金鶴泳の日記より~吃音に関する記述~
金鶴泳さんは、日記を書いていました。大学ノート22冊に記された、1965年10月1日から1984年12月28日までの日記の中から、吃音に関する箇所のごく一部分を紹介します。吃音との闘いの日々、そして吃音の苦しみを小説に書いたことによって吃音から解放されたことが綴られています。しっかりと吃音と向き合っている姿が伝わってきます。
「吃音者とは、吃る者というよりは、吃ることを苦にする者の謂なのだ」
このことばに、金鶴泳さんの思いが凝縮されているように思います。
1965年10月14日(木)雨。〈27歳〉
…重く息苦しかった。得体の知れない圧迫感に、今日も苦しめられた。神経が少し弱っているといったふうで、神経衰弱に陥ったかのような、招待の知れない恐怖感に悩まされた。
また少し吃音がひどくなっているようで、それがいけないらしい。
言葉、会話に対する”恐怖感”とでもいったものが常に潜在的にあって、一人でいるとき、家にいるときはそれを全く感じないのだが、他人の中にあるとそれがにじみ出てきて、精神を圧迫するらしい。朝の10分間をでも、発声練習、呼吸練習とかにあてるべきかもしれない。そういった試みは過去に何度も、しかも長期間試みたことのあるものだが、そしてこれといった効果の見られなかったことなのであるが、しかしそれでも、やらないよりはやった方がましかもしれない。
化学がたえられないとは、すなわちこの圧迫感がたまらない、ということかもしれない。私が文学に興味があるのは、文学が常に人生をテーマにしているからであるが、私が文学することに興味があるのは、それは文学が孤独な作業であるからである。
朝の時間の10分間を、ちょっとした発声練習にあてることを習慣にしたら、どうであろうか。それを1年、2年と続けていったときには、バカにならない効果がでてくるかもしれない。かつて、大学1,2年のころ、15分間ほどの腹式呼吸練習を、1年、2年ほど続け、それでも別にこれといった効果もなかったのだが―。これに関する効果はむずかしい問題だ。しかし、そうすることは、精神にある種の緊張を与える意味でも、無駄ではあるまいと思う。
何々でなければならない、ということはない。それを教えるのが文学であるはずだ。種々な形の人生があり、そしてあっていいのである。せまくるしい考えは、いけない。
吃音に悩まされるということは、これは下らないことだと思う。その下らないことに悩まされているということが、また、なさけないのである。この種のことについては、あまり書きたくない。
1965年11月22日(月)晴れ。
今月1日から、朝のひとときを吃音矯正のための時間にあてているのだが(その記録は日記別冊に記してある)、それにもかかわらず、このところ、妙に吃音が昂じている。今日もまた、研究室で、ひどく吃った。吃音者の悲哀を、今日も、しみじみと舐めさせられた。教授に会ったのだが(特許の件で)、そのときにも私は何にもしゃべれず、中島氏がしゃべっていた。…半月余り前から、「吃音者の告白」(仮題)を書きはじめている。私はこの中で、吃音者特有の心理を、克明に描きたいと思っている。そして私はそれを描けるはずである。
1965年12月4日(土)曇り、後雨。午後、晴れ。
吃音のひどい日だった。デパートで、じつにみじめな思いをした。ほとんど声が出ず、小生意気な店員に、軽くあしらわれたのだった。
〈吃音ヲ直サナクテワイケナイ〉
吃音をなおさなくてはいけない。吃音であるかぎり、自分は全くだめな人間である。私に求められていることは、まず、吃音を駆逐することであろう。吃音矯正練習のための呼吸練習や発声練習を、これから少し強化するつもりである。
1972年7月28日(金)曇り。〈34歳〉
…私にとって小説を書く動機となったキズ、私を抑圧し、私がそこから解放されたいと最初に願った所の殻は、そのように、朝鮮人としての民族的桎梏ではなく、吃音の壁であった。私は、4歳になってもほとんど口をきくことをしなかったので、両親が一時は唖ではないかと心配したというほど、幼時から重症の吃音であった。
吃音者というのは、容易に察せられるように、自分と外界とのあいだの意思の疎通がままにならない人間である。人間と人間との接触の媒介をなすものは、つねにほとんど言葉であり、その言葉が思うように口から出ないのであるから、吃音者はつねに不本意な孤独を強いられている。私にとって原初的な「殻」は、この吃音の殻であった。
…吃音の苦しみを書いたことによって、吃音から解放されたのはその顕著な例である。むろん、吃音そのものが消えてなくなるわけではない。だが、吃音から派生するさまざまな神経症的苦痛からは解放された。吃ったってかまわないではないか、と考えられるようになった。したがって、吃ることを苦に思わなくなった。そして、吃音者とは、吃る者というよりは、吃ることを苦にする者の謂なのだ。(「スタタリング・ナウ」2004.8.21 NO.120)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/17