃音症状であるX軸に関しては、流暢にしゃべるように、です。どもらないようにしゃべりなさいではなく、どもってもいいから、以前よりも楽にどもればいいと言います。流暢に、どもらないで話すことだけで、人間は生きているんじゃないと言っています。アイオワ学派の人たちがそうですが、怖れや困惑を持たず、吃音を回避しないで、異常な行動は最小限にしてどもれるようになりなさいと言っています。二次的な、心理的な問題までいかないことの方がもっと大切なんだと言います。
 Y軸に関しては、子どもに限定した表現の仕方がなされていますが、大人に対しても同じことです。周囲がどうあるべきか。子どもにとって心配、緊張、非難のない意味論的環境を整えるよう求めています。意味論的環墳とは、個人を取り巻く、つまり周囲の社会が持っている態度、信念、制御、価値観あるいは既成概念などのことを言います。「どもることはいけないことだ、どもることは恥ずかしいことだ、すらすらしゃべるべきだ」という意味論的環境の中で子どもが育つと、子どもがそれを内面化してしまって、どもることに対して罪悪感を持ったり、しゃべることを避けようとしたりする。そこが諸悪の根元だという考え方です。
 そうならないようにするために、ポイントを3つ挙げています。
①子どもが価値ある一人の人間として取り扱われる。
 どもりだからどうこうじゃない。いろんな個性を持っているいろんな人がいるけれども、一人一人それぞれ意味があるんだということです。子どもを価値ある一人の人間として、かけがえのない存在として取り扱ってほしいということです。
②子どもがどんな話し方をしてもそのまま受け入れる。
 どもるからだめじゃなくて、どもろうが、どもろまいが、話の内容が分かればそれでいい。どもることを否定しないことだ。どもる子どもがどんな話し方をしても、まずそれを受け入れるような状況を作るようにしてほしいのです。
③わざとどもる「随意吃」。
 随意的にわざとどもることを適切に指導すれば、非常に効果があると書いてあります。今までの意味論的環境は、どもることはいけないことでどんな変な話し方をしてでもいいからどもらないようにしましょうでした。それをがらっと反対のことを求めて、どもってもいいんだよ。どんどんどもりながらしゃべりなさいという。わざとどもるというのは、一朝一夕にはできないだろうが、どもってもいいんだよ、ということになると、どもることを避ける傾向が、結果として弱まることになる。したがって、結果として、どもることが少なくなるだろうという予測が、背景になる考え方としてはあるわけです。
 成人吃音の場合は、周囲の意味論的環境、周囲の在り方が、吃音に対して理解のあるような状況になってほしいという希望は継続してあっていいのですが、もう一つそれに加えて、吃音者自身が、やはり自己変革の努力をする必要があると言っています。つまり、環境が変わってくれるのを待つのではなく、成人吃音者の場合は自らが意味論的環墳を変えていく努力をすべきであるというのです。人が、吃音者である自分に対してどういう目で見ているのか、どもることに対してどういうことを言ったのか、どういう対応を実際にしたのか。現実を見極め、それと自分がどう向き合うかが大切だということです。他人が下す評価が、吃音者自身の生活に影響する度合いは、人によって大きく違います。受け入れるこちらの態度に大きく左右されます。それこそ、人はいろいろですから、周囲はいろんな反応をします。そして、その相手の態度をどう受け取るかによって、その人が受ける影響も違ってきます。ある状況をどう受け取るか、受け取り方の世界が非常に重要だと、論理療法では言いますよね。同じことを、ここでも言っているのです。
 周囲の、吃音者と吃音を否定するような意味論的環境の中で、吃音は起こったのでしょうが、大人になった以上は、過去のことばかり考えないで、自分自身が吃音を持ちながら、どう生きるかを考えないといけません。そのためには、周囲の状況をどう受け止めるか、どう受け取るか、です。受け取り方自体には、今度は自分の責任が出てくると、ウェンデル・ジョンソンは言っています。(「スタタリング・ナウ」2004.10.21 NO.122)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/29

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